恋愛小説〜光の中で
第五話「想い」
思い出すと赤面する。なぜあんなはしたないマネをしてしまったのだろう。自分が信じられない。mac2000さんの手を撫で回すなんてマネを!
家に帰り着くとクリスが不在を怒っていた。
「ごめんね、大事な用事だったのよ」
クリスにネコ缶をやってから、すぐにシャワーを浴びた。頭を冷やしたかった。
mac2000さんは想像以上に素敵な人だった。一生絶対に諦めたくない。もうこのまま会えないのだとしたら、生きている意味もない。だからといってあんな事をするなんて、どうかしている。mac2000さんは何と思っただろう。遊び慣れていると思われたに違いない。もう二度と会ってくれないかもしれない。
泣きたくなる。昨日までとは違った意味で。
化粧を落とし目立たない平凡な顔に戻った自分を、曇った鏡が映し出す。mac2000さんはこの顔をどう思っただろう。少しでも綺麗だと思ってくれただろうか。
帰り際、やっとの思いで「また会いたい」と言ってみた。でも、ちょっと困ったような顔で笑っただけで、mac2000さんは何も答えてくれなかった。
――今日一日で一生分楽しかったじゃない。
そう思っても、なんの慰めにもならなかった。
遥は濡れた髪を無造作にタオルで拭きながら、寝室に行ってパソコンの電源を入れた。今日はじめてのメールチェックをしなければならない。こんな時にも仕事はしなければならない。それが一人で生きて行く遥に与えられた使命だった。
7:56PM。
メーラーを開き、送受信ボタンをクリックする。
缶詰めを食べ終わって満足したクリスが入って来た。遥はクリスを膝の上に抱き上げ、小さな頭にそっと唇をあてた。そのまま自分の顎をクリスの頭に擦り付ける。こういうしつこい事をすると決まって逃げ出すクリスが、今日ばかりは大人しく遥のされるがままになっていた。遥を慰めているつもりだろうか。
メールは二十九通も来ていた。頼みもしないメールマガジンやダイレクトメールを次々削除して行く。残ったのは仕事のメールが六通だった。
「随分多いわね」
最初のメールを開いて、遥は凍り付いた。
――しまった!
納期は明後日の正午、決めたのは遥だ。今日じゃないか! ちょうどmac2000さんと出会ったあの時が、仕事の締めきりだった。すっかり忘れていた。思い出しもしなかった。なんて事だろう。今まで仕事だけは、きちんとけじめをつけてやってきたのに。
他のメールも次々開いて内容をざっと確認する。四通が催促のメールで、一通は先週の仕事のお礼、もう一通は新しい依頼だった。
とにかく猛スピードで遥は仕事に着手した。
何も考えず機械的にこなして行く。簡単な仕事でよかった。一時間かからず終わるはずだ。だが、言い訳も考えなくてはならない。
仕事をくれたSITマネージメントとは、一年以上のつきあいだ。たった一度の遅れで切られる事はないだろうが、「男の事で頭がいっぱいで忘れていました」とは言えない。
この仕事を始めた時、一番大変だったのは営業だった。自分で仕事をとって来なければ、誰も遥に仕事をくれないのだ。内容についての勉強は少しも嫌ではなかったが、定期的な営業活動はメールとはいえ辛かった。そうして手に入れた安定した仕事の供給先を、簡単に手放す訳にはいかない。これからもずっと一人で生きて行くのだから。
なんとか仕上げて簡単に動作確認する。CGIの動作確認は、サーバーにアップロードしないと出来ないのが面倒だった。時間ばかりが過ぎて行く。時間ばかりが気になる。
やっと確認を終え、プログラムをzip形式で圧縮した。sitでもよいがWinマシンで受け取るかもしれないのでzipにした。
――SITマネージメント御中 小林様
いつもお世話になっております。井上遥です。
ご連絡もぜず納期を遅れてしまい、大変申し訳ありません。
突然の体調不良でご連絡する時間がありませんでした。
幸いすぐによくなりましたので、仕上がったものを添付いたします。
御迷惑おかけし、本当に申し訳ございませんでした。
全面的に当方の責任ですので、今回のお仕事、無償でやらせていただきます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 井上 遥――
卑屈とも思える低姿勢なメールと共に、CGIプログラムを送った。メールを書きながらSITマネージメントって、圧縮形式のsitと関係あるのかしらと呑気なことを考えていた。もしそうなら、SITマネージメントのメインマシンはきっと遥の大好きなMacばかりだ。
納品が終わると、新しく来ていた仕事の依頼を詳しく読んだ。
簡単なWebページの作成で、三ページのHTMLのみ。JavaScriptなしだった。
HTMLはホームページを表示する為の言語のようなものだが、プログラムではない。自分で何か考えて組み立てるという事がないからだ。与えられた文法通りに記述するだけなので、誰にでも出来る。だから価格相場も暴落している。人によってはページ単価千円で受けると聞いた事がある。遥はいつも八千円で受けている。
JavaScriptはスクリプト言語であり、プログラムに似ている。頭を使わなければならないので、出来る人間も少ない。ただし在り来たりのスプリクトはサンプルが出回っているので、単価が高いのはオリジナルだけだ。遥はオリジナルJavaScriptの仕事が一番好きだった。
HTML三ページ、単価八千円なら二万四千円の見積もりになる。だが、それではたぶん仕事は来ないだろう。一ページ当たりのボリュームも、今回少ないようだ。
遥は納期を来週水曜に設定し、価格を一万五千円として返信した。これも二時間あれば十分な仕事だが、デザインのやり直しをさせられる可能性もあった。やり直しをして一万五千円では割にあわないが、そう贅沢ばかりは言っていられない。
やっと仕事を片付けて落ち着いたとき、時計表示は10:06PMだった。
また心臓がドキドキ言いはじめた。
――mac2000さんにお礼のメールを出さなくちゃ。
mac2000さんは思った通り親切で礼儀正しくて誠実で、思った以上に素敵な人だった。あんな人が三十六まで独身だったのは奇跡だ。だが目の前でさらわれた。それが運命だったのか。
あんなに楽しい時間は生まれてはじめてだった。
遥はメールを打ち始めた。自宅のマシンはもうはずしてあると言っていた。だからメールを見てくれるのは来週だろう。でも書かずにはいられない。
遥は長い長いメールを打った。
早く出す必要はなかった。相手はすぐに見られない。だから読み返した。読み返してみると、とても出せないような恥ずかしさがこみ上げて来た。こんなに綿々と想いを書き綴ったら迷惑だ。
遥はすべて消してまた書き直した。
どうしても好きという言葉は入ってしまう。でも一回だけなら許されるに違いない。とても優しい人だから。
遥はほんの三〜四行だけ簡単に書くと、今度は読み返さずに送信した。読み返す度に書き直す羽目になりそうだったからだ。日付けが変わる前に、簡単でもいいからお礼メールを出したかった。
mac2000さんが不在の一週間、きっと辛いに違いない。でも、帰って来てもやはり辛いのは同じかもしれない。次に会えるまで、ずっと辛い日が続くのだ。もしもう二度と会ってくれなければ、これから先、生きている間中永遠に辛いのだ。
――その時私は耐えられるだろうか……


