恋愛小説〜マグダラの万里亜

第二話「遠足」

 九月の初旬に遠足があった。最初は六月に予定されていたものが、雨で延期になってとうとう九月になってしまったのだ。

 四年生の遠足地は、泉自然公園だった。千葉駅からバスで三十分ほどの場所にある大きな公園で、入園料は無料だった。万里亜は何度か家族で行った事のある泉自然公園を、つまらない場所だと思った。

 遠足は嫌いだ。

 百合子は低血圧で朝、起きられない。だからお弁当を作って貰えない。まだ火を使うと危険だと言って、自分で作る事すら禁じられている。仕方ないので、前日に菓子パンを買っておいて、一応持っていく。お弁当の時間が来ると、先生の手伝いをしてりる振りでさり気なくどこかへ隠れて、一人でパンをかじらなければならない。そんな姿は誰にも見られてはならなかった。

 遠足当日、目覚めて階下へ降りて行くと、父親が背広の上にエプロンをしている姿が目に入った。毎朝、子供達に御飯を食べさせ学校へ送り出すのは、父親の仕事だった。だが、今までエプロンなどしていたのを、見た事はなかった。

「おはよう、万里亜。今日は遠足だろ? パパがお弁当をつくっておいたから持ってお行き」

 一瞬、意味がよくわからなかった。テーブルの上には、あらいぐまラスカルのナプキンで包まれた、小さなお弁当箱が置いてあった。

 徐々に、心が喜びで満たされて行くのがわかった。

「パパ、ありがとう」

 万里亜は父親に飛びついた。生まれて始めてのお弁当だった。中身がどんなかなんて、考えも及ばなかった。今日はみんなと一緒にお弁当を食べられる。隠れなくてもいいんだ。そう思うと、自然に笑みがこぼれた。

「行って来ます」

 いつもより早い時間に家を飛び出し、学校まで駈けて行く。

 観光バスの中では、三百円までと決められているおやつを、みんなで取り替えっこしながら食べる。バスガイドさんがマイクを回して、みんなで歌を歌う。公園についたらきっと自由時間だ。それから集合があって、お弁当の時間になる。

(その時私は、もう隠れなくていいんだ)

 楽しかった。早くお弁当の時間が来ればいいと思った。

「万里亜ちゃんおはよう」

 クラスで一番仲良くしている恵里子が、もう集合場所に来ていた。恵里子は副学級委員で、万里亜の次に権力を持っている子だった。家は正真正銘のお金持ちで、着ている服もよいものばかりだ。顔だちもかわいらしく、成績も万里亜の次によかったし、運動も出来た。明るく親切で、誰からも好かれていた。万里亜も恵里子が大好きだった。

「恵理子ちゃん早いね」

「だってママが、遅れたら迷惑だから早く行けって言うんだもの」

「うちもそうだよ」

「こういう時、遅れて来て人に迷惑をかけるのって、だいたい馬鹿な子だよね」

 恵里子は明らかに特権意識を持って、余裕の笑みを見せた。自分や万里亜はちゃんとした家の出来の良い子で、だらしなかったり遅れたりするのは、貧乏な家の頭の悪い子だった。少なくとも恵里子がそう思っているのは確かだった。

「集団生活が上手く出来ないのは、頭が悪い証拠だよ。誰だって人に合わせたり規則を守ったりするのは嫌に決まっているけど、守らなければいけない事ってあるじゃない?」

 万里亜は大人びた口調でそう応えた。表情からはどんな感情も伝わらなかった。

「守らなくてもいい規則だってあるよ。だけどどれが守るべきでどれが守らなくていいか、区別出来ない子がいるのよね。そんな子たちには、私達が教えてやらなきゃいけないよね。委員だし」

