恋愛小説〜光の中で

第七話「リカという女」

 リカはまだ普通に会社に通っていた。六ヶ月くらいだとそんなにお腹も目立たない。誰も気がつかない。だがもう少ししたら休暇を取らざるを得ないだろう。

 リカの勤める証券会社は育児休暇を一年認めている。しかしそんなに長く休んだら、顧客をさらわれてしまうだろう。

 結婚したからといって仕事を辞めるつもりは毛頭ない。

 たまたま妊娠したので一人くらい産んでおこうかという気になったが、でなければ結婚などしなかった。年齢的にもう子供を産むには限界だったし、今回降ろしていれば、一生子供なしだったろう。それはそれで気楽でよかった。

 結婚は恋愛とは全く違うものだ。好きだとか愛しているとか、そんな気持ちで結婚したって長続きはしない。結婚は契約である。一定のルールを守れるもの同士の、同じルールを納得出来る者同士の、契約なのだ。

 博は今までつきあった男達とは比べ物にならないくらい、リカにぴったりだった。リカの事について何一つ詮索しない、頭から命令して来ない、物事にこだわりがない、年令も同じで話題もあう、そして、愛していると言わない。

 リカはベットの中でだけ愛しているという男が大嫌いだ。そんなことを言われても嬉しくも何ともない。気持ち悪いだけだった。だが勘違いしている男の、なんと多い事か。女は愛していると言われたがっている、みな一様にそう信じている。

――SEXなんてスポーツと同じよ。愛してなくたってしたい時はするわ。

 そう思って、馬鹿な男に心の中で舌を出した。

 結婚前に博とはいくつか約束事をした。リカが譲れない部分についてだ。博は何に対しても

「ああ、いいよ」

と言った。

 マンションの家賃と光熱費は、博の通帳から自動引き落としにする事にした。自分の物はこれまで通り自分で買う。平日は仕事が忙しいので二人とも別々に自分のお金で外食。土日だけリカが食事をつくる。家の中の消耗品や食材はリカの給料で支払う。家賃を払ってもらう代わりだ。子供が生まれたら養育費として月に五万づつ出し合い、子供にかかるお金はすべてそこからまかなう。足りない時はその時また考える事にした。

 洗濯はリカがするが、掃除は土日に二人でやる。

 一番大事なのは、お互いのプライベートルームには絶対入らない事。

 マンションは玄関からすぐに十五畳のリビングとキッチンになっていて、リビングから三部屋に通じている。一つは寝室にして、残り二つをそれぞれのプライベートルームにした。子供部屋が必要になったら、その時また考えればいい。

 問題は子育てのことだ。

 リカはすぐに仕事に復帰したい。そうすると乳飲み子を育ててくれるベビーシッターか保育所が必要になる。それにはお金がかかりすぎ、毎月十万の養育費では足りない。

 かといってリカの実家は新潟なので頼めない。そうなると博の八王子の実家に頼むのが一番よさそうだが、きっといい顔をしないだろう。

 仕事を辞めて家に入るべきだと言うかもしれない。だが、はいそうですか、というわけにはいかない。本当は月給も六十万越えているし、もっと養育費を出せば良いのだが、半分以上天引きで社債になっている。目的があるのでこれは変えられない。

 リカはSEXなしでは生きて行けない性分だった。いつからそうなってしまったのか、もう覚えていない。週に四度は男と寝ないと、日常生活を上手くこなせなくなる。相手は誰でもいいというわけではないが、愛はいらない。

 だから今まで結婚もしないで来た。結婚した友達で性生活に満足している女なんか、一人だっていないからだ。一人の男では到底リカを満たす事は出来ない。結婚しても外で適当に楽しんでいる友達もいないではないが、リカは仕事が嫌いではないし、隠れてコソコソするのも嫌だった。

 自分の先行きに不安を感じないと言えば嘘になる。

 今はいい。リカはまだまだ若く、仕事をしていれば楽しくつきあえる相手はいくらでも見つかる。だが、あと十年したらどうだろう。十年後にもリカの欲望を満たしてくれる相手は見つかるだろうか。十年後はよくても二十年後はどうだろう。三十年後は……?

