恋愛小説〜光の中で
第一話「戸惑い」
目覚めるのはいつも十時頃。遥はだるそうに起き上がって、目をしばたいた。午前中の明るい日ざしがカーテン越しに射しこんで来て、少しまぶしい。キラキラひかる綿埃の道が見えて、綺麗だと思った。
仕事は在宅だ。しかも一人暮し。朝のんびりしてしまうのも無理はない。
遥かはのそのそとベッドから降りて、洗面所に向かった。そのついでにパソコンの電源を入れておく。起動までに少し時間がかかるので、パソコンの前に座ってから電源を入れると、待つ時間がイライラするからだ。
時間に追われない暮らしをしているのに、なぜかすぐにイライラしてしまう。以前はそんな事はなかったのに。起動時に表示されるハッピーMacをぼんやり見ているのが好きだったのに。
寝室を出ると、エアコンの効いていない室内は不快な暑さだった。それでもすぐにまた寝室に戻るつもりなので、窓もあけず、エアコンも入れなかった。
お気に入りのミント味の歯磨き粉で歯を磨きながらキッチンへ行く。
みゃあ〜
クリスが足にまとわり付いて来た。アメリカンショートヘアーの雑種で、三年前から一緒に暮らしている。こうやってまとわりついてくる時は、お腹が空いている時だ。
「おはようクリス、ちょっと待って」
遥はクリス専用の容器に、ネコの缶詰めを出してやって、清潔な水をボウルに入れて側に置いた。クリスはガツガツと食べはじめる。でも最後の一口は残すだろう。いつもそうだ。
遥は洗面所に戻り、口をすすいで顔を洗った。
冷たい水が心地よい。
寝室にも玄関のドアにも、ネコ用の小さな扉がついていて、クリスは好きな時に好きな場所へ行けるようになっていた。幸せなネコだ。
遥の暮らす家は、東京のはずれの古い一軒屋で、まだまわりには畑や緑が残っている静かな場所だ。家は遥の名義である。三年前に父が胃癌で死に、遺産相続で一人娘の遥のものになった。
平家だが一人で住むには広すぎる空間を持て余して、クリスに同居願ったという訳だ。
寝室に戻ると、遥の愛用機はもう準備が整っていた。
他にも部屋はあるが、遥はパソコンを寝室に置いている。目覚めてすぐ快適に使う為には、エアコンの効いた部屋に置いておくのが都合がいいからだ。
最初にするのはメールチェック。そして株価チェックだ。大量のメールの中から仕事の依頼を探す。一つだけ来ていた。それ以外残りの七通はすべてゴミメールだった。
遥は不要なメールを削除し、仕事のメールをあけた。プログラムの仕事だった。
インターネット上で活用するアクセス解析のCGIプログラムの修正だ。すでにあるプログラムを使って、クライアントの指示通りのインターフェイスに変更するだけだから、簡単な仕事である。時間的にも一時間あれば終わるだろう。
仕事を回してくれたエージェントはSITマネージメントという小さな会社だ。他にも六社と契約しており、在宅で仕事が来るのを待つ。
仕事が重なる時もある。逆に全く何も来ない時もある。ひどい時は二ヶ月以上、一つも仕事が来ない時期もあった。
しかし遥には遺産がある。仕事がないからといって、すぐに困るという事はない。あくせくしないですむのはありがたい事だった。
父親の事は好きではなかった。遥が中学の時両親は離婚し、経済的な理由から、遥は父親に引き取られる事になった。母親の事も好きではなかった遥にとっては、母親に付いて貧乏をするよりは、父親に付いた方が得だと思っただけだ。
子供時代住んでいたのはこの家ではない。この家は父も祖父からの遺産相続で手に入れただけで、ずっと人に貸してあった。そしてもっと都心に近い便利なマンションを借りて住んでいたのだ。
やがてバブルがはじけ家の借り手もいなくなり、ここはしばらく空家になっていた。古いしかなり痛んでいたが、遥は少し手直ししてここに住む事に決めた。気持ちを新たにする為だ。それに会社を辞めたら家賃を払って行くのはきつい。
三年前、二十四の時父が死んだのを期に会社を辞めた。二年間苦しんだ不倫の恋を清算したかったから。先行きの希望のない恋はもうたくさんだった。住処を変え仕事を変え、自分自身をも変えたかった。
