恋愛小説〜光の中で
第六話「優柔不断」
引っ越しの荷物はまだ片付いていない。前に住んでいた場所より吉祥寺駅から遠い3LDKのマンションだ。今まで1DKだったので、荷物はそんなにない。Old Macが五台とノート型のPower Bookが一台、それ以外はたいしたものはない。
休日だったが妻は外出している。博は、自分の書斎として使う部屋で、一人Macをつないでいた。一つの部屋の中でLANにすることに意味はないが、Macは博の生活の一部だった。
日曜に結婚式をあげて、月曜から金曜まで新婚旅行でハワイに行って来た。帰って来てからは両方の実家におみやげを持って行ったり、お祝のお返しをしたりでクタクタだ。そして今日、再びめぐって来た日曜日、博はひとりのんびりとMacを組み立てているのだった。早くインターネットに繋がないと、メールチェックも株の購入も出来ない。
妻は博のことをHIROと呼ぶ。博も妻をリカと呼ぶが本当の名前は久美子である。リカはハンドルネームだ。ネットで知り合った二人には、ハンドルネームの方が馴染み深いのだった。
リカとはオフ会で初めて会った時から、話もあうし気もあった。一緒にいて疲れない楽しい相手だ。年が同じだったのも親しくなる切っ掛けだったかも知れない。すぐに個人的につきあうようになり、またそれが自然だった。
最初にベッドに誘ったのはリカだった。
「私達こんなに気があうんだから寝てみるべきじゃない?」
リカはあっけらかんとそう言った。多少驚きはしたものの、博は二つ返事で応じた。結果、肉体の相性も非常によかった。だが、最初から結婚しようと考えていた訳ではない。リカだってそうだ。結婚したいとは思っていない様子だった。
「私がこんな年まで独身だったのはね、煩わしい事が嫌いだからよ。自由が好きなの」
ベッドの中でリカは言った。
博が結婚しなかったのは別の理由だ。結婚したいと思う相手がいなかった、それだけだ。もともとあまり人にも物にも執着がない。情熱的になることもない。だから、昔つきあっていた女にも、最後は罵られてふられた。それでも別に悲しくもなければ惜しいとも思わなかった。どうでもよかったのだ。
リカを気に入ったのは確かだった。だが、これまでと同じようにリカに情熱を感じる事はなかった。一緒にいて楽しい、誘われれば会う、誘われれば寝る、それだけだ。
リカとつきあうようになって半年ほど経った時、リカが言った。
「子供出来たわ。降ろしてもいいけど、どうする?」
まるでお腹がすいたけど何か食べる?と聞くように、何でもなくそう言った。
子供が欲しいとは思わなかった。でも欲しくないとも思わない。
「どうするって、別にどちらでもいいけど。産んでくれても構わないし」
「じゃ結婚でもしてみる?」
「それもいいね」
こんなに簡単に決まってしまった結婚だった。
結婚式やら旅行やらは面倒だったものの、楽しくなかった訳ではない。それなりに楽しかった。昨日からはじまった二人の生活も、慣れれば楽しいのだろう。なによりいいのは、リカがベタついて来ない事だ。実にさっぱりしている。仕事も辞めるつもりはないらしいし、財布も別だ。独身であった時と変わらぬ気軽さを持ったままの結婚だった。
リカは大手証券会社に勤めている。詳しく聞いた事はないが、営業成績はかなりよいらしい。感じのよさが売りなのだろう。株については博よりずっと詳しいし頼りになる。
たぶんリカと結婚してよかったのだろう。あと半年もすれば子供もうまれる。今まで知らなかった新しい幸福が手に入るのかもしれない。
やっとMacを繋ぎ終わり、インターネットの設定も終わった。ネットスケープを起動してみる。ブラウザは無事、アップルコンピュータのホームページを表示した。
博はいつも行く株の掲示板を覗いてみた。見知った顔の書き込みが並んでいる。mac2000に対する祝辞もちらほら見られた。お礼の投稿をしようと思ったが、今はやめた。
それからメールチェックをする。仕事の取引先には一週間休暇を取る事は連絡済みだが、それでもメールはたまっていることだろう。そう思ったが、実際には一週間で五通しか来ていなかった。
期待があったかどうか、博にはわからない。だが、HARUという文字は真っ先に目に飛び込んで来た。
困ったなと思う反面、嬉しくもある。
遥は華奢でかわいらしい女の子だった。一緒にいれば自分も若返る気がする。三十までは感じなかった疲労感や肉体の衰えが、三十五過ぎてから顕著だったし、若さに対する渇望も生まれている。そんな時に十も若い女性に一途に想われたら、嬉しいに決まっている。
