恋愛小説〜光の中で
第八話「挑戦」
日曜日。
mac2000さんの結婚式の日だ。どこで結婚するのかは聞かなかった。今頃幸せ一杯の花嫁に誓いのキスをしているかもしれない。そんな事を考えるのはよそうと思っているのに、いつの間にか仕事の手は止まってしまう。
HTML三枚は正式に依頼され、昨日のうちに仕上げてしまった。今やっているのは、その後来た大きな仕事だった。大きな仕事が来るとHTML三枚は鬱陶しいのでさっさと納品してしまった。
今度の仕事は製薬会社のサイトリニューアルで、全五十四ページとFLASHによるスプラッシュアニメーション三秒。八十万の見積もりにゴーサインが出た。百万とするところを仕事を取る為に八十万に値引きした。JavaScriptを含む五十四ページは単価一万五千円、それにFLASHが十万、トップページデザイン料が十万、合計百一万という内訳だ。それを二十一万値引きして八十万としたのだった。
ページ作成は簡単だが、納期は十日間しかない。遥は何も考えずにひたすら仕事をする必要があった。だが、気がつくと手が止まっている。
毎月百万クラスのサイトデザインの依頼があれば、細かく面倒な仕事も断れるが、来るか来ないかわからないので、何でも受けている。そして、納期より早く仕上げる事で、次の仕事を獲得して来た。それなのに、こんなにのんびりしていたら、仕事が来なくなってしまう。
遥はとりあえず、何か食べて自分を取り戻そうとした。どうせ、一週間はmac2000さんからメールが来る事はない。だったらその間何もかも忘れて仕事をしよう。せっかく大きな仕事が入ったのだから。
冷凍のピザを暖めてコーラと一緒に食べた。美味しいとは言えないが、何も食べないでいるとどんどん痩せてしまう。若い男は痩せた女が好きだが、中年は豊満な肉体が好きだと、昔の不倫相手が言っていたのを思い出した。細身の遥をからかって言った言葉だが、真実をついている気がした。
それからトップページのラフデザインを三パターン大急ぎでつくって、仕事をくれたアシックデザインプロに送った。FLASHも簡単につくって添付した。このイメージでOKが出れば、あとはひたすら単純作業だ。
FLASHはWeb上のアニメーションをつくるソフトで、まだまだ割のいい仕事だ。三秒アニメーションをつくるだけで十万にはなるのだから。だがこれからFLASHを使える人間が増えてくれば、そうもいかなくなるだろう。おいしいのは今のうちだけに違いない。次々参入してくる新人に仕事を取られないようにする為には、スピードをあげるしかなかった。
今回の仕事も納期を十日にしたからこそ、遥が取れたのだと思う。もし納期を一ヶ月としていればたとえ八十万に値引きしようとも、仕事は取れなかったはずだ。
仕事の事を考えていると、不愉快な妄想をせずにすんだ。遥はデザインとは関係ない細かい部分――テキスト打込みとか、写真の画像処理――を先に着手しはじめた。だんだん楽しくなってきた。
次の日曜日、遥は製薬会社のサイトをほとんど終わらせていた。仮納品し、アシックデザインプロの栗山さんにチェックしてもらう。直しがあれば戻ってくる。これを何度か繰りかえし、最終的に納期の水曜日までにクライアントに納品出来る状態にしなければならない。最後の詰めに入っており、三十分おきにメールチェックをする必要があった。
Macしか持たない遥の環境では、Winマシンで確実に動作不良が起きないかどうか確認できなかったので、担当の栗山さんに頼る事になるのだ。
もうすぐ終わる。終わったらゆっくりしよう。あと少しで終わる。
そんな楽しい気持ちでメールチェックをしていたら、思いがけずもっと嬉しいメールが目に飛び込んで来た。
――mac2000 Mac繋がりました 01.7.15 14:58PM――
まるっきり忘れていた訳ではない。でも今は期待していなかった。だから内容も考えず嬉しさだけがこみ上げた。一週間前、自分がどういうメールを送ったのかもう忘れていたし、それに対する返信だという事も忘れていた。
――Mac……だったんだ。やっぱり。
その事が更に遥を嬉しくさせた。
クリックする。
文面が表示される。
それを読んでいくうちに、楽しい気持ちは徐々に沈静化されていった。
――もうHARUさんとお会いする事が出来ないのは残念ですが、――
そう書いてあったからだ。
――そうだった。また会って下さいとメールしたんだったわ。
予感はあった。別れ際にもまた会いたいと言ったのに、答えてくれなかったし、メールで会ってと言ったからって、わかりましたと言うはずはない。またそんな人だからこそ好きなのだという気持ちもある。もし喜んで不倫するような人だったら、好きにならなかったはずだ。
―だから、この返信は当たり前なんだ。
遥はそう思う事で無意識に自分が傷つかないようにしていた。
――わかっていた。どんな返事が来るかちゃんと知っていたわ。だから、これくらいで諦めない。どうすればいいか、何を書けばいいか、やっとわかったから。
遥は返信をクリックした。
――mac2000さんお帰りなさい。御旅行はいかがでしたか?
