恋愛小説〜光の中で
第四話「一目惚れ」
会いたい気持ちには、どうしても勝てなかった。
一睡も出来ないまま朝を迎え結局吉祥寺に来ている今も、mac2000さんが本当に遥を見つけてくれるという自信はなかった。
エステで美顔とメイクをしてもらうと、別人のように美しく変身したのが、せめてもの救いだ。
約束の十二時まではまだ二十分ほどある。あまり早くに待っているのもさもしい気がして、遥は駅ビルのLonLonの中をブラブラ歩いた。冷房が効いていて寒いくらいだ。ここでも夏のバーゲンをやっていたが、何も目に入らない。金のブレスレット型腕時計を三十秒おきに覗いてしまう以外、遥にすることはなかった。
二十分が長い。
こういう時間があると、また怖じ気付いてしまうではないか。このまま帰ってしまおうか。ふとそんな事を考える。雑踏の中で、遥の耳に聞こえてくるのは、自分の心臓音だけだった。
と、突然ミッキーマウスマーチが鞄の中で勢い良く鳴り出して、現実に引き戻された。一瞬、何の音だかわからなかった。それくらい長い間、携帯の着信音を聞いていなかったのだ。
遥は焦って鞄の中をかき回す。こういう時に限って、底の方へ行ってしまって携帯が見当たらない。もつれる手でやっと探し出したと思ったら、切れてしまった。
約束の時間まであと七分だった。
いつ、そんなに時間が経ったのだろうと思いながら、遥は携帯を右手に掴んだまま、駅の改札に向かって早足で歩いていた。
約束したら十分前には着いているが礼儀だ。時間にルーズだと思われただろうか。さっきの着信、mac2000さん以外に考えられない。
もしかしたら。
いつも悪い方へ悪い方へ考えてしまう遥のくせが、ここでも頭をもたげた。
もしかしたら、都合が悪くなったという連絡かも。それとも、時間に遅れるとか。
改札付近には人がたくさんいた。もしここにmac2000さんがいたとしても、遥には見つけられない。見回す事すら出来ない。
下を向いたまま隅の方にそっと立つ。大きな柱の陰だ。見つけて欲しい癖にそんなところに隠れようとする自分が、遥には理解出来なかった。
――誰も来ないかも知れない。
訳もなくそう思いたかった。だが、次の瞬間にまたミッキーマウスマーチは大きな音をたてて鳴り響いた。
「はい」
「HARUさんですか? mac2000さんですが」
涙が出そうになるのを必死に堪え、遥はやっと頷いた。頷いたって電話の相手には聞こえない。わかってはいたが声にならなかった。
「今大きな柱の横に立っているのがHARUさんですか?」
mac2000さんの声は低くて優しくて想像した通りだった。
「はい」
今度はやっと声に出して言った。顔をあげる事が出来ない。自分の方へ近付いてくる茶色の革靴が目に入って来た。あれがmac2000さんだろうか。大きな足だった。遥はずっとその大きな茶色い革靴が近付いてくるのを見ていた。
それは確かに、遥の目の前で止まった。
「HARUさん?」
問われてカーッと身体中が熱くなった。どう勇気を奮い起こそうとも、顔をあげる事が出来ない。遥は震えるように小さく頷いただけだった。
「はじめまして、mac2000です」
大きく骨張った右手が差し出された。恐る恐る遥も自分の右手を差し出した。軽い握手を交わしてすぐに手を引っ込める。自分の日焼けした指をこれ以上さらしたくなかった。
「HARUさん?」
mac2000さんが遥の顔を覗き込み、はじめてmac2000さんの顔を見た。耳まで赤くなっていくのが自分でもわかる。心臓の音だって聞こえているに違いない。
身長は百八十くらいあるだろうか。肩幅は広く腕はがっちりしている。四十にはなっていないはずだ。顔だちは思った通り優しい。今ここで初めて会ったって、きっと一目惚れするだろう。
――どうしよう。恥ずかしい。
しかしmac2000さんは素知らぬそぶりで、
「どこかで食事をしましょうか。HARUさんは何が好きかな?」
とおどけたように聞いた。
「なんでも」