「そうだね、でもたぶん遅れて来るのは山口さんだけだと思う」

「三沢君だって危ないよ」

「そうか、要注意だね」

 そう応えながら、万里亜は頭の中で恵里子の言葉を反芻した。

――守らなくてもいい規則だってあるよ。だけどどれが守るべきでどれが守らなくていいか、区別出来ない子がいるのよね――

 どれが守るべきでどれが守らなくていい規則か、その判断は万里亜と恵里子の間では等しかった。だから仲良しでいられるという事もあった。だが、二人の判断が絶対的に正しいと言えるだろうか。その正しさは誰が決めるのだろう。

 万里亜は先日、妹に話して聴かせた自分の言葉を思い出した。

――絶対的基準から言えば、歌や劇より、お店屋さんごっこの方が楽しいに決まっている。でも、それを提案したのが誰か、というところで、みんなの意見は変わって来る。みんなはそれが面白くない事でも、千絵の意見に賛成する。――

 思いつきで出た言葉だったが、限り無く真実を言い当てている気がした。

(私達は学級委員だけど、私達の決めた事が絶対に正しいとは言えない。みんなが従うのは学級委員の意見だからだ。正しいからじゃない。恵里子ちゃんは頭がいいくせに、ちっともわかっていないんだ。自分の意見こそが正しいと信じている。それじゃ馬鹿な子たちと変わりないじゃない。正しさは権力で決まるのよ。どんなに正しくない事でも、権力を持った途端に正しくなるんだわ)

 恵里子はクラスでは唯一、対等に話せる友達だった。他の子たちは馬鹿すぎたり子供過ぎて、とても話したいとは思わなかった。

 それでも、その恵里子さえ、本当の事は何もわかっていない。自分は常に正しく、人は常に間違っていると思っている。教師だってそうだ。親もそう。自分の正しさをどこまでも押し付ける。世の中は馬鹿ばかりだ。けれど、そう思っている万里亜の考えが、正しいとは言えないのだ。万里亜にはそれがわかっていた。

(私の考えが正しくなるのは、権力のある間だけだ)

 続々と集まって来る生徒達を並ばせ、点呼を取りながら、万里亜は恵里子と顔を見合わせた。案の定、山口さんが遅れていた。

「山口さんの家に電話……っと、電話がないんだったわね」

 担任の女教師が呟いた。小さい声だったが、周囲の何人かは聴いていただろう。

 そういうデリカシーのない事を平気で言うから、山口さんが余計いじめられるのだと、万里亜は思った。教師なんて正しいどころか、間違った事しかしない。そう思うのが万里亜だけだとは、到底思えなかった。だが教師が正しくないという考えも、絶対だとは言えない。ただ、万里亜にはそう感じられるだけだ。

 出発時間を二十分過ぎた頃、山口さんがやってきた。元気がなかった。

 教師も生徒も苛立って、口々に不平を漏らした。山口さんは俯いて何も応えない。

「謝りもしないなんて」

 四十代半ばの女教師が、吐き捨てるように言った。いつも先生の近くにいるべき学級委員たちには、先生の罵りがはっきりと聴こえた。恵里子が嘲笑うように、微かに笑ったように見えた。

 山口さんが遠足に行きたくなかった理由は何だろう。

 朝、たくさんいる妹や弟の世話をさせられていたのだろうか。それとも、三百円のおやつが買えなかったんだろうか。もしかしたら、お弁当を作って貰えなかったのかもしれない。

 彼女はリュックサックを持っていなかった。遠足のお便りには、持ち物のところにはっきりと、リュックサック、水筒、と記されていたはずだ。だが、彼女はリュックサックも水筒も持っていない。いつも持っている汚いズタ袋のようなものを、右手に下げているだけだ。

 誰もその事を指摘しなかった。これが他の子だったら、男子達が面白がって指摘したに違いない。だが彼女は誰からも、完全に無視されていた。まだからかわれていた方が、救われる気がした。