 今の生活を続けている限りは、リカの欲望が年と共におさまるという事は決してないだろう。それどころか、どんどん欲しくなるに違いない。男のように年と共に萎えて行くという事が、女にはないのだ。男だって本当はそれを知っているはずだ。だからこそ自分の妻には最初から何も教えないのだろう。毎日求められても困るから。

 そんな結婚観しか持たないリカが結婚してもいいと思ったのは、やはり子供の存在が大きい。もしかしたら子供を産めば、肉欲が静まるのではないか、そんな期待もあった。自分の事より子供の事を先に考え、子供の為だけに生きていけるようになるのではないか、だとしたらこの先老いて満たされない思いを味わうより、その方がいいのではないか。

 今まで妊娠した事は一度もない。特に気を使って注意していたわけではないのに、誰と寝ても妊娠しなかった。ピルは飲んでいたが、すぐに飲むのを忘れたり、正確ではなかったし、何年も飲み続けるとよくないとも聞いていた。

 博とつきあうようになってから、他の男とは寝ていない。だから子供は間違いなく博の子だった。ちゃんと避妊していたのに、なぜか妊娠した。そろそろ落ち着けってことかなと勝手に解釈した。

 博は別にこれといって上手いわけではない。変わった事をするわけでもない。ごく普通の平凡なSEXだ。でも、リカの身体とは相性がよかった。量より質、と言っていた友達の言葉を思い出す。質がよければ量はいらないのか。リカは質も量も欲しいと思った。

「どうしたの? さっきから黙り込んで」

 高校時代からの親友、小枝子が聞いた。

 女子高からエスカレーターで付属の女子大に進んだので、彼女は七年間の学友であり、卒業後もずっとつきあいが続いている。

「久美ちゃんが結婚するとは思わなかったよ」

 小枝子は三十六になった今でも、学生時代と同じようにリカを久美ちゃんと呼ぶ。リカも小枝子を、小枝ちゃんと呼んだ。

「私だって自分が結婚するなんて、思ってもみなかったよ」

 彼女に新婚旅行のお土産を渡し、ゆっくり話をするために、結婚休暇最後の今日、銀座に出て来ていた。彼女は十年前に結婚して二人の子供がいる。だが、日曜日でも気にせずリカに会ってくれる。他の友達のように「主人がいるから休みの日はダメよ」とは決して言わない。

 高校も大学も女ばかりの中で、話題にする事といえばいつも男の事だった。散々馬鹿な事もしてきた。傷付いた事もあった。何かある度に小枝子には何でも話し、そして小枝子もリカに何でも話した。

「あのさ、小枝ちゃんだから聞くけど、子供を産むとアレ、したいと思わなくなるもの?」

 小枝子と話していると、つい口調が学生時代に戻ってしまう。年頃の女の子がアレと言ったらアレしかない。

「アレね」

 小枝子は笑った。意味ありげな顔で、なかなか答えない。焦らすようにアイスコーヒーのストローを弄んで、一口飲んだ。

「何でにやけるのよ」

「だって、久美ちゃんの気持ちが手に取るようにわかって面白かったんだもん」

「ヤな事言うね」

 リカは渋顔を作ってみせた。

「子供産んでもね、ダメだよ。性欲は消えない。それどころか年々ますますひどくなるんだよ」

「そっか……」

「男は逆みたい。うちのは年下の癖にもうダメよ。じいさんみたいなんだから」

 小枝子はふざけた口調でそう言った。

「年下でもダメなんだ」

「年下って言っても二つしか違わないしね。それに、私だって十年も一緒にいる古夫に何されても、なーんにも感じないよ」

「そりゃそうだよね」

「相手も同じでしょ。私達もう兄弟みたいなものだもん。今さらそんな色っぽい気持ちにはなれないよ」

「じゃ、どうしてるの? 我慢してるわけじゃないでしょ?まさかあの小枝ちゃんが」

 リカは冗談めかして言ったが、本心だった。リカも小枝子も、若い時から恋にも性にも奔放だった。他の友達のように、何度も遊んでいる癖に処女のふりをしたがったりもしない。自由で大っぴらで、そして正直だった。

「私が浮気していると思ってるんでしょう?」

 小枝子が悪戯っぽく笑う。笑うと目尻に皺が出来るが、まだまだ肌は美しかった。

「してないの?」

「してないよ」

「嘘でしょ」

「嘘なんかつくわけないじゃん、この私がさ」

「ホントにしてないの?」

「うん、だって相手がいないんだもん。久美ちゃんみたいに外で働いていれば出会いもあるだろうけど、私は専業主婦でしょう。出会いと言ったら、いいとこ子供の学校の先生くらいよ。それだってちょうど年の合う好みの先生なんて、いやしないしね。」

