恋愛小説〜マグダラの万里亜

第一話「名前」

 万里亜という名前が嫌いだった。

 毎週日曜日、千絵を連れて教会へ行く。教会では牧師様が神様のお話をしてくれて、お菓子をくれた。でも貴重なお小遣いを、献金しなければならなかった。

 万里亜は毎週土曜日、祖父から貰う三百円のうち、百円を献金しなければならない事が苦痛で、教会には行きたくなかった。献金は百円以上と決まっていて、十円や五十円は出せなかったのだ。その代わり、兄弟姉妹は何人いても一人献金すればよかった。

 千絵は週に二百円貰っていたが献金せず、結局姉妹の小遣いは同額になる計算だった。

 千絵は教会の帰りに、サンリオショップへ寄るのが好きだった。そこではキティちゃんやマイメロディ、キキララなどのかわいい文房具が売られていて、見るとどれも欲しくなった。だが、万里亜は何も買わず、千絵は持っているだけ全部使った。

 時々姉は、「千絵ちゃん、少しはお金を貯めておいた方がいいよ」と口を出したが、千絵は必要ないと思われるものでも、無理矢理買った。

(買い物する事でこの子なりに、満たされない思いを解消しようとしているのかもしれない)

 万里亜は、もう二年生になったというのにあまりに幼い妹を見て、そう思った。

 二百円で買えないものを欲しがった時は、「二週分貯めて買うんだよ」と教えたが、結局次の週まで二百円が残っていた試しはない。学校の帰りに、駄菓子屋さんで使ってしまうらしかった。

 駄菓子屋へ寄る事は、母に禁止されている。駄菓子屋へ寄った事は言わなくても何故か伝わり、千絵は何度も物差の鞭を浴びた。それでもまた、お金を持っている時には、駄菓子屋へ寄ってしまう。何故懲りないのだろう。

 自分が二年生の時、こんなに幼かっただろうかと、万里亜は訝しんだ。もっともっと大人だった気がしたが、そうでありたいと思う気持ちが錯覚させるのかもしれない。

 一人で大きなリュックを背負って、学校の校庭で食パンをかじった日の事が思い出される。あれは二年生の時ではなかったか。あの時、一人ぼっちの校庭に、父親が迎えに来てくれたのが、どんなに嬉しかったか。

 修二が万里亜の本当の父親ではないこと、もう大分前から知っている。四歳の時、知らないおじさんをパパだと紹介された。その時は不思議に思ったが、受け入れた。預けられていた祖父母の家から、両親の買ったばかりの新しい家に引き取られ、その日のうちに、母親に素肌を物差でぶたれた。

 母親はとても綺麗で、そして怖かったが、「知らないおじさんだったパパ」は、物凄く優しかった。もっと小さい頃は、いつも会社から夕方明るいうちに帰って来て、毎日遊んでくれたし、宿題も手伝ってくれた。

 修二が迎えに来てくれなかったら、あのまま自分はどうなっていたのだろうか。

 聖母マリア様と同じ名前をつけられたのは、何の意味があったのだろうと時々考える。

 千絵は姉の名前を羨ましがった。漫画に出て来る人みたいにカッコいい、という理由だった。

 二人は、友達が読んでいるような漫画の雑誌を買う事を、禁じられていた。だから誰かが学校に雑誌を持って来ると、とても嬉しかった。友達の家に遊びに行くと、漫画がたくさんあって、遊びもそっちのけで読みふけった。千絵も同じだろう。

「千絵ちゃん、漫画を読んでいる事、家で喋っちゃダメだよ」

 万里亜は不注意な妹が、いつ母にその事をばらしてしまうかが心配だった。どのみち理由がなくとも週に二〜三度は、母の不機嫌の相手をしなければならない。理由を与えれば、ぶたれる回数が増えるだけだった。