 バスの座席は自由だった。委員の三人、万里亜と恵里子と書記の木下君は、先生のすぐ横に座り、あとは後ろから詰めていった。後ろの方の席を取り合って、男子が我先に走って乗り込んだ。後ろの座席ほど人気があるのだった。必然的に、山口さんは前の方の空いている席に座る事になった。

 先生の真後ろが空いていた。彼女はそこにぽつんと一人で座った。

 あそこでたった一人、誰にも振り向かれずにみじめに座っているのは、もしかしたら山口さんではなく、自分であったかもしれない。万里亜はそう思わずにはいられなかった。

 (もしも家が貧乏だったら、ああやってみじめさに耐えるのは私だった)

 クラスに一人、いじめられる存在は必要だった。

 誰もが、怒りを抱えて生きている。してはいけない事は何か教えられ、意にそまぬ行動を強いられ、我慢して我慢して我慢して。万里亜だけではない。どの子もみんな、自分なりの我慢をしているものだ。誰がより我慢しているかなんて、比べようがない。みんな、自分が一番我慢していると思っている。そして、はけ口を求めている。

 山口さんは生け贄だ。たまたまいくつもの条件が彼女を不利にした。生け贄は一人でいい。みんな自分の怒りを、不当だと知りながら彼女にぶつける。先生でさえそうだ。

(彼女は誰よりも一番我慢しているじゃない。何故みんなそれをわかってあげないんだろう)

 バスは出発し、おやつタイムになった。山口さんはおやつを持って来ていなかった。それなのに先生は、気付かないのか、気付いていて知らないフリをしているのか、彼女に声をかけなかった。

(もし私が教師だったら)

 万里亜は怒りを感じながら思った。

(絶対に持って来られないとわかっている山口さんの分のおやつを、そっと用意しておくのに)

 万里亜は予備に持って来たビニール袋に、いくつかのおやつを分け入れた。隣の席にいた恵里子が、「山口さんに?」と小声で耳打ちし、小さく頷いた。恵里子も自分のおやつをその袋に分けた。

 万里亜の方が窓際に座っていた。恵里子は斜左後ろに一人で座っている山口さんを、そっと振り返り、誰も見ていない事を確かめてから、素早くおやつの袋を渡した。

 山口さんがびっくりして顔をあげた。自分の膝の上に置かれたおやつを見て、恵里子の顔を見た。恵里子は微笑んで頷き、すぐに前を向いた。山口さんの表情は、万里亜からは見えなかった。

「これって先生の役目よね」

 恵里子が本当に小さな声で、耳打ちした。憎々し気だった。万里亜の感じた怒りを、恵里子もまた感じていた。だが、心の奥底には優越感があった。可哀想な子を助けてあげる恵まれた良い子である自分に、恵里子は満足していた。

(私は違う)

 万里亜は偽善的心を否定した。

(私が憐れんだのは、山口さんじゃない。自分なんだわ)

 そこが自分と恵里子の違いだと思った。本当に恵まれている子と、必死で恵まれている振りをしている子の違いだ。でもそれは絶対に悟られてはならなかった。

 九月の泉自然公園には、たいした花もなく、ただただ緑が眩しかった。残暑の照りつける木々の下に、木漏れ日が薄く透き通って地面をきらめかせた。刺すような陽射しは、木陰ではほどよく遮られている。池には鴨のような鳥が何羽かゆったりと泳いでいた。

 暑い日だった。照りつける太陽に目眩を覚える程だった。

 自由時間は、何名か一緒に散歩コースを歩いた。だが誰も景色などに興味を持っておらず、友達とのおしゃべりを楽んだ。万里亜も恵里子と話ながら、ブラブラと歩いて暇を潰した。

