恋愛小説〜光の中で
第二話「分岐点」
気持ちばかりが焦って、正確にキーボードを打つ事が出来ない。身体が小刻みに震えた。
たった今決心した事が、早くも揺らぎはじめている。
――何て書けばいいの?
彼が席を離れる前に、急いで何かを打たなければ。そう思うが、一つも言葉が浮かんで来ない。
だがやがて冷静になってくると、遥は今日が平日だという事を思い出した。
結婚するような年令の男性が、平日の昼間インターネットにアクセス出来る環境。それは会社しかない。もし、いつも会社からアクセスしているのだったら、メールアドレスは変わらないはずだ。そんなに急がなくても大丈夫。……きっと。
急に怖じ気付いた自分の心に言い訳をする。
心臓が痛いほどに激しく波打った。
カタン。
びっくりして叫び出しそうになった。
クリスだった。ドアに付いている小さな入り口から入って来て、遥の足下に悠然と近付く。
三歳になるクリスはもうあまり激しくじゃれて遊ぶという事はなかったが、時々遊んで欲しいとこういう顔をして尻尾を立てるのだ。
とにかく落ち着く為に、遥は一旦マシンの前を離れ、クリスを抱き上げた。
みゃ〜
機嫌が良いとは言えない低い鳴き声だった。遥の心が他に奪われているのが不満なのだろう。ネコはいつだって人間を奴隷のように思っている。時々忌々しいが、クリスを抱いている時の幸せな気持ちを考えると、許してやろうという気になる。
――とにかく、落ち着いて、落ち着いて考えるのよ。
遥はすぐ隣のベッドに腰かけ、クリスを膝にのせた。クリスを撫でていると、いつもはすーっと気持ちが柔らかくなるのに、今日は一向にダメだった。ドキドキはおさまる事を知らず、遥の指を通してクリスにまで伝わり、クリスは不機嫌に身を起こして膝から飛び下りた。
「ここにいてよ」
泣き出しそうな情けない声に振り向く事もなく、クリスはドアに付いている小さな自分専用の入り口から出て行ってしまった。本当に涙が出て来た。
――私はいつもそう。どんな事からも逃げ出す事ばかり考えている。
僅かだが、落ち着きを取り戻したような気になって、再びメーラーを起動する。いつもの習慣でメールチェックをした。
三通来ているようだが、どうせダイレクトメールだろう。そう思って期待せずにダウンロードされたメールに視線を移す。何気ない動作だ。
が、凍り付いたように動きが止まった。一緒に心臓も止まったのではないかと疑うほど、ピクリとも動けなかった。息も出来なかった。涙さえも止まった。考える事も出来なかった。
三つ並んだメールのまん中、上下はかすんでいてよく目に入って来ない。まん中のメールだけが光の中にあった。
――mac2000 こんにちは 01.7.5 0:59PM――
今まさにメールを出そうと思っていた相手から、メールが来た。遥は何か運命めいたものを感じはじめていた。そっとmac2000の文字の上にカーソルをのせる。それだけで愛おしい気持ちになれる。運命が、怖じ気付いた遥の背中を押してくれようとしているかのようだ。
無意識にクリックすると、短く礼儀正しい文面が表示された。
――HARUさんこんにちは。
いつも株の掲示板でお話させていただいておりますmac2000です。
たった今掲示板に投稿したのですが、自分の事で舞い上がってしまい、HARUさんの書き込みを見落としておりました。
二度投稿するのもためらわれるので、メールをお送りする失礼をお許し下さい。
私はこの株が、PERからすればもっと下がるだろうと考えています。
塩漬けにしたくない資金であるなら、今日が売りでしょう。
余剰資金があり買い増す事が可能なら、もう少し待つべきかと考えます。
あくまでも私の予想ですので、HARUさんはHARUさんの思うようにがんばってくださいね。
それでは、しばらく御無沙汰すると思いますが、お元気でお過ごし下さい。――
ゆっくりと、何度も噛み締めながら読んだ。自分の事が手一杯の時でも、ちゃんと他人に思いやりを示せる人だ。掲示板では遥より彼と長い付き合いの人がたくさんいる。人によってはmac2000さんに対して、親し気なくだけた口調になったりしている。しかし、mac2000さんの対応は、完璧なまでに平等だ。親しい人にも、新しい人にも、等しく親切で礼儀正しい。
そんな彼と結婚する事になった女性は、どんな人だろう。mac2000さんが邪な気持ちを持って女性を誘うところなんて、考え付かない。きっと遥と同じように彼を好きになってしまった女性が、強引に誘ったのに違いない。
遥は自分に都合のいい様に勝手にそう決めつけた。
「返信」をクリックする。
考えると絶対書けない。何も考えないで書こう。そう思い、乱暴ともいえる勢いで、キーボードを打ち始めた。
――mac2000さん、こんにちは。
いつもお世話になってばかりですね。
アドバイスありがとうございました。もう少し様子を見る事にいたします。
掲示板でご結婚されると知りました。
おめでとうございますと言うべきなのでしょうけれど、私には言えません。
とても悲しいからです。
mac2000さんにお会いしたい。
ご結婚される前に、1度だけ会っていただけませんか?
