恋愛小説〜光の中で

第三話「迷い」

 心が切り裂かれそうだった。

 洗面所の小さな鏡の前で、今日買った化粧品の中のクレンジングをぼんやり手にとった。ジェル状のそれを何の感慨もなく顔にのせてのばしていく。鏡の中の綺麗だった自分は、まるで十二時が過ぎたシンデレラのように、みすぼらしい女になっていく。

 神様が一日だけ夢を見させてくれたのだろうか。だとしたら、余計残酷な仕打ちだった。一体何の罰でこんな思いをさせられたのか。

 もう会社にいるような時間ではない。もしかしたら明日から結婚の為の休暇を取っているかも知れない。だから今日、掲示板に書き込んだのかも知れない。

 何もかもいつも間に合わない。

 遥は薬品に溶けたメイクの残骸を、水で洗い流した。

――同じよ、何もなかったと思えば……昨日までと同じ。

 虚しい。

 他の言葉が見つからない。

 諦められない。

 でもどうしようもない。

 誰にも愛されない運命なんだ。どんなに足掻こうとも愛は手に入らない。きっとそうに違いない。親にも愛されなかった。初めての男も遥を少しも愛していなかった。でもそれはおあいこだ。遥も両親を愛していなかったし、男を愛していなかった。

 眠くないしお腹も空かない。仕事もしたくない。パソコンの前にいれば、懲りずにメールチェックばかりしてしまうだろう。こんな時間に返信が来るはずないとわかっていても。

 遥はゆったりとした部屋着に着替え、脱いだ服や、昼間脱ぎ散らかしたままのTシャツやジーンズ、それにタオルなどを洗濯機に放り込んだ。洗剤を入れてスイッチを押す。現実的な生活音がゴーッと鳴り出した。

 昔アメリカに旅行した時買った「メラトニン」。

 睡眠薬ではないが良く眠れるホルモン剤だと聞いて買った。でも副作用があると知り封を切らずにいた。もう大分古いが、飲まなければ眠れそうもない。

 小さな英語でびっしりと書かれた説明書きを読みもせず、遥はメラトニンを五粒口に入れた。キッチンに行って冷蔵庫から冷えたコーラを取り出し、ペットボトルのまま口をつけて薬を流し込んだ。

 本当はメラトニンが二錠までしか飲んではいけないと知っている。だが、二錠で眠れなかったらどんなに辛いだろう。五錠飲んでそのまま目を覚まさなかったとしても、それはそれでよいではないか。遥が死んだからと言って悲しむ者もない。クリスは好きなところへ行くだろう。いつまでも眠り続けたい。何も考えずにすむ眠りの中で休息したい。

 遥は冷蔵庫にコーラを戻し、クリスの皿を出した。今はいないが、遥が眠ってからお腹を空かせて帰ってくるかも知れない。ネコ缶詰めをスプーンでかき出し、そこに置いた。水も取り替えた。

 そのままベッドに潜り込む。眠れないだろうと思ったが、すぐに意識はなくなった。

 だるかった。今が何時なのかわからない。もう薄暗いような気がする。

 遥はいつもの習慣で、起き上がってすぐパソコンの電源を入れようとした。が、側にいくとフォンという音と共にいきなり画面が明るくなった。スリープ状態になっていたのだ。

 ああ、そうか。

 遥は昨日の事をやっと思い出した。

 メラトニンはよく効いた。効き過ぎてどうやら二十時間ほど眠ってしまったらしい。普段寝不足気味だったせいもあるだろう。だが、メラトニンのおかげで夢も見ずに眠れたのは幸いだった。

 メーラーは開いたままだ。昨日そのままにしたダイレクトメールを削除して、メールチェックをした。ほんの淡い期待をこめて。

 まだ期待しているみじめさが嫌で、返事なんか来るはずがないと自分に言い聞かせながら、次々ダウンロードされ来るメールから、目を離す事は出来なかった。
 だが、驚いた事に期待は裏切られなかった。

――mac2000   メール拝見しました   01.7.6 11:44PM――

 十四通並んだメールのうち、早い時期に来たと思われるそのメールを、遥はぼんやり眺めていた。すぐには信じられなかった。幻覚かとも思った。

――メラトニンの後遺症?