 小枝子はうんざりしたような顔で溜め息をつくと、またストローを弄んだ。学生時代からストローばかりいじっているのは、小枝子の癖だった。

「じゃ、どうしてるの?」

「自分でするのよ」

「ええ? それホントの事? ふざけてるんでしょう?」

「ホントのことよ。でも夫なんかよりよっぽどいいわよ」

 リカは小さく吹いた。

「ひどい言い方。陰でそんな事いわれてる旦那さん、お気の毒だわ」

「自業自得よ。あ、でも本人には内緒よ。疲れるけどちゃんとよかったフリしてるわ」

 何度も色々な人に聞いて知ってはいたが、こうして親友の口から結婚の実状を聞かされると、未来に希望はないような気がして、気落ちした。

「でも久美ちゃんは新婚だから、あと一〜二年は大丈夫よ。その後は私が自分でするやり方を教えてあげるから」

 小枝子は明るく笑いながら、卑猥な冗談を言った。

「私はなんとか相手を見つけるから結構よ。自分じゃちっともよくないもの」

「だからよくなるやり方を教えてあげるって言ってるのに。私もね、人から教えてもらったのよ。まさかそんな日がくるなんて思わなかったけど」

「じゃ、必要になったら聞くわ。必要にならない事を祈ってて」

 リカは残りのアイスコーヒーを飲み干して、席を立つそぶりを見せた。人妻をあまり遅くまで引き止めるわけにはいかない。そう思ってから、自分ももう人妻だと気がついた。

「ただいま〜」

 土日は食事をつくる約束だったので、リカは帰りに買い物をして家に戻った。四時半だった。

「何? 美味しそうな匂いがする」

 リビングを通り抜けその奥のキッチンに顔を出すと、博がフライパンで鶏を焼いているところだった。にんにくのいい香りが食欲を刺激する。

「ああ、お帰り。お腹空いてる?」

「ええ、ぺこぺこよ」

「よかった、もうすぐ出来るから座ってて」

「私がつくるはずだったのにね」

 リカは笑いながら、買って来た食材を冷蔵庫に入れた。

「材料買って来ちゃったから、明日の夜は家で食べましょう。早く帰ってくるわ」

「了解」

「あ、ワインは今日あけましょうか。冷えてるの買って来たわ」

「じゃ、そっちはよろしく」

 博はリカの方を見ないで、鶏を裏返した。ジューっという大きな音が、語尾をかき消した。

 真新しいテーブルクロスをかける。

 ワインクーラーに氷を入れて食卓に持って行く。

 買ったばかりのフォークとスプーンを並べる。

 なかなかいい気分だ。

「花でも買ってくればよかったわね」

 リカの言葉は博の耳には届かなかった。

 博の料理の腕はなかなかだった。

 ブルスケッタをつまみながら、ワインで乾杯する。新居に移ってはじめての食事だった。トマトとベーコンのスパゲティ、それに鶏の香草焼き。

「サラダとスープをつくる暇がなかった」

 博が穏やかに微笑んだ。

「これで充分よ。すごく美味しいわ。イタリアン、どこかで習ったの?」

「習ったってほどじゃないが、学生時代イタリア人の留学生と同居していた事があるから。その時教えてもらった」

「それ、女の子?」

「まさか。男だよ」

 大袈裟に驚いてみせる。

「あら、あなた両刀だったの? 知らなかったわ」

 ゴホっと博が咳き込んだ。そんな事を言われるとは予想もしていなかったので、ワインを吹き出しそうになってしまった。

「そんなわけないだろ。彼は友達だよ」

「そんなにムキになって否定しなくてもいいわ。私は別にホモに偏見はないのよ。だから隠さないで」

 リカはふざけてそう言った。

「で? あなたはどっちだったの?」

「どっちって何だよ?」

「受けか責めかってことよ」

「どうしても僕をホモにしたいらしいな」

「違うの?」

「残念ながら、君の期待にはそえないよ」

「それは本当に残念。でも言いたくなったらいつでも聞くわ」

「だから……違うってば」

 それから二人は二時間もかけて長い食事を楽しんだ。会話につまることもない。退屈に感じる事もない。楽しいので時間はあっという間に過ぎる。

 リカも博も、本当にいい人と結婚出来たと思い、お互い満足だった。

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