mac2000さんが好きです。 HARU ――
書き終わるとすぐに、読み返さないで送信ボタンを押した。その瞬間、全身にヒヤッとした感触が走り、汗が吹き出した。
――出してしまった。
読み返せば必ず迷う。なんて書いたらいいのかなんて、考え付かない。だからすぐに送信した。送信したメールは送信箱の中に入る。そこから出してもう1度読み返す勇気はない。思った事を思ったままに素直に書いたつもりだ。
もし返事が来なくても、最悪、断りの返事が来ても、遥にとっては出さなかったのと同じ事だ。出さなくても、出して返事をもらえなくても、断られても、会えない事に変わりはない。だったら、出さないより出してみた方がいいに決まっている。
時刻は1:14PM。
遥はパソコンの電源を落とした。
このままここにいれば、十秒毎にメールチェックをしてしまうだろう。その度に、返事がない辛さに耐えるだけの自信がなかった。せめて一時間でも二時間でも、パソコンをつけないで済むようにしたい。
遥は立ち上がって寝室を出た。
居間の窓をあける。庭に水をやらないと、鉢植えの元気がない。雑草もちらほら見えている。そのまま外に出ようとして、まだ着替えていない事に気が付いた。眠る時に愛用しているゆったりとしたロングのスリップドレスは、部屋着としては通用するが、庭に出るには無防備すぎた。
遥は窓を閉め、エアコンを入れた。設定温度は二十度になっている。古い家なのであちこち隙間だらけで、低い温度に設定しないと冷えないのだ。
クリスは外を探検中らしい。姿が見えない。
遥はエアコンが早く効くように、ネコドアが付いている扉だけ全部閉めた。ネコドアのないキッチンへの扉は開けたままにしてある。ふと、キッチンに足を運ぶと、案の定缶詰めが一口、お皿に残されてひからびかけていた。
遥はクリスの残した缶詰めを、生ゴミ処理機に入れた。そして皿を洗い、冷蔵庫に入れた。暑いので皿を冷やしておいてやるのだ。そうしてやるのは遥の自己満足の為だ。クリスがそうして欲しいと訴えたわけではない。実際のところ、それでクリスが喜んでいるのかどうか、遥にはわからなかった。
それから、シャワーを浴びる為に洗面所へ向かった。リフォームで取り付けた全自動の給湯器で、湯温を三十九度に設定する。昨日までは四十一度になっていた。
浴室はリフォームしなかったので、床は趣味の悪い配色の、昔ながらの丸いタイル張りで、壁は普通の四角い白いタイルである。浴槽は人に貸した時リフォームしたままのステンレスだった。シャワーは給湯器と一緒に新しいものに変えた。そこだけが別の空間のように違和感があるが、遥には気にならなかった。
そうしている間にもmac2000さんから返事が来ているのではないかという期待で、心臓が痛い。なるべく考えないようにしようと思っているのに、他に何も考えられなかった。
シャワーを全開にして目を閉じ、頭からぬるま湯にあたっていると、知らず知らずのうちに妄想の世界に引き摺りこまれた。
全身に撫でるように指をはわせる。濡れた肌にすべる指の感覚は気持ちがいい。
――どこでお会いしよう。
遥はしばらく出ていない都会の町並みを思い浮かべる。しゃれたカフェや木陰のあるおしゃれな通り。mac2000さんは清潔で真っ白なポロシャツを着て、遥に笑いかける。でも遥は恥ずかしくてmac2000さんの顔を見る事が出来ない。だから、どんな顔なのかわからなかった。
三年間、一度も感じた事のなかった淫らな欲望が、突然遥に襲い掛かって来た。振り切るようにブルッと身を震わせると、遥は我知らず自分の両腕を抱き締めるように、強く抱え込んでいた。