「お姉ちゃんも漫画読んでる?」

 千絵が何の気なく尋ねる。

「読んでいるよ。ベルバラとキャンディキャンディが一番好き。千絵ちゃんは?」

「千絵もキャンディキャンディが好き。千絵はアニーに似てるって、みんなに言われるよ」

「そうだね、千絵ちゃんはかわいいからアニーに似ているよ」

「でも千絵はアニーは嫌いだよ」

「どうして?」

「わかんないけどなんか嫌い」

「キャンディが好きなの?」

「キャンディも嫌い?」

「じゃ誰が好きなの?」

「丘の上の王子様」

「お姉ちゃんはテリーが好きだよ」

「ええ? テリーはふりょうだもん、千絵はヤだ」

「テリーは本当は不良じゃないと思うな」

「わかんないけどテリーは嫌い。千絵、お姉ちゃんと名前取り替えたい」

 突然、千絵は話題を変えた。会話の途中で全く関係のないことを言い出すのは、幼い頃から千絵の癖だった。

「千絵なんて田舎者みたいで、嫌だよ。何でお姉ちゃんだけマリアなの? ずるいよ。お姉ちゃんはマリア様なのに、お前は女中だって男子に言われたんだから」

「そんなの本気で言ったんじゃないよ。お姉ちゃんはマリアって名前が大嫌い。本当に出来るなら取り替えてあげたいくらい」

「何で?」

「マリア様みたいになりなさいって言われてるみたいで嫌だよ」

「マリア様みたいでいいじゃん」

「よくないよ。千絵の方がずっと呼び易いし、いい名前だよ」

 千絵は納得しなかった。

 二人きりでじっくり話をするのは、教会へ行く日曜日の午前中だけだった。平日は下校時間まで学校にいたし、五時に家に戻り六時まで家事を手伝い、夕食を食べてお風呂に入って、その間に何かしら理由をつけられて一時間程折檻を受け、そして八時には就寝しなければならなかった。

 家で何か好きな事をする時間など、少しもなかった。それでも父が早く帰って来る日には、トランプをしたりゲームをしたりして遊んでくれた。そういう時間は貴重だった。八時までやり過ごせば、その日はもう折檻されないからだ。

 毎週土曜の夕方、東京から祖父母がやって来る。車で一時間ほどだった。

 土曜日、子供達は学校から帰ってお昼を食べると、家中の掃除をする決まりだった。祖父母が泊まる和室は、特に入念に綺麗にしなければならない。その前に、ほぼ毎日やっている洗濯とアイロンがけと雑巾がけを済ませる。玄関も水を流して掃いた。キッチンの汚れも、ステンレスシンクがピカピカになるまで、念入りに磨く。

 一週間でぐちゃぐちゃになった流しの下の整理は、万里亜の仕事だった。千絵はひたすら、ふき掃除をやらされた。お陰で千絵のひざ小僧は、いつも赤かった。

 この時間は非常に危険だった。

 土日は祖父母がいるせいで、百合子は何かあっても子供達を叱らなかった。その反動で月曜日は何でもないことで、大袈裟に騒ぎ立てられ、普段よりひどく叩かれたが、それと同じ事が土曜の午後にも起こる危険性があった。

 百合子は土日に吐き出せない鬱憤を、土曜の午後に爆発させる事が多かった。だから、少しの隙も与えないように、完璧に掃除をこなす必要があった。

 百合子が怒り出す理由は、いつも子供達には理解出来なかった。だが、何か理由があることは確かだ。

(理由を与えてはいけない)

 ごめんなさい、いい子になりますと繰り返しながら得た教訓は、きっかけと理由を与えないようにする、ということだけだった。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 ぼんやりしていた万里亜を覗き込むようにして、千絵が身体を前にのめらせた。

 白いレースのブラウスを着て、フリルのついたピンク色のスカートをはき、髪をまっすぐにのばしいる千絵は、本当にアニーに似ている。目がくりくりとして色白だった。朝、百合子が髪に結んだリボンは、解いてしまっていた。

 教会の帰り道、どちらともなく家に帰る足取りが重くて、途中の公園に立ち寄った。

「千絵は本当はうちの子じゃないんでしょ?」

 さっきまでの明るさは消え、別人のような暗い表情の妹が、公園のベンチで足を小刻みに動かしながら、俯いて座っていた。貧乏揺すりをしてはいけないと、何度も言われているが、時々震えているかのように激しく手足を揺する事がある。

「何で?」

 姉が覗き込むと、千絵の目は痙攣しており、チック症のように目をぱちぱち閉じたり開いたりしていた。

「ママはお姉ちゃんだけが可愛くて、千絵の事は邪魔なんだよ。ぶたれるのもお風呂の水に顔をつけられるのも、千絵の方がずっと多いし」

「そんな事ない。小さい時からママは千絵にはすぐに許したけど、私には謝れば謝る程怒ったじゃない」

「千絵は他の子もみんな、家ではママにぶたれたり首を絞められたりするんだと思ってた。だけど、この前優香ちゃんが言ったの。一回もぶたれた事ないって。そしたらみんなもぶたれた事なんか一回もないって」

