恋愛小説〜マグダラの万里亜

第三話「夏休み」

 夏休みは最大の恐怖だった。一日中、母と顔を合わせていたら、毎日朝昼晩でも怒らせてしまう。

 低学年の頃は、祖父母の家に長期で泊まりに行っていたが、五年生からはラジオ体操の当番がまわって来て、一ヶ月中家を空けるという訳にはいかなかった。当番は夏休み中に二回やって来る。その時にはどうしても帰っていなければならなかった。

 もうすぐ夏休みというある土曜日、委員の仕事で恵里子の家に集まった。高学年はクラス替えがなかったので、恵里子とは同じクラスのままだったし、クラス委員も変わらなかったのだ。

 万里亜の他に男子が二人来た。簡単な学級新聞の原稿を作るだけで、用事はすぐに終わった。男子は帰ったが、万里亜は門限まで遊んで行く事にした。

 恵里子は母親の事を「聡子さん」と呼んでいた。品のいい優しそうな女性だった。

「どうしてママを聡子さんって呼ぶの?」

 万里亜は不思議に思って訊いてみた。

「パパがそう呼ぶから真似していたら癖になっちゃったの。パパの事は透さんって呼ぶよ」

「どんなパパ?」

 万里亜は自分がパパを修二さんと呼ぶ事なんか、想像も出来なかった。透さんと呼ばれるパパはどんな人だろう。興味が湧いた。

「ねえ万里亜ちゃん、今日泊まっていきなよ。透さんに万里亜ちゃんを紹介したいよ、ね?」

 ひどく魅力的な申し出だった。泊まって行きたい。だが、ただでさえ土曜の掃除をさぼっているのに、この上泊まるなどと言って、許してくれるはずがない。

「すごくそうしたいんだけど、うち、お泊まりは禁止なんだよ。門限も厳しいし」

「ええ? つまんない。聡子さんから電話してもらったら? いいって言うんじゃない?」

「ダメだよ、今晩おじいちゃんとおばあちゃんも来るし」

「そうなんだ。じゃ、夏休みは? うちの別荘に十日くらい一緒に行かない?」

 行きたかった。すぐにでも、行く行くと飛びついてしまいそうになるのを、なんとか堪えて、「ママに訊いてみるね」と応えた。でもいいと言われるはずはなかった。

「たぶんダメだと思うけど」

 そう付け加えた。

 五時前に家に帰りつくと、玄関では百合子が仁王立ちになって待ち受けていた。細い身体がこういう時は大きく見える。訊くまでもなく怒っていた。理由はわからなかった。一体何のきっかけを与えてしまったのか。

「そこに座りなさい」

 言われているのが玄関の下なのか上なのかわからずに戸惑っていると、平手が左頬に飛んで来た。よろけて靴のまま尻餅をつき、そのまま正座した。玄関のタイルが冷たかったが、夏なので苦痛ではない。

 百合子も 段通絨毯の玄関マットの上に座って、万里亜を睨み付けた。

「岡田さんのお母さんから電話があったわ。恵里子ちゃんに泊まって行くように誘われたそうね」

 万里亜は素直に頷いた。それが何か怒られるような事に繋がるとは、想像も出来なかった。きちんと断ったし、門限内に帰って来たのに。

「別荘にも誘われたんですって?」

「はい」

 声を出して応えないと余計に怒られると思い出し、はっきりと応えた。時にはそれが生意気だと言われる原因になった。しかし声を出さなければ出さないで、返事くらいしろと言われるに決まっている。

「ママが泊まりを禁止しているって言ったそうね」

「そんなこと!」

「黙りなさい!」

 再び平手が左頬を打った。

「なんて汚い手を使う子なの! 行きたいなら素直に行っていいかどうか訊けばいいじゃないの。それを回りくどいやり方で。岡田さんのお母さんの同情を惹きたかったの? よくもそんな薄汚い真似を!」