 また涙がジワっと滲んで来た。昨日から一体何回泣けば気がすむのだろう。嬉しい気持ちと不安な気持ちは同じくらいだった。

 返事をくれた、それだけで満足だと思う自分。もし嫌な事が書いてあったらどうしようと心配する自分。迷惑だとか、軽蔑するとか言われたら、きっともう生きていけない。

 またそんなはずはないという思いもある。

 mac2000さんのように礼儀正しい人間が、人を傷つけるようなやり方をするはずがない。第一返事も書かず無視するかも知れないなんて、どうして思えたんだろう。そんな事をするような人だったら、好きにはなれなかったはずだ。いつも尊敬出来る思いやりに溢れていたからこそ、こんなにも好きになったのだ。

 だから……。

 遥はメールを開こうとしてマウスを動かした。その手は震えていてなかなか思ったところにカーソルを移動出来ない。まるでパソコン初心者のように、手に力が入ってしまう。それでもなんとか、そのメールの上にやっとカーソルを持って行く事が出来た。

 クリックする。

 指を離せばメールが表示される。

 怖い。

 指がマウスから離れない。

 遥は硬直した右手を、そっと左手で撫でた。

 そろそろと指を離すと容赦なくメールの文面が表示された。直視する事は出来ず、目をそらしながらちらちらと盗み見る。

 悲しい事が書いていないかどうか、確かめるように。

――mac2000です、こんにちは。

昨日頂いたメールを拝見いたしました。

驚いています。

HARUさんにそんな風に思っていただけて嬉しくも思います。

しかし、

 遥はぎゅっと目を閉じた。

――しかし――

 嬉しいを否定する為の「しかし」だ。その先を読みたくない。

――また逃げるの?

 胸が痛んだ。いつもそうだ。確認する前から悪い予感がすると、決まってそこから逃げてしまうのだ。でも、今はダメだ。自分から始めた事だし、時間もない。

しかし、HARUさんは勘違いをされているのだと思います。

お会いしてみれば、ただのおじさんでがっかりすると思いますよ。

それでもよろしければ、土曜日の昼前後なら時間をつくれます。

HARUさんはどちらにお住まいの方ですか?

私は東京都に住んでいます。吉祥寺というところです。御存じですか?――

 土曜日!

 心臓が早鐘のように高鳴った。明日ではないか。なぜこんなにのんびりしてしまったのだろうと悔やまれてならない。何から順番に考えればよいのかわからない。だが、とにかく返事をすぐに書くべきだという事はわかった。

 返信ボタンを押す。

 もっと色々考えて書きたいが、時間がない。でもそれは一種の救いだった。考えると書けなくなるし、出す勇気が萎んで行くが、何も考えなければ信じられないほど大胆なことが出来るからだ。

 運命は確かに遥の味方だ。でなければたまたま好きになった人が吉祥寺に住んでいるはずはない。沖縄だったかもしれないし、大阪だったかも知れないのに。

――mac2000さん、お返事いただけてとても嬉しいです。

私は国立に住んでいますので、吉祥寺まではすぐです。

明日土曜日、お昼の12時に吉祥寺の改札でお待ちしています。

クリーム色の袖のないワンピースに、黒いバックを持って行きます。

身長は162、年令は27、髪型はセミロングです。

携帯番号は、090-3257-9561です。

mac2000さんが私を見つけて下さるのをお待ちしています。HARU――

 読み返さず返信した。

 最後の一文が恥ずかしくて、読み返すと出せなくなると思ったからだ。短く用件だけを書くだけでは、なんとなく不十分な気がして、だからといって、思いを書き連ねるのは迷惑だろうとも思え、遥は最後の一文に無意識に、気持ちを集約させたのだった。また、自分からmac2000さんを探す勇気も持てないだろうとわかっていた。

時刻表示は4:47PM。

 それから遥は鞄の中をひっくり返して、昨日のエステティックの電話番号を探した。二時に予約を入れていたが、変えてもらわなければならない。彼に会う前に、昨日と同じように、遥を美しく変身させてもらわなければ。

 しかし電話をすると午前中は予約がいっぱいで無理だと言う。美顔とメイクだけでも一時間半はかかるので、11:30までに終わらせるには10:00にエステ入りする必要がある。だが、10:00の予約は三件入っているとの事だった。

 どうしてもその日にやってもらわなければいけない事情があると話すと、受付の女性は電話を店長にまわしてくれた。

 もし明日の朝メイクしてもらえないなら、エステを続ける意味はないので、コースを解約したいと言うと、店長は10:00に美顔とメイクの予約を入れてくれた。迷惑そうにされたが、そんな事にこだわっている場合ではない。明日、mac2000さんに美しいと思ってもらえなければ、遥は死んだも同然なのである。