mac2000さんというお名前から、きっとMacユーザーなのだろうと思っていました。
本当にそうだったんですね。
私も最初からずっとMacを使っています。
Macはただの道具ではありません。
Winマシンとは全然違うものですよね。
私は二台のMacをイーサネットで繋いで使っています。
Old MacとiMacです。Macはかわいがっているペットと同じ。
古くなったからと言ってとても処分なんか出来ません。
うまくいえないけど、mac2000さんがMacユーザーで嬉しいです。
今度mac2000さんのMacのお話聞かせて下さい。HARU――
また読み返さないで返信した。
mac2000さんがヘビーMacユーザーであるなら、必ずこのメールに返信してくれるはずだ。そして、mac2000さんがヘビーMacユーザーである予感は前からあった。
遥はMacユーザーにしかわからない、マイノリティの連帯意識を知っている。パソコンを繋いだと言わず、Macを繋いだという言葉を使う彼は、間違いなくMac信奉者に違いない。無理に会いたいと言うより、Macの話題を出した方が絶対にmac2000さんを惹き付ける事が出来るはずだ。また会える。絶対に。そう確信した。
今まで何からも逃げて来た。何もかも投げやりだった。それでいいと思っていた。だが、今度だけは絶対に諦めない。何もかもが遥に味方している今度だけは。
遥にはmac2000さんの心を捕らえる美しさも賢さもない。でも、それ以上に重大なものを見つける事が出来た。
WinユーザーはMacユーザーを「気持ち悪い」と言う。ただの道具にそこまで心酔して何になると冷めた目で見ている。Macの性能についてもとことん悪く言う。そんな迫害の中、いつも孤独なMacユーザーは、自然と仲間意識が強くなる。実際遥はそこまでMacに心酔しているわけではない。だがそういう人たちをたくさん見て来た。彼等は結婚すらしないでOld Macに埋もれて暮らしている。そして彼等には不思議な共通点があった。親切で礼儀正しく穏やかであるという共通点が。mac2000さんにも共通しているではないか。
三十六まで独身だったmac2000さんは、かなりのヘビーユーザーのはずだ。彼はどんな妖艶な美人よりも、Macを愛する女に心惹かれるはずだ。
メールにはOld Macという言葉をさり気なく入れておいた。必ず何かしら反応があるはずだという期待をこめて。
こんなにすごい切り札が自分に残っていようとは。これも運命に違いない。もし彼の妻がMacユーザーでなければ、勝ったも同然。Macユーザーだったとしたら……またその時考えればいい。
遥は急いでアップルコンピュータのホームページへ行ってみた。最近の話題をくまなく調べる。関連のページにも飛んで、どんな話題にも対応出来るように、熱心に記事を読んだ。それからヤフーのアップル株の掲示板に行ってみた。そこにmac2000さんがいるような気がした。
過去ログをずっと見ていく。
遥の予想は当っていた。大分前から、mac2000さんはアップル株の掲示板にいたのだ。なぜもっと早く気付かなかったのだろう。遥はログをすべて読んだ。その間にも仕事の事はちゃんと頭にあった。メールチェックをし、仕事の修正に対応しながら、遥は食い入るように画面を見つめ続けた。
先週聞いた変なIDの人のホームページもすぐ見つかった。そこにも「HIRO」の名前で多数の書き込みがあった。彼の妻がどの人物かはわからなかったが、そこでの「HIRO」は遥の知るmac2000さんよりくだけた感じだった。そこではMacの話題は出ていなかった。
切りくずすポイントはわかった。あとはどう行動するか……
でもとりあえずは仕事が優先だった。そう思えるだけ、心に余裕が生まれていた。勝機が見えたからに違いない。
月曜日、お昼前にmac2000さんは例の株の掲示板に現われた。mac2000さんと親しく話をしていた人たちの祝辞に、まとめてお礼を述べていた。近況については何も書いていなかった。遥に対する返信もないままだ。
勘違いだったのだろうか、必ず返事が来ると思ったのは。
いつもの掲示板、そこは「バルコス」というイタリアンレストランチェーンの会社の株掲示板だ。Macとは何の関係もない。mac2000さんがここに来るのはホルダーだからだ。遥もたった二百株だが「バルコス」の株を買っていた。
遥はアップル株の掲示板に行ってみた。mac2000さんは書き込みしていない。変なIDの人のホームページにも行って見た。そこにもいない。
では、mac2000さんが一番興味を持っているのは、株でもMacでもなく、イタリア料理なのか? そういえば先週連れて行ってもらったのもイタリア料理の店だった。
遥は仕事に戻った。今日明日は余計な事を考えている場合ではない。殆ど寝ていないが、大きな仕事中の睡眠不足は嫌な気持ちがしない。むしろ充足感さえ感じる。
ドキドキしたり泣いたりしていた遥が消えてしまった訳ではない。でも今の遥は先週の遥とは別人のようだった。仕事を落としてしまった事への反省もある。泣いていてもどうしようもないという理性も戻った。そして何より、もう一度会ってもらう為に何をどうすればいいのか考えるには、冷静になる必要があったのだ。
