恋愛小説〜マグダラの万里亜
- 序章
- 第一話「名前」
- 第二話「遠足」
- 第三話「夏休み」
- 第四話「別荘」
- 第五話「リア王」
- 第六話「喘息」
- 第七話「最後の夜」
- 第八話「星の王子様」
- 第九話「新しい敵」
- 第十話「田園交響楽」
- 第十一話「自己嫌悪」
- 第十二話「電話」
- 第十三話「転機」
- 第十四話「薔薇の咲く頃」
- 第十五話「十三周忌」
- 第十六話「恩」
- 第十七話「死神」
- 第十八話「最期の言葉」
- 第十九話「終章」
第四話「別荘」
「はじめまして。一週間よろしくお願いします」
万里亜は初対面の恵里子の父親に、丁寧に頭を下げた。
がっちりした頼もしい体つきをしていたが、優しそうに笑う人だった。たぶん修二より年上だろうと思われたが、大人の年齢はよくわからない。ネイビーブルーのポロシャツはバーバリーで、カジュアルなベージュのパンツを合わせていた。
「はじめまして、万里亜ちゃん。もう一人娘が出来たみたいで嬉しいよ。仲良くしよう」
透は大きな右手を差し出した。咄嗟に、握手の事だとは思わなくて戸惑った。
「透さんは仲良くしなくていいの。万里亜ちゃんは私のお友達なんだから」
恵里子が口を挟んで、差し出された透の右手を掴んだ。そのままぶらさがるようにして、透の身体に巻き付いた。
「お? 邪魔する気だな。一人占めはさせないぞ」
透が恵里子の両手をしっかり掴んで、持ち上げた。恵里子は足をじたばたさせながらきゃっきゃっと喜んだ。
急に疎外感が襲ってきて、万里亜を不安にさせた。だが次の瞬間、恵里子を左腕に抱えるように持ち替えて、右腕が万里亜にのばされた。あっという間に抱き上げられて、放り投げるような真似で子供達の身体を上下させた。
「みんなで仲良くしなくちゃダメなんだぞ」
恵里子は怖がるような振りをしながら、大喜びで
「もう、わかったよ。降ろしてよ」
甘えた声を出した。学校でのしっかりした恵里子は、どこにもいなかった。
二人を同時に降ろすとすぐに、
「聡子さん、遅いな。ちょっと見て来るから車に乗ってなさい」
白いクラウンを指差した。
恵里子が後ろ座席の扉をあけ、万里亜に乗り込むよう促した。助手席側から万里亜が先に乗り、運転席側の方へ詰めた。すぐに恵里子が乗り込んで来て、ドアを閉めた。エンジンのかかっていない車の中は、むあっとする熱気だった。
「あっついー。そうだ、万里亜ちゃん、車酔い大丈夫? 弱かったよね」
「長いの?」
「うん、たぶん二時間くらい。首都高が混んでいなければもっと早く着くよ」
夏休みだが平日なので、小田原厚木道路は混んではいないだろうけれど、昼間なので首都高が混むのだと、恵里子は言った。伊豆には、祖父が別荘を持っていたので、恵里子の言葉の意味はすぐに呑み込めた。
小田原厚木道路では、覆面パトカーがスピード違反の取締をしている事で有名だった。いつも空いているので、スピードを出したくなるような道なのだった。首都高を抜ければ厚木までも、混んでいないだろうと思われた。
「大丈夫だと思う。もし気持ち悪くなったら車を止めてもらうかも」
「うん、すぐ言って」
「海老名あたりで休憩するかな?」
「たぶんすると思う。いつも海老名で御飯食べるから」
「じゃあ大丈夫。ありがとう。恵里子ちゃんのパパ、優しそうだね」
「うん、優しいよ。万里亜ちゃんのパパはどんな人?」
「優しいよ。遊んでくれる」
「山口さんちのお父さんみたいじゃなくてよかったね」
恵里子はいい家の父親はパパで、貧乏な子の家はお父さんなんだと、決めていた。どんな根拠があってそう思うのかは、万里亜にはわからなかった。
「そうだよね」
適当に相槌を打った。
車の中は本当に暑かったが、間もなく透が聡子を伴って玄関の鍵を閉めるのが見えて、ホッと息をついた。