 百合子は肩を震わせて涙を流した。百合子の涙はいつだって悔し涙だ。だが泣きたいのは万里亜の方だった。百合子は興奮して言葉を繋ぎながら、何度も左頬を打ち続けた。

 そのうち洋服を引き裂き始め、無理矢理脱がせようとした。薄手のブラウスが引き裂かれる音が、悲鳴のように聴こえた。万里亜は自分から服を脱いだ。

 黙りなさいと言われたので、ずっと黙っていた。腕を引っ張られて、靴を履いたまま玄関に転がるように上がった。万里亜は急いで靴を脱ぎ、マットのない床の上に正座した。

「正直に素直に言えば、頭ごなしに反対なんかしないわ。それを岡田さんの親から電話させるなんて、ずる賢い卑怯な子ね。私がなんて言われたと思っているの? あなたのせいで」

 何度も手のひらで腕や脇腹や頬を叩いていたので、百合子の手は真っ赤になっていた。それ以上に、万里亜の身体には手の跡がくっきりついていた。百合子は立ち上がり、部屋の奥へ駆け込んだ。物差を取りに行ったのだとすぐにわかった。

「そこまで厳しくするのはどうかと思うって、意見されたのよ。私の気持ちがあなたにわかる?」

 持って来た物差で、身体の前面を打ち続ける。万里亜は痛みを忘れる為、感情を飛ばした。

(頭ごなしに反対しないと思っているのはあなただけよ。いつだって、何だって、反対しかしない。友達と遊ぶのだって、委員会とかクラブとかいう時以外、すべて禁止されるじゃないの)

 怒りが込み上げて来て、それを隠すために仮面をつけた。何もかもぶちまけたい。しかしそうすればもっと長く折檻を受けるだけだとわかっていた。

 心の中で、一つ怒りを具体化すると、顔の表面を覆う膜が、一枚厚くなった。

(いつ私の話を聴いてくれたというの? 何を言っても必ず怒り出して物差を振り上げるじゃないの。気持ちがわかるかですって? それならあなたはどうなの? 私の気持ちがわかるっていうの?)

 感情をひた隠しにするため、万里亜はますます無表情になっていた。心の中の煮えたぎる怒りは、決して表に出してはいけない。

(他人の気持ちなんか、誰にもわからないのよ。あなたに私の気持ちがわからないように、私にだってあなたの気持ちなんかわからない。誰だって自分の事しかわからないのよ。大人の癖に何故それがわからないの?)

 素肌を打つ甲高い音が、遠くから聴こえてくる。自分とは関係のない音のような気がした。

「何でも買ってもらって、誰よりもいい思いをしているじゃないの。贅沢すぎる程の暮らしをさせてあげているじゃないの。誰のおかげなの? どうしていつまでも感謝の心を持てないの? 私だって好きで怒っているんじゃないわ。あなたの中に悪魔が住んでいるから、だからそれを追い出す為に、仕方なくぶっているのよ」

 仕方なく――その言葉に我知らず、身体が反応した。

「何なの、その反抗的な目は! いつになったら悪魔は出て行くの? いつになったらいい子になるの? 私が言っている事はそんなに難しい事なの? 嘘をつくな、人に迷惑をかけるな、ズルはするな、人を陥れるな、正直に素直になりなさいと、そう言っているだけよ。たったそれだけよ」

 百合子が泣けば泣く程、万里亜の心は覚めて行った。

(嘘はなるべくつかないようにしている。でも、命を守る為に必要な時もある。人に迷惑をかけないように気をつけている。だけど、みんな私には迷惑をかける。それでも気付いていない。私だけが気付かないといけないの? 私だけが人に迷惑をかけているの?)

 怒りより大きな哀しみが、心を支配し始めた。

(ズルなんかしたいと思ってした事はない。いつも猾いって言われるけど、何が猾いのかわからない。教えて、どうすれば猾くなくなるの? 何をすると猾いの?)

 涙がこみあげてきたが、それに無理矢理蓋をした。泣くのは、猾い事だと言われるからだ。

(人を陥れるなんて、考えた事もない。たとえ誰かが私を陥れようとしても、私は仕返ししていないわ。そう思っているのは私だけ? 本当はしているの? していないと思っているのは勘違いなの? 間違いなの?)