――もう恋なんて懲り懲り。
ここに来てから平穏な日々をすごしている。小さな庭では気持ちばかりの菜園をつくり、四季折々の花を活け、誰にも束縛されず、誰にも苦しめられず、クリスだけがパートナーだった。
遥は窓の外、庭の片隅に見える紫陽花の大輪を見つめながら、小さなため息をついた。
――幸せって何だろう。
遺産があるとはいえ、それだけで一生涯暮らしていける程でもなく、遥は仕事をせざるを得ない。しかし人間関係にはうんざりしていたので、誰とも関わらない在宅の仕事は遥にとってオアシスだったはずだ。ムラはあるものの、年間三〜四百万にはなり、それだけで充分生活出来る。クリスを養う事もできる。軽だが車も維持していける。なによりいやらしい人間関係とは無縁の世界だ。
パソコンの右上に表示されている時間は10:28AM。
仕事のメールに返事を出さなければならない。
第一回目のメールは仕事の打診である。この仕事があるが、いつまでにいくらで出来るかという問いかけなのだ。これに対して、見積もり書を返送する。もちろんメールで。
料金の折り合いがつけば、正式依頼となる。
見積もり書をつくるのは非常に難しい。一時間で出来る仕事だが早すぎると足下を見られ安く叩かれるし、時間がかかれば仕事は来なくなる。ちょうどよいところを測るのが難しいのである。
遥は納期を明後日の正午に決めた。
金額は……数秒考える。そして、三万円と書き込んだ。本当は五万と言いたいところだが、最近の不況であまり高く言うと仕事が来なくなってしまうので仕方ない。
メールを送信して、返事待ちの間にYahoo!で株価をチェックする。
遥の持ち株は、今日も下がっていた。ナンピンする機会を伺っているが、まだまだ下がるような気もする。遥は掲示板を覗きに行った。
いつもの人はまだ来ていないようだ。
「随分下がって来ちゃいましたね。まだまだ下がるような気がしますが、どう思いますか? アドバイスしていただけたら嬉しいです。HARU。」
書き込みをする。
そしてそのまま別のページを見に行った。同じ在宅の仕事をしている人のホームページで、時々仕事の情報交換をしたりしている。女性だが、ハンドルネームはサスケ。以前メールでなぜかと聞いたら、女性の名前にしておくと、知らない人からたくさんメールが来てしまうからだという答えが帰って来た。
時々携帯電話にも知らない人からメールが入る事がある。
「二十八歳会社員、男です。お話しませんか?」
というようなもの。不特定多数に送っているのだろう。こんな文面で返事をする閑人がいるのかと不思議に思うが、どうやら少なからずいるらしい。パソコンのメールでも女名前にしているとこの手のメールがどっさり来るのだそうだ。しかし遥はまだ一通しか来た事がない。あまりあちこちに書き込みしないせいだろう。遥が行くのは株の掲示板と、SOHOの掲示板だけだ。時々、チャットもするが知らない人とはしない。
時計を見る。11:05AM。
そろそろ返事が来ているだろう。メールチェックをする。たった一時間の間にまた四通のメールが届いていた。
仕事の返事が一つと、あとはまたダイレクトメール――ゴミだ。
「納期明後日の正午、金額三万円でお願いします。」
正式依頼のメールだった。
いつもの遥だったら、すぐに仕事をはじめて一時間で終わらせ、ゆっくり明後日の午前中に納品する。納品はメールに添付するだけで、その後メールで請求書を送るのが、仕事の一連の流れだ。
しかしなんとなく、もう少しあとでいいやという気持ちになり、株の掲示板に戻った。
書き込みの返事はまだなかった。
いつもならだいたい11:00前後に現れて、どんなに馬鹿な質問をしても、優しく答えてくれる人。ハンドルネームは「mac2000」さん。何を聞いても知っており、分かりやすく丁寧に解説してくれる。たぶんmacというハンドルネームをつけているところを見ると、パソコンはマッキントッシュを愛用しているのだろう。遥の愛用機もマッキントッシュだ。なんだかそれだけでも親近感を感じてしまう。