そうとしか答えられない。心臓が静まるまでは。だがいつ心臓が静まるというのだろう。こんなに素敵で大好きな人と一緒にいるのに。
あまり何も喋らないと、mac2000さんに退屈されてしまう。気持ちが焦るばかりで、ドキドキも顔の火照りもいっこうに静まらなかった。
遥は歩き出したmac2000さんについて行く。mac2000さんは時々後ろを振り返って遥を確認する。本当は並んで歩きたかった。でも、恥ずかしくて出来ない。まるで初恋の中学生みたいに滑稽に見える事だろう。でもどうしようもなかった。本当に初恋だったから。
今まで自分から誰かを好きになる事なんて、一度でもあっただろうか。申し込まれてつきあった事は何度かある。そのとき相手にこんな気持ちになっただろうか。一度もそんなことはなかった。一度も誰も愛さなかった。
mac2000さんはおしゃれなイタリアンのお店に入った。混んではいたが、かろうじて一つ席が空いていた。小さな二人掛け用のテーブルだ。遥にはこんなに近くで向かい合って座らなければいけないこのテーブルが、恨めしかった。せめて顔を見られないで済むように、隣り合わせの席だったらよかったのに。
二人を席に案内した女性がメニューと水を置いて向こうへ行ってしまった。もっとそこにいてくれればいいのに、と思ってしまう。
mac2000さんは水を一気に半分くらいまで飲んだ。そのゴクゴクという音が、余計に遥の顔を赤面させた気がした。
遥はメニューに顔を埋め、早くドキドキが収まるように祈っていた。メニューの文字は何も見えて来ない。
それなのにもう店員さんがオーダーを聞きに来てしまった。
「決まりましたか?」
mac2000さんが聞いた。
「あ、Aセット」
慌ててランチメニューの一番上にあったものを口にした。
「Aセットを二つお願いします」
mac2000さんが言った。彼はレストランの店員さんにまで礼儀正しいと、遥はぼんやり思った。
メニューが下げられてしまい、顔を隠すものがなくなった。おまけにmac2000さんが真正面にいる。自分で望んだ状況のはずなのに、遥は猛スピードでこの場を立ち去りたいと思っている。でも逃げちゃダメだ。遥のために時間を裂いてくれたmac2000さんを、失望させないように、何か話をしなければ。
「HARUさん、お名前は? 私は山下と言います」
mac2000さんがズボンのポケットから名刺を一枚取り出して、遥の方に差し出した。
(株)コウリン技研工業
システム開発部 主任 山下 博
遥はmac2000さんが見ている事も忘れて、名刺の中の名前をそっと指でなぞった。mac2000さんの名前、今まで知らなかった事がわかるのは嬉しい。何でも知りたい。でも何も知らなくても、変わらず好きだろうと思った。
ふと顔を上げると、mac2000さんがにっこり笑ってこちらを見ている。そうだ、名前を聞かれたのだった。
遥はmac2000さんの名刺を持ったまま、自分の鞄をガサゴソとかき回した。名刺を二〜三枚持っていたはずだ。
あった。
ここには遥の自宅の連絡先が入っている。在宅業の遥の名刺は、会社のそれとは比べ物にならない。誰にでも渡してよいものではない。だが、この時ばかりは躊躇なく名刺を差し出した。
「井上 遥です」
声が上ずった。
「Webプログラマー? ホームページをつくっているんですか?」
mac2000さんが遥の仕事に興味を持ってくれた。何か気の利いた事を答えたかった。だが何も思い付かない。遥は小さく頷くので精一杯だ。
「どんなところから依頼がありますか?」
「あの、銀行とか。あと、オンラインショッピングサイトのシステムとか」
「デザインではなくシステムをやっているの?」
「デザインもやります」
「私もシステムエンジニアですよ。デザインはやらないけど」
mac2000さんは笑った。遥もつられて笑った。さっき逃げ出したいと思ったばかりなのに、今度はずっとこのまま一緒にいたいと思う。少しだけ落ち着いて来た。
「あの、mac2000さん」