 哀しみが頂点に達すると、もう泣きたいという感情もなくなってしまう。

(正直に、素直に生きようとしているわ。でもどうしても出来ない時がある。私が正しいと思った事でも、ママは怒るとわかるから。ぶたれるとわかるから)

 終いには、どうすればこれ以上ぶたれずに済むのか、それしか考えられなくなる。

「何とか言いなさい!」

 強烈な一撃が頬を打った。たぶん血が出た。

 黙りなさいと言われたから黙った。今度は何とか言いなさいと言う。何を言えば満足してくれるのだろう。何を言っても余計怒るし、言わなくても怒り出す。

「ごめんなさい」

 無意識に口をついた。

「謝れって誰が言ったの!?」

 百合子の興奮はなかなか治らなかった。昔の事まで蒸し返して、あれやこれやと万里亜を責め立てる。

 聴きたくない。耳を塞ぎたい。そう思う事が猾いという事なのか。

 逃げ出したい。二度と百合子の顔を見たくない。そう思うのが悪魔の仕業なのか。

「あなたみたいな嘘つきは、いつか罰が当たるのよ。雷が落ちて来て真っ黒こげになって死ぬのよ。誰も見ていないと思って悪い事ばかりしていても、神様はちゃんと見ているのよ。あなたの中の悪魔がした事を、決して許しはしないのよ」

 叫びにも似た物差の音と金切り声が、楽器の演奏のように聴こえた。

(そうか、私が悪い事をしていないつもりでも、知らない間に悪魔が出て来て、悪い事をするんだ。私が眠っている時に、私が他の事を考えている時に、悪魔がそっと出て来て、ママが怒るような事をするんだ。その為にいつか私には罰が当たって、苦しんで死ぬんだ。それはいつだろう)

 別に今日だっていい、と万里亜は思った。

 うつろな目で母親を見つめる。目を見ていないともっと叱られる。気が遠くなりそうだった。

 一瞬、百合子が打つ手を止めて、万里亜を睨み返した。唇を噛んで涙を止めようとしているようだった。

「仕方なく、本当に仕方なく、夏休みに岡田さんの別荘に行く事を許可したわ。だからって羽目をはずして余計な真似をしたら、どうなるかわかっているわね。したくて許可したんじゃないのよ。あなたの汚い罠にはまって、許可せざるを得なかったのよ。おかげで岡田さんには何を言われるかわかったものじゃない」

 百合子の唇は、怒りに震えていた。いくら叩いても足りないと言わんばかりに、拳を握りしめていた。

「万里亜。名前に似つかわしくない子。よく覚えておきなさい。人間はしてあげた事は百倍に感じるものよ。あなたが岡田さんの別荘に行く代わりに、私はその十倍のお礼をするでしょう。ところが岡田さんは、十分の一しか返されなかったと思うのよ。同等だと思ってもらう為には、恵里子ちゃんをうちの別荘に呼ばなければならない。でも私は身体が弱くて、充分に恵里子ちゃんの世話を出来ないかもしれない。何と言われるかわかる? 充分なもてなしを受けなかったと言われるのよ」

(そんな事を思い付くのは、あなただけよ)

 万里亜はそう思った。

「万里亜。私が意地悪で泊まりを許可しないとでも思っていたの? それだからあなたは感謝のない子だと言われるのよ。

 よく肝に命じておきなさい。人に何かしてもらってはいけない。人に何かして欲しいと期待してはいけない。無償で何かさせてもいいのは、結婚を申し込んで来た男にだけよ」

 百合子は立ち上がり、リビングへと消えた。玄関に残された万里亜は、もう終わったのか、服を着てもいいのか、判断をつけられずにいた。

 ふと時計を見ると、六時だった。七時には祖父母がやってくる。だから百合子は早めに切り上げたのだ。

 階段の陰から怯えた様子で千絵が覗き込んでいる。万里亜は安心させようとしてニコリと笑った。

 服を拾って身につけようとしたが、ブラウスは引き裂かれていた。万里亜はスカートだけをはき、ブラウスを持ったまま二階へあがった。自分の部屋へ入り、着替えを捜した。ブラウスはそのままゴミ箱に捨てた。だがすぐにそれを拾い上げ、机の引き出しから紙袋を出した。そのまま捨てて祖父母に見とがめられては大変だ。何故ブラウスが引き裂かれているのか、説明を求められたら何も言えない。