「うわ、暑いな。エアコン入れておけばよかったな。ごめんな」
運転席のドアを開けるなり、透が大袈裟に驚いてみせた。
「ひどいよ。透さんって、聡子さんの事しか考えてないんだから。恵里子はどうなってもいいっていうの」
「ははは。そんな事はないぞ。でも恵里子より聡子さんの方が好きに決まってる」
ふざけた調子で笑いながら、イグニッションキーを回した。エアコンの吹き出し口からは、熱風が勢いよく出て来た。
「全くやんなっちゃう。いい年して」
恵里子がちょっと照れたような顔で、万里亜を見た。何も応えられず、笑顔を返そうとしたが引きつっている気がした。でも恵里子はすぐにまた前方に視線を戻した。
「あら、でもママは透さんより恵里子が好きよ」
聡子が透の方を向いて口を出した。
「ひどいな」
「透さん、ふられちゃって残念だったね」
恵里子が、動き出した車の中で嬉しそうに乗り出して、透の左腕を軽く叩いた。
不思議な光景だった。
まるで友達のように話す恵里子の口調や、軽い冗談が言い合える関係が、うらやましいと言うより信じられなくて、ハラハラした。
いつ母が怒り出すかと息をつめ、言葉を選んで敬語を使い、思った事は何一つ口には出さず、心に止めておく習慣がついていた。こんな風に笑いあう家族がいるなんて、想像もしなかった。
「さあ、出発するぞ。危ないからあんまり乗り出すなよ」
「はーい。海老名まで寝てるよ」
「ああ、うるさいからそうしろ。万里亜ちゃんも寝ているといいよ。お昼食べる時には起こすから。大丈夫、置いていったりしないよ」
透はバックミラー越しに、子供達に笑いかけた。
「そこが危ないのよね。眠っていたら私達を置いてきぼりにして、聡子さんと二人で行っちゃう可能性大よ」
恵里子が万里亜に耳打ちする真似をする。
「信用ないなあ」
どんな顔をしたらいいのかわからずに、万里亜はずっと作り笑いを浮かべていた。悲しいような、寂しいような、怖いような、不思議な気持ちがした。
車が動き出すと、恵里子はすぐに眠ってしまった。手持ち無沙汰だった万里亜は、目を閉じて眠った振りを演じていた。
時々、恵里子の両親の仲のよさそうな小声が耳に入って来るが、何と言っているのかまでは、聴き取れなかった。
それから海老名のレストランで昼食をとり、また車に乗った。
万里亜はあまり食べられなかった。軽くサンドイッチだけを頼んだが、それも半分残した。
こういう時、お金をどうすればいいのかわからない。どうやってそれを支払うと言えばよいのか。言い出せないままに、万里亜は透が支払いするのを黙って見ていた。
「ごちそうさまでした」
そう言うしかなかった。
「いちいち気を使わなくていいんだよ」
透の大きな手が、万里亜の頭にのせられたが、どう対応したらいいのかわからない。
食事をごちそうしてもらった事を母に話せば、酷く怒られるとわかっていた。しかし小学生の子供が、大人に対してお金を払いますと言うのは、いかにも可愛げがないことのように思える。この状況では、無邪気な子供の演技が求められているとわかったが、それは万里亜の最も苦手とする役柄だった。
海老名を出てからも、恵里子はすぐに眠ってしまい、万里亜も目を閉じたままじっとしていた。お陰で車酔いにはかからなかった。
車が止まり、透が声をかけるまで、万里亜はずっと目を閉じていた。
「さあ、着きましたよ。お嬢様方」
透が運転席側の後ろのドアを開け、万里亜は降りようとした。
「運転、お疲れさまでした」
子供らしくない受け答えをしてしまい、透を驚かせた。
「万里亜ちゃん、本当にしっかりしてるね」
万里亜の手を取って車から降ろしながら、透は目をまるくした。それから車に上半身を入れて、まだ眠っている恵里子を揺らした。
「恵里子お嬢様、到着ですよ」
「ううん。もう着いたの?」
ねぼけ眼でやっと恵里子が這い出して来た。