冷静になってみると、mac2000さんがなかなか会うと言ってくれない理由は、遥がmac2000さんを本気で好きだからではないかと思えて来た。
思い出したくもないが、昔の不倫相手の言葉がいちいち蘇る。
既婚の男は、遊びと割り切ってつきあってくれる子にしか手を出さない、本気で好かれた場合は後が怖いから。そう言っていたではないか。
その時遥は男を憎んだ。つまり遥が自分と遊びたがっていると解釈し、それでご丁寧に手を出して下さったという訳だったのだ。ありがたくって涙が出る。そんなそぶりを一度だって見せた事はないのに。
遥はこの時、男がどんなに自信過剰で自分勝手な生き物かを思い知った。
だがあんな男とmac2000さんを一緒にしていいものだろうか。人間の質が全然違う。輝きが違う。出てくる言葉も違う。mac2000さんを普通の男のように考えるのは、罪な気がした。
ずっと座りっぱなしで身体が痛いので、遥は立ち上がりのびをした。それからベッドの上でストレッチを始めた。ベッドは金パイプのダブルだ。クリスが一緒に寝てくれるだろうと思ってダブルを買ったのに、いてくれた試しがない。だからいつも一人で広々と眠っている。
カーテンの隙間から見えた紫陽花は、いつの間にか終わっていた。くすんだ色合いの中に紅葉のような紅が混じっている。遥は立ち枯れの紫陽花が醸す情緒が好きだった。木の為には、終わった花は切ってやるのがよい。でも遥は毎年紫陽花を切らなかった。
――遊びのように見せ掛けて誘えばいいのかしら。
遥はのばした足の指先を手で押さえ、前屈みのまま三十秒数えた。数えながらもあれこれ考えているので、結局途中でいくつまで数えたかわからなくなる。今度は寝転んで右足を曲げて左側に持って来た。どうせ数えても無駄だとわかり、時間は適当にはかる事にした。
――mac2000さんの手をとった事で、mac2000さんは私を遊び女と思ったかもしれない。もしかしたらそれは、ちょうどよかったのじゃないかしら。もっとはっきり結婚を望んでいないと伝えれば、会ってくれるかもしれない。
曲げるのを左足に交換する。両手は真横に延したが、ベットは充分スペースがあった。
――でもどうやってそれを伝えるの? メールしか手立てがないのに。
どんな上手い文章も浮かんでこない。その通り伝える以外、何も思い付かなかった。
「私は結婚を望んでいません。だから安心して、私と会って下さい」
なんだか間抜けだ。どうしてこんな時、気の利いたセリフが浮かばないのだろう。遥は身体を起こし、腕のストレッチをした。
恋愛感情はあまり見せず、友達のようにふるまえばいいのだろうか。
「Old MacのCPUをアップグレードしたいけど、よくわからないので一緒に秋葉原に行って下さい」
これじゃただの厚かましい女だ。でもこれなら会ってくれそうな気もする。
左右の腕を交換してぎゅっと延した。
mac2000さんがどこに引っ越したのかわからない。聞かなかったし教えてくれなかった。まだ吉祥寺にいてくれたらいいのにと思う。そうすれば街でバッタリ会えるかもしれない。
ストレッチを終えると、遥は寝室を出て行った。むっとする暑さが襲ってくる。
遥の食事は今日もレトルト。冷凍のラザニアを暖め、コーラと一緒に食べた。コーヒーを飲みたかったが、湧かすのが面倒でやめてしまった。こんな暑いところにこれ以上いたら倒れそうだ。
寝室に戻ってメールチェックをする。仕事のメールを探していたつもりだが、視線は一点で止まった。心臓が飛び出しそうなほど急に大きな音を立てて鳴り響いた。
来た!
――mac2000 Mac使いでしたか 01.7.16 11:54AM――<
思った通りだった。
――えさに食い付いた!
そう思ってから、なんてはしたない事を考えているのかと赤面した。だが嬉しさは隠せない。読みは正しかった。やはり運命は味方してくれていた。
もし遥がMacユーザーがどんなものか知らなかったら、この切り札に気付きもしなかったはずだ。しかし遥は知っていた。そして自らもMacを使っていた。これが偶然だと言えるだろうか。
メールを開く。いつもよりずっとずっと長めのメールだ。
――やった!
遥はゆっくりと最初からそれを読みはじめた。
その文面にはMac使いを見つけた喜びが隠せない。mac2000さんの持つ五台のOld Macの名称が並べられている。すべて知っている機種ではないが、そんなものは後でいくらでも調べられる。ノート型のPower Bookは通好みの2400だった。古いが小型で使いやすい人気機種で、ヘビーユーザーは必ずこれを一台は持つ。そして改造して使うのだ。
遥はメールの中でところどころ意味不明の言葉を、検索で調べた。返信する前に、もっともっとOld Macの事を知っておかなければ。たったそれだけの事でmac2000さんの心を捕らえる事が出来るなら……。
画面の前で一人、遥は微笑んだ。 (End)