 紙袋に入れてから小さく丸めて、再びそれをゴミ箱にうつす。

 ドアを開ける音がした。

「お姉ちゃん、入ってもいい?」

 千絵がもじもじとドアの陰に立っていた。

「いいよ、おいで」

 赤くなった腕が隠れるように、長そでのブラウスを着てボタンをしっかり止めた。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ。いつもよりずっと軽かったもん」

「でもほっぺに血が出てるよ」

「え? ホント?」

 そっと手をかざすと、血の感触があったが、微かだった。廊下に出て二階の洗面所に入る。物差の四角い跡が残っていて、摩擦のような傷が出来ていた。血は滲んでいる程度で、流れてはいない。千絵が心配そうに洗面所を覗き込んでいた。

「これくらい大丈夫」

 鏡越しに千絵に笑いかけて、万里亜は顔を洗った。今まで痛みを感じなかったのに、濡れた途端急に滲みた。

「つっ……」

 タオルに血をつけないように、ティッシュで顔を拭く。そのまま濡れたティッシュを頬に張り付けた。

「お姉ちゃんごめんなさい」

 急に千絵が、泣き出しそうな顔で身体を硬くした。チック症状が出ていた。

 千絵を自分の部屋に連れて行き、ベッドに座らせる。

「どうしたの? 言ってごらん」

「ごめんなさい」

 今にも泣き出しそうだった。

「怒らないから言ってごらん」

「……ママに」

 千絵が言いにくそうにもじもじしている。万里亜は千絵が何を謝っているのか、瞬時に悟った。絶望感が襲い掛かって来た。

「何を言ったの?」

 だが優しく訊いた。

「漫画を読んでいる事。わざとじゃないよ。間違えちゃったの。アニーに似ているって言っちゃって、アニーって誰って訊かれて。千絵だけ怒られるの怖かったの。だからお姉ちゃんも読んでいるって言っちゃったの。ごめんなさい」

「いいよ、千絵ちゃん。もう言っちゃったならしょうがない。先に教えてくれてありがとう。黙ってて知らなかったら、お姉ちゃんママに嘘ついて余計叱られるところだったよ。ありがとう、千絵ちゃん」

「怒らないの?」

「どっちみち、その事がなくても何かで叱られるんだ。同じだよ。それより千絵ちゃんは怒られなかったの?」

「うん」

「それいつ?」

「今日、お掃除している時」

「そっか」

 万里亜は諦めたように肩を落とした。さっき百合子はその事について何も言わなかった。今日は土曜でもうすぐ祖父母がやってくる。月曜日にまとめてたっぷりとお仕置きするつもりなんだろう。

 永遠に土日だけが続けばいい。だが現実は否応なくやってくる。

 仕方のない事だった。早く大人になりたい。早くこの家を出られるように。それまでは心を殺して生きていくしかない。

 つまらない事を考えても仕方ない。楽しい事を考えよう。万里亜はふと先ほどの百合子の言葉を思い出した。

 そう言えば夏休みに、恵里子ちゃんの別荘へ行く許可を出したと言ってなかったか?

 急にわくわくした気持ちになり、心が踊った。今日ぶたれた代償に、恵里子ちゃんの別荘へ行けるのだとすれば、このくらいの痛みは何でもない。月曜日だってどんなにひどく怒られても、せいぜい二時間我慢すれば済む事だ。

 百合子が利口なのはわかっている。決して本当に殺しはしないだろう。そんな事をして自分が罪を着るつもりなど、あるはずがない。罪に問われない程度に憂さを晴らしているだけだ。そう思えば、心が楽だった。

 本当に自分の中に悪魔がいて、それを追い出す為に百合子が怒るのだとは、どうしても思いたくない。もしかしたら、それが真実がもしれないという思いはある。だが今は、認めたくなかった。

 夏休みまであと一週間だった。

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