呼ばれて彼はかすかに苦い笑いをもらした。
「mac2000はね、ヤフーのIDです。私のハンドルネームじゃありません。ハンドルはHIROを使っています。遥さんと同じですね。名前の一部です」
遥さんと呼ばれてまた身体が熱くなった。
彼は外でmac2000さんと呼ばれる事が気恥ずかしいのだ。ならば何と呼べばいいのだろう。山下さん? HIROさん? 馴染みがないので呼ぶ方も恥ずかしい。でも何でもいいから名前を呼びたいという気持ちの方が勝った。
「HIROさんっていうのは、どこで使っているハンドルですか?」
やっと長い言葉もなんとか言えるようになって来た。ただしmac2000さんの顔を見なければだが。
「kkk_sinjuku_333っていう変なIDの人があの掲示板にいたでしょう? 彼が株のホームページを持っていて、よくお邪魔しているんですよ。HARUさんが書き込みするようになる前だったかもしれないが、あの掲示板で何かの話題で盛り上がってしまって、オフ会をしようということになったんですよ。あの場所であまり個人的な事ばかり話題にするわけにもいかないので、彼がチャットと掲示板だけのホームページをつくってね、そこへ出入りするようになりました。そのうちせっかくつくったのだからと彼は株の情報を掲載するようになったんですけどね」
「知りませんでした」
「今度結婚する事になった人とも、そのオフ会で知り合ったんですよ」
ズキンと心臓を串刺しにする言葉だった。mac2000さんは遥に諦めさせようとして、婚約者の話をするのだろうか。それとも遥が本気ではないと思っているのだろうか。涙が出そうになって数回早い瞬きをした。
「その人は私と同じ年で、オフ会メンバー唯一の独身女性だったんです」
mac2000さんはふざけたように笑って話した。が、遥には少しも面白くない。もう少し早く株をはじめていれば、そのオフ会に間に合った。そうすれば彼の婚約者は唯一の独身女性ではなくなり、遥こそが一番若い独身女性になったはずだ。
「mac……HIROさんはおいくつなんですか?」
本当はmac2000さんではなく婚約者の年が知りたかった。
「三十六です。HARUさんより十近くもおじさんですよ」
遥はそこに一条の光を見い出した。
――私はmac2000さんの心を奪う術を一つも持っていない。でも少なくとも婚約者より九つも若い。
若さとは残酷なものだ。どんな女性でも無意識に、若ければ若いほど優越感を感じるし、年上の同性を見下す傾向がある。遥も今まさにそれを感じていたのだが、自分で自覚するほど明白ではなかった。なんとなく、mac2000さんが婚約者より遥を選ぶのではないかという、かすかな期待を持てただけだった。
少しの自信は遥を大胆にさせた。相手がどんな美女でも九つ若い自分の方が勝っているという小さな自信。
「私もそのオフ会に参加したかった」
ポツリと言った。
料理が運ばれて来た。Aセットの内容がなんだったのか、遥は初めて知った。スパゲティアラビアータとサラダが運ばれて来たからだ。
「食後のお飲物は何になさいますか?」
店員が聞く。
「コーヒーを。HARUさんは?」
「私も」
「かしこまりました」
二日間、ほとんど何も食べなかった遥の胃が、美味しそうな匂いの前に悲鳴をあげたが、店内は騒がしくmac2000さんには聞こえなかったに違いない。小さな自信は遥を楽天的にさせた。
「いただきます」
遥は嬉しそうにそれを食べた。嬉しい原因は三日ぶりの食べ物なのか、自分の方がまだ見ぬ敵より若かったせいなのか、それとも大好きなmac2000さんと一緒にいるからなのか、遥にもよくわかっていない。だが一目会えるだけでいいからという気持ちは、もうどこにもない。遥は自分と目の前の大好きな人との未来を、今はじめて描く事が出来たのだった。
「美味しそうに食べるね」