その間に聡子は、別荘の雨戸を開けて、窓を開け放し、部屋の空気を入れ替えていた。
そこは伊豆高原駅から続く桜並木の高級別荘地だった。建物は古くて外見は和風の趣だ。しかし内部は使い易く洋風にリフォームしてあるらしい。透の父親、つまり恵里子の祖父の所有であると、恵里子が教えてくれた。
「いいところだね」
色々な不安はあるものの、考えたり心配したからと言って、何かが変わる訳ではない。ここでの一週間、何もかも忘れて楽しもう。万里亜はそう決めた。
昼間は釣りに行ったり、ドライブをしたり、海洋公園まで散歩したり、サイクリングもした。いるかのショーも観た。
夕食はいつもみんなでつくった。広めのキッチンなのに四人でいると、ひどく狭く感じる。何度もぶつかりながら、笑いあって助け合って、それぞれの仕事を仲良くこなす。その風景に自分が組み込まれているという事が、まるで奇跡のようだった。
楽しかった。
もしも岡田家の娘だったら、生まれた時からずっとこんなに楽しい暮らしが出来たのだ。神様は本当に不公平だった。
前世で一体どんな良い行いをすれば、一点の曇りもないこんな幸せな家庭に生まれて来られるのか。山口家に振り分けられる子供、岡田家に振り分けられる子供、そして、秋本家に振り分けられた自分。産まれ落ちたその時、既に全ての将来は決まってしまい、努力したかどうかに関わらず、決められた道を生きるのだ。
夕食の後の団欒。それは普通のことなのだろうか。八時過ぎても無理矢理眠るように強制される事はない。好きなテレビも見られるし、四人でトランプもした。最初のうちつくっていた笑みは、いつの間にか本物になった。
万里亜も恵里子に倣って、透さん聡子さんと呼べるようになった。この人たちが本当の親だったら、どんなに幸せだろう。だがそれは願ってはいけない事だった。
毎晩、万里亜は透とチェスをした。誰も相手にならなくてつまらないのだと、透は言った。そして時々、わざと負けてくれた。
「万里亜ちゃんは筋がいいね」
透が言うと、恵里子が得意げに万里亜の自慢をする。
「万里亜ちゃんはクラスで一番頭がいいんだから。それにいつも、すごく難しい本を読んでいるのよ。透さんが読むみたいなやつなんだから」
「へえ、どんなの?」
「えっと……ほら、何だっけ? 万里亜ちゃん」
恵里子に話題を振られて、どの本の事だかわからなかった。けれど恵里子は特定なものを言っているのではなく、全般的に万里亜の選ぶ本を難しいと感じているようだった。
「ジャンルは?」
透は万里亜に向き直った。
「法律とか、心理学とか、宗教とかが易しく書いてある本を捜すの」
「へえ、学校推薦の本じゃないんだ」
透が驚くと、また恵里子が口を挟んだ。
「あんな子供騙しなの万里亜ちゃんが読む訳ないじゃない。私だって感想文の時以外読まないよ」
「でも学校には児童書しか置いてないだろう」
「だから市の図書館に行くのよ。私達、いつも一緒に行くの。ね、 万里亜ちゃん」
「うん」
「そうすると万里亜ちゃんは大人が読む本を借りるんだよ。難しい漢字がいっぱいの」
「読めるの?」
透は恵里子の方には黙って頷いて、また万里亜に声をかけた。
「辞書を引かないと読めないし、意味がわからないのもあるけど、色々な事が知りたくて」
「子供向きの物語は嫌いなの?」
透は万里亜の本の選択に興味を引かれたようで、チェスの駒を弄びながら、ゲームを中断してしまった。
「物語は低学年の時読んでみたけれど、みんな作りごとだから」
「作りごとだとどうしてダメなんだい?」
「大人になるのに役に立たないもの」
万里亜は本心を答えても良いのかどうか戸惑いながら、視線を彷徨わせた。
「お父さんかお母さんがそう言うの?」
万里亜はわずかばかり、首を横に振った。