男性なのか、女性なのか、年令はどれくらいなのか、まったく知らない。でも遥はmac2000さんと掲示板で会話をするのが大好きだった。一度難しい質問をした時に、掲示板では長くなるからと言ってメールをくれたことがある。そんな親切さも大好きだった。しかし正直なところ、株の事はよくわからない。解説されてもその半分も理解出来ない。それなのに、mac2000さんの書く文章は心地よく読める。それで毎日何か理由をつくってはmac2000さんに話し掛けてしまうのだった。
遥は一度マシンの前から消え、食パンを一枚かじりつつ、片手にコーヒーの入ったマグカップを持って、戻って来た。
また株の掲示板を覗く。返事はない。当たり前だ。まだ五分と経っていないのだから。
遥はため息をついて画面から視線をはずした。そして朝食――もう昼食と言った方がいいかもしれない――に専念しはじめた。
パン一枚はすぐに食べ終わってしまう。
遥も我ながら馬鹿みたいだと思いつつ、また株の掲示板に足を運んでしまった。先ほどから五分と経っていない。まだ返事はなかった。
「はぁ」
気持ちが沈んで行くのがわかる。チャットではないのだから、書き込んですぐに返事をもらえるはずはない。わかっている。わかってはいるが、なんとなくけだるい。
「しょうがない、仕事でもするか」
気を取り直し、メールにあった添付ファイルをあける。テキスト形式で、CGIプログラムと指示書が入ったフォルダが、自動解凍されていた。sit形式で自動解凍圧縮されているということは、相手もマッキントッシュであるということだ。たまにウィンドウズマシンからの添付ファイルは壊れている事があるので、綿密な確認が必要だが、マッキントッシュから送られて来たデータであれば安心だった。
README.txtというファイルをエディタであけると、中にはびっしりと指示が書き込まれている。見ただけでうんざりする小さな字だ。遥はすべてを選択して、文字サイズを12ptにあげた。やっと読める大きさになった。
指示書を読んでいたつもりだったが、ハッと気が付くとモニタの右上の時計表示は12:03PMになっていた。
急いで株の掲示板に行ってみる。まだ現れない。
遥はがっかりして仕事の指示書に戻った。どこまで読んだのかと思い、最初から斜に読むが、少しも読んでいなかったようだ。おかしい。もうとっくに終わっていてもいい仕事なのに、なんだかmac2000さんが現われるまで、進められそうもない気がした。
仕事をそのままにして、遥は適当にネットサーフィンをしてみた。普段あまりそういうことはしないが、何か気を紛らわせるものが欲しかった。なぜこんなにソワソワするのかわからない。
「はぁ」
今日何度目のため息だろう。
一体自分は何を望んでいるのだろう。
満ち足りた暮らしであるはずだ。男など懲り懲りだったはず。
そう考えてハッとした。
「……男?」
自分は恋人が欲しいのだろうか。三年間恋人なしだった暮らしに不満を感じているのだろうか。だからってなぜ、mac2000さんを心待ちにしてしまうのか。mac2000さんが男性とも限らないのに。
そう思いながらも、はっきりと男性だと感じている自分に気が付いた。あの文体、口調はどう考えても男性に違いない。
「年令はきっと……三十から四十くらい。とても頭の良い人だわ。話し方にも品と優しさがある」
遥の頭の中で勝手な妄想が広がった。
広い草原で穏やかな話をするmac2000さんと自分の姿。見た事もない相手をこんなに鮮明に思い浮かべる事ができるなんて。
妄想は果てしなく続いた。楽しかった掲示板での会話を思い出す。一回だけもらったメールの内容も。
暖かく優しい気持ちが身体中に広がった。尊敬、信頼、安心感、そういった感情がすべてmac2000さんに向けられた。一度も会った事のない相手に安心感を覚えるなんて、不思議で不思議で仕方ない。でも人間性は文章に現われている。誰の質問にも根気よく答えてあげる優しさもこの目で見て来た。