だからといって、遥を愛せるかといえば、それはまた別問題だった。リカにも遥にも、熱烈な欲求は感じない。どちらでもいいのかと言われれば、その通りだと言うほかない。だがそれは独身だったらの話だ。
もう結婚してしまった。子供もうまれる。どちらにしようか迷う段階ではない。もうリカを選んだのだ。だったら無情なようでも遥にはきっぱり断るべきだった。それが出来ないのはなぜだろう。遥に惹かれているわけでもないのに。
博は一番に遥のメールを開けた。
――HIRO様
今日はありがとうございました。
楽しくて夢のようでした。
お会いしたらよけい好きになってしまいました。
一度だけと言ったけど、またお会いしたい。
また会って下さい。お願いします。 HARU――
先週の土曜日のメールだった。
しばらく博はぼんやりとそれを眺めていた。遥はなぜ会った事もない自分を好きになったのだろう。いつからそう思ったのだろう。全く気付かなかった。
遥の書き込みはいつも短い。メールも短い。だがストレートだった。若さから来る自信のせいだろうか。
返信するべきかどうか、迷っていた。ここで無視しても誰も博を責めないだろう。むしろ返信する方が罪な事なのかもしれない。そう感じるのは、返信して会う約束をしたいと思っているからだろうか。こんな風に慕われたら、とても拒絶は出来ない。ずるいかもしれないが、男はそういうものだ。
リカは夕方帰ってくると言っていた。博は昼食を取る為に、Macを切って外へ出た。頭を冷やそうと思ったら、外の暑さは尋常でなく冷えるどころかゆだるようだった。
吉祥寺はおしゃれな店が多いが、昔ながらの商店や定食屋も多い。博はいつも馴染みにしている定食屋で冷やしとろろそばを頼んだ。そばを食べるならそばやに行った方がよいのだが、ついついここに入ってしまう。無意識にここに足を運ぶのが習慣になっていた。
――結婚したら来る事もないと思っていたが。
博は曖昧な苦笑を見せた。
そばはすぐに出て来た。食べている間はなにも考えない。あっという間に食べ終わると、冷たい水を飲みながら、また遥をどうするか考えた。
あしながおじさんとして恋愛ごっこにつきあってやる義務はないが、手を出すのも怖い。本気になられても困るし、相手は若い独身女性だ。離婚と結婚をせまられても困る。だがこのまま背を向けるのは惜しい気がした。
昔、既婚の先輩に言われた事がある。
――女は最初、会うだけでいいと言うが、そのうち必ず結婚してくれと言い出す。うまくあしらわないと奥さんにバラすと言い出すぞ。気をつけろよ。遊ぶなら人妻にしとけよ。逆にこちらが旦那にバラすと言えば大抵は後腐れなく別れられる。
その時はなんて奴だと思った。勝手に若い女に手を出しておいて、その言い種はないだろうと憤りも感じた。若かったのだろう。今はその通りかもしれないと思う。
リカはさっぱりした女だ。浮気したくらいで騒ぎ立てたりしないだろう。問題は遥だ。遥はどこからどう見ても、普通の女だった。結婚も望んでいるはずだ。やはりここは心を鬼にして拒絶するのが安全だろう。惜しいが仕方ない。
ブラブラと本屋をひやかして家に帰りついたのは午後三時だった。すぐにMacを起動する。メインマシンはタワー型のPM8500。かなり年季の入ったOld Macだが、G3カードを入れてCPUをアップしているので、まだまだ現役で問題ない。
博は再度メールチェックをした。一通も来ていなかった。気が変わらないうちに返信してしまえと、遥のメールに返信ボタンを押す。
――こんにちは、mac2000です。
昨日旅行から帰って来て、今Macを繋ぎおわったところです。
先週は私も久しぶりに楽しい時間をすごせました。
ありがとうございます。
私もやっと結婚して落ち着き、半年後には子供も生まれます。
もうHARUさんとお会いする事が出来ないのは残念ですが、
新しい生活に慣れたら、また株の掲示板にも伺いますので、
お話しましょう。それでは。 mac2000――
読み返してみる。遥を傷つけるかもしれないが、仕方ない。これ以上やわらかくは書けない。
送信するのはためらわれた。だがそれも一瞬だ。
送信してしまうとMacを切り、それきり遥のことは忘れた。
もうじきリカが帰ってくる。
――食事でもつくっておいてやるか。パスタか何か。