からかうようにそう言われても、遥はにっこり微笑む余裕が出来ていた。会話も弾んだ。楽しくて楽しくて、遥は、はしゃいでいた。株の話や会社の話を聞いたり、遥の仕事の話をしたり、内容は色気のないものだ。だが、遥が楽しいと感じるのの何分の一かは、mac2000さんも楽しんでいるはずだ。それが嬉しかった。
「HIROさん、どうして私と会ってくれたの?」
食後のコーヒーを飲みながら、遥は聞いてみた。
mac2000さんはちょっと困った顔をしている。なんて答えたらいいのか迷っているのか、それとも遥を傷つけるような答えしか用意できないのか。
「明日が結婚式なんですよ。だから結婚前にと言われたら今日しかない。考えている時間がありませんでした」
それは遥の質問をはぐらかしたような答えだった。遥は自分が何とメールを打ったのか覚えていない。でも「結婚する前に一度だけ会いたい」と言ったような気がする。そういう約束ですよと念を押されたような気分になって俯いた。
――あんなに楽しかったのに、今日一日の夢だなんて。
「……もう会ってもらえないの?」
泣きそうな声だった。でもここで泣いてはいけないと知っていた。同情を引きたい訳じゃない。
「明日が結婚式でなければ、喜んでお誘いしています。私も残念に思いますよ」
mac2000さんは当たり障りのない親切さでそう言った。だがこの年になってはじめて恋できる人が見つかったのに、このまま引き下がる訳にはいかなかった。
何を言えばいいのだろう。どんな顔をすればいいのか。どうせ遥には考えてもわからない。わからないなら何も考えず思った通りの事を言えばいいではないか。mac2000さんは十分大人だし、何を言っても受け止めてくれる優しさも持っている。少しくらい我がままを言って困らせても、拒絶したりしないという安心感が生まれていた。
本当は「結婚しないで」と言いたかった。でも遥がそう言ったからといって、結婚を止めるはずがないのはわかっていた。
遥は以前から結婚したいという願望は希薄だった。家もあるし仕事もある。遥は自分の力だけでやっていける。だったらmac2000さんが結婚しても構わないではないか。結婚すればいつか妻は女でなくなる。結婚しなければ遥はずっとmac2000さんの中で女でいられるのだ。
結婚は、生活の保証を得るかわりに、女として愛される事を捨てる行為だ。遥はむしろ結婚しないで永遠に女でいたかった。
――ただ一人の人に一生縛り付けられるなんて、間違っている。人はいつでも自由だわ。結婚していたら恋しちゃいけないなんて、誰が決めたの?
自分勝手な理屈をつけてみたが、それをどう伝えればいいのかわからなかった。
レストランを出た。もう帰されてしまうのかと急に不安になる。
「映画でも見ましょうか?」
そう言ってくれて満面の笑みがこぼれた。我ながらわかりやすい性格だと遥は苦笑した。
本当は映画なんてどうでもいい。mac2000さんと二人でいられる時間が長ければ長いほど嬉しい。
映画館に入る時も、映画を選ぶ時も、遥は上の空でmac2000さんを見つめ続けた。あんなに顔を見られないほど恥ずかしかったのが、嘘みたいだ。見ないではいられない。もっとがっかりするような醜男でいてくれたらよかったのに。
映画は「A.I.」を見た。だがほとんど内容は見ていなかった。時々簡単な英単語が耳に飛び込んでくるくらいで、ストーリーは少しもわからない。ずっとmac2000さんの横顔を見ていた。
暗い映画館、おねだりするには絶好の場所ではないか。でも何も言えなかった。
遥はひじ掛けに置かれたmac2000さんの大きな手を見つめた。この手を自分のものにしたい。そう思ったら、どうしても手を触れずにはいられなかった。
触れた瞬間、mac2000さんがびっくりしたように遥を見たような気がしたが、その後は何ごともなかったように映画を見ていた。
それから遥はずっと、左手の指を這わせるようにして、mac2000さんの右手を弄んでいた。
mac2000さんは動かなかった。
遥は永遠にこうしていたいと思った。
二度と会ってもらえなかったと思う方は、ここで読むのを止めてね。