 それから、寝室を出てキッチンを覗いたが、クリスはどこにもいないようだ。缶詰めは例によって一口だけ残っている。傷んでからクリスが口にしないように、先にそれを処分して、遥は顔を洗った。

 気持ちを落ち着ける為、風呂を湧かした。そこにラベンダーオイルを数滴たらすと、狭い空間にみるみるラベンダーの香りが満ちて来て、遥に幸福感を与えてくれた。

 熱めの湯が、じわっと身体中を刺激して気持ちが良かった。

 どんな顔をしているのだろう。

 もし、うんと醜い中年男だったら?

 もし脂ぎった嫌らしいおじさんだったら?

 もし……

 そういえば年令も知らない。遥の勝手な願望で三十代だろうと思いこんでいたが、五十かも知れないし六十だっておかしくない。いや未婚だったのだから、少なくとも四十だろう。でもたとえ六十だったとしても、たとえ醜い容姿であったとしても、遥は構わないと思った。

 その時テレビで見たニュースがちらりと頭を掠めた。

 インターネットで知り合った男にレイプされて殺された女子大生のニュース。あれは半年くらい前だったろうか。

 少しも同情しなかった。そんなところで知り合った人を勝手に信用する方が悪い。殺されたのは自業自得だ。馬鹿な女。確か出会いのチャットか何かで意気投合し、会ったのだったか。

 だが、今遥のしようとしている事は、あの女子大生と何が違うのだろう。知り合ったのは出会いのチャットじゃない。だから?

 遥がしていることは間違っているのだろうか。こんなに純粋に人を好きになった事はない。その気持ちを伝えるのはいけない事か。相手が知らない人だから?

 顔を知っていたからって、知っている人とは言えない。が、顔を知っていて話した事がない人と、話した事はあるが顔を知らない人では、どう見ても顔を知らない人の方が不利に思えた。

 遥だって女子大生に同情しなかった。

 もし、遥が信頼してしまったあのmac2000さんという人が、ネットの中で嘘の自分を表現していたのだとしたらどうする? 良い人に見えたのは見せかけだけで、会ってみたら犯罪者かもしれない。そうではないとなぜ言えるのだろう。

 そう思いながらも、遥はmac2000さんが悪い人かもしれないだなんて、本心ではこれっぽちも考えていなかった。たとえ悪い人で犯罪者で醜男でも、好きな気持ちは止められないだろう。

 遥はエステで買った、洗い流すタイプのパック剤を顔に塗った。クリーム状のパックが毛穴の汚れをとって肌を引き締めてくれるはずだ。十分で洗い流さなければならない。

 遥は給湯器についているデジタルの時計を確かめた。

17:13PM。

 あとたったの十九時間で、mac2000さんに会える。待ち焦がれる気持ちと怖い気持ちが交差する。

 どんなに醜くても構わない。だがもし素敵な人だったら?

 遥はその方が余程怖いと思った。遥が気後れするほど素敵な人だったら、一言だってしゃべれない。そう思った途端、遥は今まで忘れていた大事な事を思い出した。

――そうだ、mac2000さんは結婚するんだった。

 急に気持ちが萎んで行った。

 mac2000さんは遥を好きだから会ってくれる訳ではない。一回だけ会って、少し話をして「さようなら」と言われたら、会わないよりもっと辛いのではないか? 余計諦めきれないのではないか?

――私は何を望んでいるのだろう。

 会えるだけで幸せだと思っていた。だが、会ったらどうなる? 次は何を望むのか。

 妻になるべき人からmac2000さんを奪い取ろうとしているのか。それとも愛人にして欲しいと思っているのか。

 遥は自分に自信がない。容姿も人並みだし、機知にとんだ会話も苦手。頭がいいわけでもなく女らしいわけでもない。恋愛の手練手管も身につけていない。そんな遥がどうやってmac2000さんの心を奪えるというのだろう。

 結果は試す前からわかっていた。遥にはmac2000さんの心を捕らえる術がない。遥は失恋を宣言される為にmac2000さんに会いに行くようなものだ。

 滑稽だった。

 どうせ結果がわかっているのなら、会いに行く必要があるだろうか。

――行かない方がいいのかもしれない。

 遥はまた、無意識に逃げ出そうとしていた。

遥が行かなかったと思う方は、ここで読むのを止めてね。

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