「くだらないよね」

 恵里子が砂利を蹴りながら俯いたまま言った。

「勉強するよりいいと思う子が多いからでしょう?」

 どうでもいいという風に、万里亜が受け応える。

「まあね、でもクラス全員で来る意味なんかないよ」

「そうだね、どうせ私達は誰かが問題を起こさないかどうか、気を配ってなきゃならないし、授業の方がずっと楽だよね」

「何で私達が、馬鹿男子共を集合させたり点呼取ったりしなきゃならないんだろう。給料貰っているんだから、先生がやればいいのよ」

「楽したいんでしょう」

「職権乱用よ」

 恵里子は時々九歳とは思えないような事を言う。子供っぽい顔だちとのミスマッチが、ませた子供という印象を与えて可笑しかった。

「でもそれが大人の権利だよ」

「そんな権利を使うなんて、教師として失格じゃない?」

「教育の為っていう口実があるもの。ちゃんと逃げ道を用意してから、抜け目なく乱用するの。誰だって力を手に入れたらそれを使いたくなるものだよ」

 二人は歩き疲れて芝生に腰をおろした。落ち着いてこの話を煮詰めるつもりだった。

「じゃあ万里亜ちゃんは、先生の事を正しいと思うの?」

「まさか」

 口の端を歪めて笑う。子供らしくない表情だったが、二人は池の鴨を見ており、お互いの顔には気を止めなかった。

「バスの中の事にしたって、先生は山口さんの事をもう少し考えてあげるべきだよ」

 恵里子が正義感をふりかざした。

「そう思うよ。山口さんのお父さんがテキヤだとか、生活保護を受けているとか、先生が言わなきゃ誰も知っているはずないじゃない。少なくとも私は先生がPTAに話しているのを聴いたんだから」

 恵里子の怒りはそっくりそのまま万里亜の怒りでもあった。

「私はママから聴いたよ。ママは保護者会で誰かから聴いたって。その保護者は先生から聴いたってわけ?」

 恵里子は呆れ顔で、万里亜の方に身体ごと向き直った。

「そうでしょう? 悪い噂はすぐに尾ひれをつけてまわるんだよ。先生はそれこそ職権乱用して人の秘密を触れ回ってるんだよ」

 芝生を弄んでいた右手に力が入る。思いきり千切ると、青臭い草の匂いがした。

「知ってる? 家庭訪問の時ね、先生はその家の何かを必ず貰って帰るんだって。お貰いさんって呼ばれているんだって、先生が自分で言ったのよ」

 恵里子は興奮を隠せない様子で、身を乗り出した。

「知ってるよ。うちからはレザークラフトのバックを二個持って行った。その上イニシャル入りのバックを一個作って欲しいって。子供の話なんかしないで、そんな事ばっかり話してた。バック、いくらするか知ってる? 駅前のクラフトショップで一個五万円で売ってるくらいの大きさだよ」

「うちからはパパに来た御中元のお酒を持って帰ったよ。ナポレオンとかいうやつ。三万円するってママが言ってた」

「私達が先生に意地悪をされないのは、そのせいだよ」

「山口さんが悪い事を言いふらされるのは、先生に何もあげられない家だからなんだね」

「きっとね」

「それは教育委員会に訴えても、ダメなのかな」

「教育委員会は教師の味方なんだよ、恵里子ちゃん。よっぽど犯罪の証拠でもないかぎり、注意勧告で終わっちゃうんだよ」

「そうなんだ。万里亜ちゃんって何でも知っているね」

「新聞を読んでいるだけだよ」

 ふと、隣に座っていた中年の男性の陰が動き、二人は顔をあげた。男は二人を覗き込んで笑った。

「ずいぶん難しい話をしているね。遠足かい? お嬢ちゃんたち、いくつなの?」

「知らないおじさんと話をしちゃいけない事になっていますので、失礼します」

 二人同時にピシャリと言い放って、立ち上がった。男は呆気に取られて、二人の立ち去る方向を眺めていた。走って逃げるでもなく、落ち着いた様子で歩いて行く。

「あなた、どうしたの?」

 側にいた男の妻が近付いて来た。

「いや、近ごろの小学生は生意気だなと思って」

 男は苦笑して、妻の肩を抱いた。

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