「母は文学を読みなさいと言うんだけど、私は生きて行くのに実際に役に立つ知識を身に付けたいの。全部の本を読む時間はないから、知りたい事が書いてある本を捜すの」
「どんな事が知りたいの?」
「一人で上手に生きていく為に必要な事なら何でも。作りごとの世界なんか、何の役にも立たないもの」
「……」
恵里子が割って入って来て、透に巻き付いた。
「もう、いいでしょ」
「あ、ああ。そうだね。で、恵里子は何を借りるんだ?」
「え? 私? 私は漫画とか……えへへ」
「なーんだ」
「あらいいじゃないの。子供なんだから漫画だってなんだって」
透が大袈裟にがっかりしたジェスチャーを見せると、お茶を入れて持って来た聡子が口を挟んだ。
「そうだよねー。聡子さんは透さんより恵里子の味方だもんね」
「じゃあパパは万里亜ちゃんを味方につけるからいいぞ」
「万里亜ちゃんだって恵里子の味方だもん」
「仲間はずれにするつもりだな」
仲の良い父と娘は、プロレスごっこのようにからみ合ってじゃれていて、万里亜にはそれがうらやましくもあった。
そうして楽しい日々は一日一日と減って行き、ついには最後の日を迎える事になった。
その日の朝、聡子の実家から別荘に電話があり、聡子は急用で一晩実家に泊まって来る事になった。子供達には詳しい事情は聴かされなかったが、どうやら誰か病人がいるらしいことが、なんとなくわかった。
聡子不在の最後の日、二人の女の子たちは、グランパル公園に連れて行ってもらった。そこはアスレチックのようなものがある遊戯場だった。
万里亜は明日から戻る現実を考えないようにしながら、心から笑い、思いきり楽しんだ。まるでこの日を心を刻み付けておかなければ、明日から生きていけないとでもいうように、一瞬一瞬を目に焼きつけていた。
暗くなって来てもう帰ろうということになり、車はかわいらしいペンション風の建物に入った。夕食を取る為だった。
万里亜は食欲がなくて、小さなドリアを一つ頼んだだけだったが、透が心配して、万里亜の為に、スープとかデザートとかジュースを頼んでくれた。それを残しては悪いと思い、万里亜は無理矢理食べ物を口に運んだ。
いくら考えないようにしようと思っても、自分の暮らしとのあまりの違いに、どうしても恵里子を羨む気持ちが生まれてしまう。
教会では、人を羨んではいけないと教えられた。なるべくそうしないように生きて来た。けれどこんなに楽しい思いを味わってしまったら、羨まずになんかいられない。
透を自分だけの父にしたい、そんな思いが浮かんで来て、それをすぐに打ち消した。
こんなによくしてくれている岡田一家に対し、そう思う事が裏切りのような気がした。そういう葛藤を抱えている時、万里亜は食べられなくなる。
(ママの言う通り。私の中には悪魔がいるんだわ。そうでなければこんなに優しくしてくれた恵里子のパパを、横取りしたいなんて醜い気持ちが生まれるはずない。これは私じゃない。悪魔の仕業だ。どうか早く消えて。気付かれて軽蔑されてしまう前に)
万里亜はプリンアラモードを口に運びながら、自分の醜い心を見透かされないよう、ずっと目を伏せていた。
その日はなかなか眠りにつけなかった。隣に恵里子の規則的な寝息が聴こえて来て、それが気になって来ると、次には時計の針のチクチクという音が気になり出した。
もう真夜中だった。暗い部屋の中でじっと目をあけている事が多いので、月明かりで大抵のものは見える。時計は二時半を示していた。
万里亜はもぞもそとふとんから出て、枕を抱えたまま廊下に出た。明かりをつけなくても歩く事が出来る。そして、透と聡子の寝室の扉に手をかけた。 カチャ。
小さな音は闇の中に沈んだ。
足音を立てないようにゆっくりと部屋の中へ進む。大きなダブルのベッドには、透が一人で横たわっている。
万里亜は何かに導かれるように、透の横に滑り込んだ。