 千絵は目に涙をためていた。普段二人の間で、この話はタブーだった。話題に出せば泣いてしまうとわかっていたし、思い出したくなかった。

「千絵ちゃん、お友達にぶたれる事話したの!?」

 万里亜が激しい口調で、千絵の両腕を掴み、揺さぶった。

「ねえ、話したの!? こたえて」

「お姉ちゃん、痛いよ。どうしたの? 何で怒るの?」

 千絵は悲鳴のようなか細い叫びをあげた。

「いい? 千絵ちゃん、家の事は誰にも言っちゃダメなんだよ。絶対に誰にも言っちゃダメ」

「言ってないよ、言えないよ」

 千絵は顔をくちゃくちゃにして泣いていた。万里亜はホッと肩の力を抜いた。

「何で言っちゃいけないの?」

 千絵は泣き声の間から、不満そうに唇を尖らせ、胸で息をしていた。

「千絵ちゃんよーく訊いて。私達はかわいいよね? 私達は頭もいい。私達は何でも人より立派に出来るよね? 千絵ちゃんはオール五だし、かけっこの選手だし、学級委員でしょう? みんなに好かれているよね?」

 千絵には、姉が何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。興味が湧いた。そして泣き止んだ。

 頬は涙に濡れたままだったが、泣き止んで声を殺し、じっと頷いた。何か重大な秘密が、姉の口から洩れようとしているような気がした。

「千絵ちゃんはみんなの人気者だよね。さっき女中の子だと言われたって言ったけど、ふざけてただけでしょう? 本気でいじめられていないよね?」

 千絵にはまだ、姉の言いたい事がわからなかった。ただ、コクリと頷いて次の言葉を待った。

「お姉ちゃんだってそうだよ。みんな私を尊敬している。何でも出来てすごいと思ってる。何かする時には必ず私に訊いてから決めるし、誰も私には逆らえない。私は学校では何でも好きな事が好きなように出来るんだよ。

 千絵ちゃんだってそうでしょう? でもそれは、私達が何でも出来て頭がよくてかわいいからだけじゃない。それだけだったらいじめられるよ。私達が学級委員に選ばれるのは、何でだと思う?」

 千絵は首を横に振った。今までそんな事を考えた事は一度もなかった。言われてみればテストもいつも百点だったし、通信簿もオール五だったし、投票で何か決める時には必ず一番票を集めた。先生が千絵を贔屓しているという人がいたが、千絵の悪口を言った子は、すぐにクラスで仲間はずれになった。学校ではみんなに守られていた。

「思い当たるでしょう? 私達は家では女中だけど、学校ではお姫さまなんだよ。じゃあ山口さん姉弟が、どうしていじめられて嫌われているかわかる?」

「汚いから」

 千絵は即座に答えた。

 山口さんは学校中に有名な、いじめられっ子だった。姉は万里亜と同じクラスで、弟は千絵と同じクラスだ。姉はともかく、弟は悲惨だった。いつでも鼻を垂らしていて、明らかに殴られたような形跡で、顔が変型していた。父親はテキヤで、家は子だくさん、長屋に住んで生活保護を受けている。

「そう、何で汚いかわかる?」

「貧乏だから」

「そうだよ、千絵ちゃん。山口さん達がみんなに嫌われて蔑まれて無視されているのは、家が貧乏だからなんだよ。汚くて馬鹿で顔も醜いけれど、一番の理由は貧乏だからなんだ。だって貧乏じゃなかったら、汚くなんかならないし、あそこまで馬鹿にもならないよ。誰だってみんな、貧乏な家の子とはつきあっちゃいけません、って言われるんだよ」

 姉が何を言いたいのか、まだ千絵にはわからなかった。ぶたれる事を話すのと、貧乏だといじめられる事の関係が。

「ねえ千絵ちゃん、貧乏な家ってどんな家だと思う?」

「小さいお家で汚いお洋服を着ている子の家」

「うん、それもあるよね。私達がお姫さまでいられるのは、大きい家に住んで、いいお洋服を着ているから。それは大事だよ、千絵ちゃん。人はまず見かけで判断するんだよ。だから、お金持ちの見かけをしておけば、力が手に入るんだよ」

「力って?」

「権力だよ」

「けんりょくって何?」

「自分のしたいと思った事を、したいと思ったように動かす力。例えば学芸会の出し物で、千絵ちゃんは歌を歌いたいと思った。別な子は劇をやろうと言った。山口君がお店屋さんごっこをしようと言った。どれをする事になるかは、多数決で決まるよね。でも、みんなはどれにするか決めるのに、何で選ぶと思う?

