そして繰り返される
――家族はね、なんでも話せる仲間だよ――
けっ、嘘つきやがれ。んなわけねえだろ。
俺は思いっきりPTAの立てた公園の看板を蹴飛ばした。
いってぇ。
思ったより看板がかたくて、俺は足をかかえてケンケンする羽目になった。
ちくしょう。どいつもこいつも馬鹿にしやがって。
俺は嫌悪感たっぷりに看板につばを吐きかけてやった。この看板さえなけりゃ、この公園はいい場所だ。誰も来ねえしな。
夕刻に近付くとどんどん憂鬱になってくる。家に帰らなけりゃならないからだ。学校も嫌いだけど家はもっと嫌いだ。早く大人になりてえ。そしたらあのくそババアに唾吐きかけて出て行ってやる。今に見てやがれ。ちくしょう!
あーあ。中学生になれば少しはあのババアから解放されると思ってたのによ。甘かったぜ。もう帰る時間か、いまいましい。
俺は五時のチャイムが響き渡る公園を、重い足取りで帰路についた。
「ただいま」
玄関のドアを開けるなり、鬼ババアが仁王立ちになって立っていやがった。
またかよ。今度はなんだ? 俺の隠しておいた七十八点のテスト用紙でも発見したか?
俺は心とは裏腹な神妙な顔をして、上目遣いにババアを見た。
「そこに座りなさい」
はいはい、わかってますよ。
鞄を置いて、玄関の冷たい床に正座し、うつむいた。
「どこへ行っていたの?」
俺は黙っていた。部活に行ってない事がどうやらバレたらしい。ここで嘘つくと説教が長引くんだよ。早いとこ謝っちまった方がいいな。ま、謝ってもなんだかんだ長引くんだけどな。
「ごめんなさい」
俺は蚊の泣くような小声でふるえながら言った。情け容赦なく、ババアの物差の鞭が俺のひざの上の手の甲に飛んだ。いつものやつだ。セルロイドの透明の三十センチ物差。俺の身体はびくっと反応した。涙がじわっと滲んだ。
「謝って欲しい訳じゃないのよ。どこに行っていたのと聞いているの」
ババアは妙に冷静な声で冷たく笑った。……ように俺には見えた。
「公園でぼーっとしてました」
「うそおっしゃい!」
二発目は左の手の甲に飛んだ。
うそおっしゃいってさ、うそじゃねえんだけどな。
俺は手に力を込め、痛みを忘れるため、別の事を一生懸命考えた。
「服をお脱ぎなさい」
そら来なすった。
俺は従順に、そしてテキパキと制服を脱ぎはじめた。抵抗したところで無駄だと、幼いころからわかっている。儀式だと思ってさっさと終わらせるしかない。だが一応、Tシャツとパンツ姿になって動きをとめた。
「全部よ」
物差は俺の素足の太ももにピシャリと飛んだ。
やっぱりな。この変態バアアめ。息子の裸をむち打ってそんなに楽しいかよ。
バアアのむち打ちコースはだいたい決まっている。まずは背中から、次は前から、正座させて腕と太もも、物差が折れて、はいおしまい。ああ、早く折れてくれねえかな、物差。今度細工でもしとくか。
「公園でぼーっとするなんて、わざわざ部活だなんて嘘ついてまでする事なの? どうせならもっとマシな嘘をつくのね」
背中に三発連続。
「親を騙して何をたくらんでいるの!」
尻に三発連続。
「なんとかおっしゃい!」
足に三発連続。
「ごめんなさい。部活でいじめられて行きたくなかったから」
強烈な一発が背中に飛んで来た。
しまった。余計な事言っちまったか。ババアはいつもどこまで知っているか、誰から聞いたのか隠して、俺のさらなる嘘を引き出す。ますます俺を打ち付けるために。
「また嘘をついたわね。一つ嘘をつくとどんどん嘘を重ねる事になるのよ。私は嘘をつく子を育てた覚えはないわ」
俺だってお前に育てられた覚えはねえよ。何で嘘つくかだって? お前がつかせてんだよ。なんでわからねんだ。お前がどうでもいいことでこうやって怒りまくるからだろ。ふざけんな。
物差の連続攻撃は尚も続いている。俺は痛みに堪える為、心の中で思いっきりババアを罵った。