欲望は嫌でも不倫の情景を思い出させる。少しも面白くないありがちな不倫だ。
新卒でコンピュータ関係の会社に入社した時、遥は処女だった。今まで男性とつきあったこともあるが、深い関係になるのがどうしても怖かった。だから土壇場になるとすぐに逃げ出してしまい、後が気まずくなって別れる。その繰り返しだった。
遥はこれっぽっちも結婚したいとは思っていなかった。結婚生活とは遥にとって、父と母の生活だ。少しもまねしたくない。だが、恋人は欲しいと思っていた。それなのに。
思い出すと悔しくて涙が出る。シャワーが、涙を洗い流してくれるよう、遥は目を閉じて上を向いた。
好意を持っていたのは否定しない。だから残業の手伝いを頼まれた時も、悪い気はしなかった。食事に誘われた時も、嬉しかった。だが、好きと感じるほどではなかった。最初から既婚である事も知っていたのに、恋人の対象として考えられるはずがない。
たぶん自分が悪いのだろう。世間知らず過ぎたのだ。建物に入るまで、車がどこに止まったのかも気付いていなかった。ラブホテルに連れて行かれるなんて、思ってもいなかった。勝手に良い人だと思い込み、信じすぎたのだ。
気付いた時だってすぐに断るか逃げるかすればよかったのに、されるがままになってしまったのは遥自身だ。相手を恨むのは間違っている。
こんな事を思い出してしまった自分に嫌気がさし、遥は思いきり頭を振った。肩までの濡れた髪から雫が飛び散った。ボディソープをたっぷりと手に取り、それを嫌々身体になすりつける。あの二年間を思い出すと、自分の身体に触りたくないくらい自分を嫌いになる。でもおかげでメールの事はしばらく忘れていられた。
シャワーから出てバスタオルをひっかけ、裸のまま着替えを取りに寝室へ行く。濡れた髪から水がポタポタ滴り落ちるが、気にならない。ちらりとパソコンに目をやる。電源に手を延してしまいそうな衝動を必死に押さえ、遥はまだよく水分を拭き取っていない身体に、平気で下着をつけた。今は、自分の身体を愛おしんでやる事は出来そうもない。乱暴にTシャツとジーンズを身に付け、急いで寝室を後にした。
虫よけスプレーをかけるのも忘れて、遥は居間の窓から小さな庭に出た。いつもそこから庭に行くので、庭用の踵のないサンダルが用意してある。
外は焼けるような暑さだった。
びしょびしょの髪から落ちた水滴が、白いTシャツを濡らしていたが、あっという間に乾きそうだ。
遥は一心不乱に雑草と格闘しはじめた。何も考えるまい。そう思えば思うほど、頭の中に取り留めもない事が浮かんでは沈んで行った。最後に、汚らわしい自分がどんなにmac2000さんに相応しくないかを思い知り、うちひしがれた。
いつでも別れる事は出来たはずだ。それをずるずると二年間引き延ばしてしまったのは、はっきりと拒絶出来なかった自分のせいだ。
そうだ、拒絶出来なかった。逃げられなかった。愛してもいない男が与えてくれる快楽から。
道路に面していない庭は、いつでも日当たりがよいとはいえないが、この時間には太陽が照りつけている。泥だらけになって、地面にしゃがんで、それでも日ざしは遥の顔にも腕にも突き刺すように照りつける。三年間気にせずそうしてやってきた。だが突然、日焼けしたくないという思いが、沸き上がって来た。
運命は味方してくれている。mac2000さんにはきっと会える。
――どんな顔で会うの? 化粧もしない日焼けだらけの顔で?