 一人一人が自分のやりたい事を言ったら、四十五の意見が出るんだよ。とても決められない。だから先に言った者勝ちなんだけど、それでも意見は三つか四つは出るよね? その時にみんなは、どの意見に賛成するかじゃなくて、誰の意見に賛成するか考えるんだよ」

「誰の?」

「そう、この場合千絵ちゃんか、他の誰かか、山口君」

「誰も山口君に賛成しないよ」

「そうだよ、その通り。千絵ちゃんやっぱり頭いいね。普通ね、歌か劇かお店屋さんごっこだったら、誰だってお店屋さんごっこが楽しいと思うものだよ。でもそれを言ったのが山口君だったら、誰も賛成しない。劇と歌はどっちもどっちだから、どちらに決まってもいいんだけど、みんなは歌がいいって言う。何でだと思う?」

「千絵が言ったから」

「そう、千絵ちゃんが言った事にみんなは賛成する。今までずっと、そうだったでしょう? 思い出してごらん」

 思い当たるふしがあるのか、千絵は何度も何度も頷いた。涙は乾いていたが泣いたのは一目瞭然だった。

「それが権力だよ。私達は学校では権力がある。家ではママが一番権力を持っている。だからママが私達をぶっても、私達は従うしかない。権力があれば好き勝手な事が出来るんだよ」

 千絵の瞳が輝きだした。もう貧乏揺すりをしてはいなかった。

「ねえ千絵ちゃん、私達が権力を持ったのは、自分の力でもあるし家の力でもあるよね。他にも権力を持ちたいと思っている子がいて、もしも私達が何か一つでも弱味を見せたら、それを利用して引き摺りおろそうとするよ。私達を山口さんと同じ扱いに」

「うそ」

「ホントだよ。ママに怒られるのは何でだと思う?」

「悪い事をするから」

「千絵ちゃんはどんな悪い事をしたの?」

「門限を過ぎて遊んでいたり、テストで百点じゃなかったり、あとは……」

 千絵は素直に考えている様子だった。しきりに首をひねって思い出そうとしている。つい一昨日も物差でぶたれたばかりなのに、その原因すら何だったのか定められない。

「思い出せないよね? 私達は毎日のように怒られて叩かれて息が出来ないようにされてるけど、理由は思い出せないような小さい事なんだよ。悪い事と思えば悪い事だし、そう思わなければ別に怒られる程の問題でもない。そういう小さい事でも、ママはきっかけさえあれば怒り出すでしょう?

 学校のみんなだって同じだよ。今は千絵ちゃんが人気者だから、我慢して千絵ちゃんに賛成しているだけの子だっているはずだよ。そういう子は小さいきっかけがあれば、千絵ちゃんを悪者にしようとするに決まっている。私達は学校でお姫さまだから、あんな家でも我慢出来るんだよ。もし学校でも山口君みたいだったらどうする? 学校も嫌、家も嫌だったら、私達のいる場所はなくなってしまうんだよ。だから、学校では絶対に弱味を見せちゃダメなんだ。弱味ってわかる?」

「わかんない」

「きっかけをあげちゃダメって事だよ。さっき貧乏だといじめられるって言ったよね? 貧乏は小さい家と汚い洋服だって。でもそれだけじゃないよ。山口君の顔を思い出してごらん。あれは絶対お父さんに殴られて変型したんだよ。転んだって聴いたけど、転んであんな風にはならない。山口君のお父さんはヤクザだからね。これは内緒だけどね、山口さんの背中に大きい痣があったのを、体育の着替えの時に見たよ。紫の痣になってた。ぐーで殴られたんだと思う。それか何か堅い物で」

 千絵は途端に怯え出した。見開いた目は恐怖に引きつっている。

「貧乏の証拠はね、小さい家と汚い洋服の他に、頭の悪さと暴力があるんだよ。山口さんの親は頭が悪いから、あんな生活になっているんだよ。頭がよかったらお金をいっぱい貰える仕事につけるけど、馬鹿だからヤクザになるしかなかったんだ。馬鹿だからああやって見える場所に、平気で暴力をふるうんだよ。親が馬鹿だから子供もみんな馬鹿なんだよ。みんな貧乏のせいなんだよ。