「前をお向きなさい」
静かで威圧的なババアのモノの言い方。俺の大嫌いな。顔をあわせたくねえ、まだ背中を打たれてた方がはるかにマシだ。
ババアは物差を俺の顎の下に差し込み、顔をあげさせた。
「なんなの! その反抗的な目は!!」
怒り狂ったババアは俺の頬を物差でひっぱたいた。
こんな事されて反抗しないやつがいっかよ。そう思いながら、
「ごめんなさい。反省してます。もう二度と嘘はつきません」
と念仏のように唱えた。悔し涙がぽろぽろとこぼれた。
なんで俺はこんな家に生まれちまったんだ。ほんの些細な願いすら叶わない。何を言っても何をしても必ず物差が折れるまで打たれる。なんで俺ばっかりこんな目にあうんだ。
俺は公園の看板を思い出し、みじめな気持ちですすり泣いた。
何でも話せる家族なんて、本当にいるんだろうか。他の親は物差で打ったりしないのか。友達と遊ぶ約束をしても怒られないのか。好き嫌いを言っても叩かれないのか。テストで百点をとらなくても殴られないのか。誕生日に欲しいものを言っても笑ってくれるんだろうか。母の日に似顔絵を渡して喜んでくれるんだろうか。
様々な事が思い出されてこれ以上ないくらいみじめな気持ちが浸透する。その間にも絶え間なくふるわれる物差の痛みは、だんだん麻痺してくる。俺はただただ泣いていた。
「泣けばいいってもんじゃないのよ!」
ンな事言ったって泣かずにいられっかよ。
俺は大人になったとき、こいつを殺さないでいられるかどうか自信がなかった。
しかし、痛みはまだ耐えられる。耐えられないのは裸のまま外に出される事。玄関のすぐ目の前はもう道路だ。しかも通学路ときてやがる。いつ学校のやつらに見られるともわからない。逆らってそんな屈辱を味わうくらいなら、服従のフリなんてなんでもない。
ピシッ!
やった! とうとう物差が折れた!
折れた物差の破片が頬を掠め、予期しなかった痛みが走る。そっと指でなぞると、わずかながら血の感触があった。
状況がよくのみ込めない。頭がぼんやりする。
見回した部屋の中はどこかで見た事がある。目の前の小さな女の子はなぜ裸なんだ。なぜ俺は折れた物差を握っている!?
訳がわからなくなった俺の口から発せられた声は、おやじくさい声だった。
「もういい。服を着て自分の部屋に戻れ」
そうだ、あれから20年以上経っている。それなのになぜ今さら白昼夢のように昔が蘇るんだ。ふるえながら服を着ているのは、確かに俺の娘だ。だが、俺は娘を折檻した事など少しも覚えていなかった。折檻……していたのだろう。娘の柔らかい皮膚に物差の無情な痕が見える。
なぜだ。
あんなに憎んでいたあの女と同じ事を、なぜしてしまうんだ。
娘の中にあの女の面影が見えるせいなのか!?
それとも俺の中に流れるあの女の血が、俺をそうさせるのか!?
家を飛び出し、新聞配達をしながら大学に行かせてもらった。大学だけはどうしても行っておきたかった。あの女の頭がおかしいのは、教育を受けていないからだと思ったし、俺は理想の家庭を築きたかった。それなのに、きちんと教育も受けたのに、なぜなんだ。
あれから一度もあの女には会っていない。生きているのか死んでいるのかさえわからない。だが、俺の中であの女が死ぬ事はないんだ。
永遠に、永遠に俺を縛るつもりなのか!? もうやめてくれ。
娘が泣きながら出ていった。
俺は今仕事でも重要なポストにつき、理想的な優しい妻を得て、可愛い娘を授かり、郊外に書斎つきの一軒屋も手に入れた。幸せなはずだ。何も不満なんかないはずだ。
俺は無意識に皮張りの椅子に深く腰を降ろし、右手でデスクの引き出しを開けていた。ふっと視線を移すと、そこにはいつ買ったのかさえわからないセルロイドの物差が、ところ狭しとぎっしり詰まっていたのだった。