日ざしはまだ強い。遥は草むしりを途中で放り出して、居間の窓から室内に駆け上がった。ひんやりとした空気が気持ちいい。一直線に洗面所にかけて行くと、小さな鏡は曇っていた。
最後に鏡を見たのはいつだったか、思い出す事が出来ない。誰にも会わない暮らし、誰の目も気にしないでよい暮らし、鏡なんて見る必要はなかったではないか。
遥は手を洗って、そばにあったタオルで鏡を拭いた。ぼんやりと、遥の顔が映る。
――私はまだ綺麗かしら。
遥には鏡の中の自分が綺麗には見えなかった。
今着たばかりの服を脱ぎ散らし、遥は再びシャワーを浴びた。泥だらけの手を丁寧に石鹸で洗うが、落ちない。
こんな手をして、こんな顔をして、好きな人に会う事は出来ない。日焼け止めだって持っていない。化粧品だって持っていない。新しい洋服だって三年間一度も買わなかった。遥の気持ちは焦りだした。
――もし、明日にでも会ってくれると言われたらどうしよう。
遥は急いでいた。大急ぎで出かけなければならなかった。自分を美しく見せる小道具を買う為に。
髪も乱暴に乾かし、選ぶ余裕もなく服を着て、遥は最寄りのJR国立駅まで走った。駅までは徒歩二十分はかかる。が、バスを待っているだけの心の余裕がなかった。
電車はすぐに来た。身体中が熱いのは、走ったせいなのか恋のせいなのかわからない。電車の中は冷房が効いていて気持ちが良かった。
席は空いていたが遥は立ったまま、出入り口近くのステンレスのポールにつかまっていた。外の風景が流れて行く。こんな様子を見たのは何年ぶりだろう。中央線快速は小気味よいスピードで景色を蹴散らした。
遥は吉祥寺で降りてパルコに向かった。ここが一番家から近く、オシャレなものを売っていそうだったからだ。
化粧品、日焼け止め……選ぶのは楽しい。何種類もある口紅の色をあれこれ試して鏡を覗く。しかし、その途端、楽しい気持ちが沈んだ。くすんだ肌に明るい薄紅色の口紅は少しも似合っていなかった。
遥はパルコを飛び出して、駅周辺にエステを探した。すぐにやってくれるお試しの看板の出たエステを。
たくさんあったが一番近いところに入った。お金はいくらかかってもよかった。クレジットカードを持っているし、貯金もある。
エステのお試しは餌であり、足を踏み入れれば何十万、何百万のコースを組まされると知っている。だが、今日の遥はそのコースを組むつもりでいた。とにかく何でもいいからすぐに綺麗にして欲しかった。
三時間かけてたっぷり美顔、痩身、脱毛などのフルコースを受ける。一体いくらのコースにサインしたのかさえ、遥は気にしていなかった。次の予約は明後日にした。エステで、化粧品も買った。
プロにメイクしてもらうと、遥はやっと、まだ自分は充分若く美しいと感じる事が出来た。
次は美容院を探した。予約を入れておけば良かったと後悔したが、先にそんな事を考える余裕はなかった。平日でも夕方の美容室は混んでいた。遥はカットとヘアエステを予約して、パルコに洋服を見に行った。ちょうどバーゲンシーズンで、店内は混み合っている。
遥は夏らしい空色のワンピースを試着してみた。しかし、化粧をしていても焼けた肌は白いとは言えず、空色は似合わなかった。あれもこれもあてて鏡を覗く。途方にくれていると、若い女性の売り子さんがやって来て、クリーム色のワンピースを渡してくれた。
「きっとお似合いになると思いますよ」
ニコニコしながら言う。
確かにこれならいいかもしれない。遥はさっそく試着した。サイズも色もスリムな遥にぴったりだった。あと三〜四点買いたいと言うと、売り子さんは喜んで遥に似合いそうな服を出して来てくれた。勧められたものは全部買った。
それから美容院に行って、家に帰って来た時はとっぷり日が暮れていた。
準備は万端。
あとはお返事を待つだけ。
お返事は来ているだろうか。
寝室に駆け込んでパソコンの電源を入れる。部屋の中はエアコンがつけっぱなしになっていて、冷えきっていた。だがどうでもいい。朝からパン一枚しか食べていない事にも気付かなかった。少しもお腹が空いていない。
起動を待つ時間が永遠のようだった。
遥は今日一日で心臓病になったのではないかと思うほど、何度も動悸を繰り返した。遥はハードディスクが表示されるのを待つのがもどかしく、アップルマークから最近使ったアプリケーションを選び、メーラーを開いた。
送受信ボタンを押す。
受信が長い。
メールは11通来ているようだ。
ドキドキは大きくゆっくりになり、遥の耳を完全に支配した。早く終わって欲しい気持ちと、いつまでも見たくない気持ちがせめぎあった。
受信が終わった。
上から順番に指でなぞりながら確かめる。
だが仕事関係の二通以外はすべて、ダイレクトメールだった。
急に寒々しい部屋の空気が遥の心を突き刺した。ダイレクトメールを削除するのも忘れ、遥はただ呆然と座っていた。
――お返事は来なかった。
モニタの時刻は8:49PMだった。
お返事はこのまま来ないと思う方は、「分岐点」で読むのを止めてね。