 私達は、もっとママに感謝するべきだっていつも言われているけど、本当に一つだけは感謝するべきだと思う。ママは見栄っ張りで癇癪持ちだけど、頭だけはいい。ママは絶対に跡が残るようなやり方はしない。ひどくても二〜三日で跡は消えるし、それに必ず見えない場所ばかりぶつでしょう? 太股を打った時はズボンをはかせるでしょう? 利口な証拠だよ。他人にさえわからなければ、何もなかったのと同じ事なんだよ。わかる?」

 千絵は首を横に振った。眉毛の位置で綺麗に切りそろえられた前髪が、一緒に揺れた。

「誰にも知られなければ私達はお姫さまのままだけど、誰かが知ったら魔法は解けて、かわいそうな子、みじめな子、貧乏な召し使いになっちゃうんだよ。うちは実際よりずっと金持ちに見える。そう見えるようにママが仕組んでいるからだよ。そのお陰で私達は学校で権力を手に入れた。頭がいいのだってママの遺伝でしょ。学校ではいい思いが出来るようにしてあげるから、その代わり家では服従するのよって言われている気がする」

「パパの遺伝は?」

 万里亜は一瞬、口を噤んだ。千絵は父親と血が繋がっていない事を知らない。だが知らない方がいい。

「そうだね、パパの遺伝も」

 万里亜は真直ぐに見つめる妹から目を逸らした。ケヤキの新緑から漏れる光が、ちらちらと眩しかった。

 今何時だろう、ふと気になって万里亜は辺りを見回した。時計はどこにもなかった。

「千絵ちゃん、随分遅くなっちゃった。きっと怒られるからもう帰ろう。そこの水道で顔を洗っておいで。そのままじゃおかしいよ」

 千絵は勢いよくベンチから飛び下り、水飲み場へと走った。万里亜もあとを追った。鞄から綺麗な刺繍のついたハンカチを取り出し、千絵の顔を拭いてやる。

「はい千絵ちゃん、もっとよく拭いて」

 そう言ってハンカチを渡した。千絵はまだ雫が残っている首や手を拭き、ふとハンカチに視線を落とした。

「綺麗。これどうしたの? 千絵のはないの?」

「ああこれ。クラスの男子に貰ったんだよ。お姉ちゃんの事好きなんだってさ。好きだとか嫌いだとか、馬鹿みたい」

「千絵には?」

「千絵ちゃんも、そのうちいっぱいプレゼントをもらえるよ。千絵ちゃんはお姉ちゃんよりずっとかわいいもん。それ、あげるよ」

 千絵は嬉しそうにハンカチの皺をのばした。

 千絵が嬉しそうにしているのを見ると、万里亜も嬉しくなる。

 誰にも言えない傷を共有している、たった一人の妹だった。まだ幼く、物事の道理をわかっていない。チック症や貧乏揺すりがひどくなって、心を病んいると思われてしまう前に、万里亜が助けてやらねばならない。感情をコントロールする術を教え、発作を押さえる精神力を持たせなければ。そして何より権力を維持する大切さを、教えておかなければ。それには時間が足りなかった。

 二人だけでもっともっと話をしたかった。でも、今日はもう話し過ぎていた。嘘をついても無駄だとわかっていたが、何をしていたのか訊かれたら何と答えるか、一応相談しておかなければならない。

「千絵ちゃんが転んで頭をぶつけて、気持ち悪くなったから公園のベンチでしばらく休んでいたことにしよう」

「千絵が?」

「だってお姉ちゃんが気持ち悪いって言ったら、甘えるなって言われるだけだよ」

「千絵だけ怒られない?」

「大丈夫、そんな事は絶対させないから」

「本当?」

「ホントだよ、お姉ちゃん今まで、千絵ちゃんに嘘ついた事ないでしょう?」

「うん」

「千絵ちゃんも、どんなにママが怖くても一回ついた嘘はずっとつきとおさなくちゃダメだよ。あとで嘘でしたって言ったら、もっともっともっとぶたれるんだから」

「嫌だよ」

「でしょう? じゃ、ちゃんと転んで休んでいたって言えるね?」

「うん」

 二人は手をつないで家へ向かった。今日は日曜日で家には祖父母がいる。今日の間は絶対に怒られない。そんな安心感があった。

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