大きく暖かい背中の温もりを感じると、あんなに眠れなかったのが嘘のように、すーっと意識が奪われて行った。そして、楽しくて幸せな夢を見た。
翌朝、目覚めるともうすでに九時をまわっていた。
万里亜は自分がどこにいるのか、わからなかった。見た事もない部屋の大きくて立派なベッドで、一人で眠っていたのは何故だろう。
するりとベッドから出た時、ふっと懐かしい匂いがしたが、何の匂いだか思い出せない。廊下に出てみて初めて、そこが恵里子の別荘であることを思い出した。
階下でヒステリックな女の声が聴こえてきて、万里亜は無意識に足を忍ばせた。息を詰めて階段を降りて行くと、聡子と透が何か言い争っている様子が聴き取れた。
「だって子供だと言ったって女の子なのよ」
「だから何だって言うんだ、子供は子供だろう」
「どうしてわざわざ私のいない時にあの子が貴方のべッドにいるわけ?」
「ホームシックにかかったんだろう。目くじらたてる程の事じゃないだろう」
「貴方は本当に気付かなかったの? 私が帰って来て起こすまで、あの子が隣にいたことに、本当に気付かなかったの?」
「何度もそう言ってるだろう。大きな声を出すのはよしなさい」
「五年生にもなって、しかもあのしっかりした子が、親と一緒に寝る習慣なんかある訳ないじゃないの」
「まだたったの五年生だ。恵里子だってまだ甘えん坊だろう」
「あの子、普通の子供と何か違うわ。私は怖いのよ。あの子は恵里子に悪影響を及ぼすような気がする。つき合わせない方がいいんじゃないかと……」
「止めないか。あの子は頭も良くてとてもいい子だ。君がそんな意地悪を言うなんて信じられないよ」
「意地悪じゃないわ。女の勘よ。あの子は危険な感じがするの」
「思い過ごしだよ。ただの子供だ」
「でも」
「もうよしなさい、この話はここまでだ」
透がリビングのガラス張りのドアに向き直った時、そこに立っていた万里亜と目があった。一瞬、どちらも動けなかった。しかし透の方が大人だった。何事もなかったように微笑みを浮かべ、万里亜をリビングに招き入れた。
「おはよう、ベッドが変わってよく眠れた?」
からかうように口にした透の一言に救われ、万里亜は自分を取り戻した。
「ごめんなさい。すごく恥ずかしい事しちゃった。ねぼけてて、つい癖で。家ではたまに父と一緒に眠るから」
透にというより聡子に謝った。そうしなければならないと思ったのだ。
聡子の笑顔は引きつっていた。昨日までの自然な優しさは感じられない。明らかに万里亜を嫌悪している表情だった。だが、気付かない振りをしなければいけない。
「……あら、びっくりしただけよ。しっかり者の万里亜ちゃんも案外子供だなと思って」
聡子がその場を繕った。
おそらく先ほどの会話を聴かれていた事は、聡子にも、そして透にもわかっていたに違いない。だがそれを表に出すような事はしなかった。
「最後の最後になって、へましちゃった」
万里亜はつとめて明るくそう言って、舌を出した。
子供らしく振る舞わなければならない。とくに、聡子の前では。本能がそう教えてくれた。
その時、目を擦りながら恵里子が降りて来た。
「あれぇ、万里亜ちゃんいつ起きたの? 私も起こしてくれればよかったのに」
恵里子は万里亜が夜中のうちに部屋から消えた事に、気付いていないようだった。ホッとして曖昧に笑い、着替えてくるという名目でその場を去った。 心臓がドキドキしていた。
万里亜は自分が何をしたのかちゃんと覚えていた。少しもねぼけていなかった。
(悪魔の仕業だ。私が、仲良しだった透さんと聡子さんに禍いの種を捲いたんだ。ママがそう言ってた。あなたは禍いを振りまいて、まわりにいる者をみんな不幸にするって)
そして万里亜の中の悪魔は更に、聡子がこのまま帰って来なければいいと思った。恵里子が消えてしまえばいいと思ったのだ。
(今初めてわかった。悪魔が本当にいるって。私の中に)