遥が株を買うようになってまだ半年、はじめて掲示板に書き込みしたのは四ヶ月前の三月だった。はじめはログを読んでいるだけだった。しかし、mac2000さんと話がしたいと思うようになった。
「私もあんなふうに優しく説明してもらいたい」
確かにそういう気持ちはあった。だが今感じているこの高揚感はなんなのだ。こんなふうに想像して、暖かい気持ちになるなんて、これじゃまるで……
遥は愕然とした。
「まるで……恋だわ」
そんなはずはない。顔も見た事がない相手に恋など出来るものだろうか。出来るはずはない。何かの間違い、勘違いだ。そうでなければおかしい。
時計表示は12:46PM。
遥は株の掲示板をブックマークから呼び出した。手が小刻みに震えている。心臓がドキドキする。
表示が遅い。イライラする気持ちと見たくない気持ちが混じりあった複雑な感情だった。
「あった!」
――私事ですが…… mac2000 2001年7月05日 午後 12時39分――
mac2000の文字を見つけた瞬間、カーッと身体が熱くなった。顔が火照ってくるのがわかる。今鏡を見たら、耳まで真っ赤になっているに違いない。
心臓が爆発しそうだった。ドクンドクンという音が本当に聞こえてくる。
昨日までこんなじゃなかった。楽しみにはしていたけれど、こんなにドキドキはしなかった。
恋かも知れない……そう意識した途端に、身体が熱くなってしまった。本当に見ず知らずの人に恋してしまったのだ。
タイトルをクリックすると、記事が読めるようになっている。早く読みたい気持ちと、読んでしまうのが勿体無い気持ちが入り混じって手が震えた。
このタイトルはどういう意味だろう。
いつもと違う記事である事は確かなようだ。それが余計開くのをためらわせた。
思いきってクリックする。
心臓がますます早くなる。
――私事で恐縮ですが、この度結婚する事になり、しばらくこちらにお邪魔出来ません。妻になる人とはこの掲示板で知り合いました。そんな訳で勝手ながら御挨拶させていただきました。また落ち着きましたらお邪魔したいと思いますので、よろしくお願いします。――
激しい嫉妬心が沸き上がってくるのを止める事は出来なかった。
結婚、妻、掲示板、いろいろな言葉が頭の中をぐるぐると回った。
不倫していた時の苦しさが蘇ってくる。決して自分の物にならない男との身体だけの関係が。
この人は男性だった。そして確かに昨日まで独身だった。もっと早く自分の気持ちに気付いていたら……そう思うと涙が溢れて来た。恋をしていると気付いた途端に失恋だなんて、悲しすぎる。
――妻になる人はこの掲示板で知り合いました――
遥は彼の書き込みを指でなぞった。
「私にもチャンスはあったのに……」
もう誰ともつきあいたくないと思っていた。故意に目を背けていた。これがその罰なのか。自分に素直にならなかった罰だというのか。
気持ちを落ちつかせることは出来なかった。好きだという思いは今や溢れだして部屋中を満たしていた。遥は画面に背を向けて肩を震わせた。涙が止まらなかった。
「どうしたらいいの」
そのつぶやきはあまりに小さかったので、自分の耳にすら届かなかった。
涙に濡れた瞳の向こうに、カーテンの隙間からこぼれる光が美しく交差した。だが、希望の光にはなってくれなかった。
気持ちはますます膨れ上がって、自分ではどうする事も出来ない。もう二度とこんなにまで好きになれる人は現れないだろうと、根拠もなくそう思えた。
再びモニタに向かい直すと、遥は決心したようにメーラーを開く。気持ちを打ち明けるつもりだった。その結果、あんなにまでも苦しかった、不倫という関係がまた自分の身に降り掛かろうとしている。だが、今の苦しみに比べたらはるかにマシに思える。
愛人でもいい。このままお話も出来ず、一生会えなくなるよりは。
結婚して引っ越しをすれば、メールアドレスは変わってしまうだろう。再び株の掲示板に現われるとは限らない。今なら、彼が書き込みをした今なら、このメールアドレスが使えるはずだ。もうチャンスは逃したくない。
モニタの右上で時計の表示が1:00PMに変わった。

