恋愛小説〜マグダラの万里亜

第六話「喘息」

 六年生になってそろばん塾の時間が遅くなった。試験に合格して二級に上がったので、最上級クラスになったからだ。

 そろばん塾は家から歩いて二十分ほどの場所にあった。終わるのが七時半で、片づけやら何やらしていると、家に帰りつくのは八時になる。

 八時を一秒でも過ぎると、百合子は烈火のごとくに怒り出す。帰りにちょっと先生に呼び止められただけでも、万里亜にとっては生死を分ける大問題だった。

 冬になると空気が氷のように冷たい。

 小児喘息を患っていた万里亜は、冬の戸外が大嫌いだった。冷たい空気は、ほんの少し多めに息を吸い込んだだけで、万里亜を呼吸困難に陥らせるからだ。

 それでも、今日は走らなければならない。

 そろばん塾の戸田先生は、万里亜と同じ学年である自分の娘が、学校でどんな様子なのかを訊く為、万里亜を十五分も拘束したのだ。

 戸田先生の娘とは、生徒会で少し交流があるだけだった。時間を気にしてソワソワしている万里亜にまるで頓着せずに、戸田先生はおしゃべりを続けた。やっと解放された時には、他の生徒は全員帰った後だった。

(走らなければ、八時過ぎてしまう)

 万里亜は焦っていた。こんなに空気が冷たい日に、暖かい衣服を剥がれて外に出されたり、水風呂に入れられたりしたら、どんなに辛いだろう。

 だが、気持ちが焦れば焦る程、呼吸は苦しくなる。ゆっくり走っていたはずなのに、もう肺からはヒューヒューという、あの、喘息特有の嫌な音がし始めていた。

 たくさん息を吸い込まなければ息苦しい。かといってたくさん吸い込めば、今度は冷えた空気のせいで、喘息はひどくなってしまう。一度咳き込みが始まったら、もう自分ではどうする事も出来ない。

(神様、あとほんの少しだけ息が続くようにお守り下さい)

 万里亜は、いもしない神に必死の祈りを捧げた。そうせずにはいられない程、息苦しさは最高潮に達していた。

(苦しくない、苦しくない、私は大丈夫)

 喘息の発作が起こりそうになると、万里亜は決まって心の中でそう唱え続けた。

 百合子が言うには、喘息は弱い心が原因の病気だった。甘えた気持ち、自分を甘やかす気持ち、逃げようとする心、楽しようとする心、そういったものが喘息を生み出すのだ。いつでも自分を厳しく律していれば、決して喘息にはなり得ないのだった。

 それが百合子の説であるのか、それとも医学的な証拠があるのかどうか、万里亜は図書館で喘息、心理学、精神医学の本を読みあさって調べた。

 百合子の説はあまりにも片寄ってはいたが、そういう学説を唱える医者も少なからずいるのだということがわかり、それ以来万里亜は、喘息の発作を恥じていた。甘える心がそれを生むのだと言われれば、その通りである気さえした。

 一吹きで発作がおさまる吸入剤は、百合子に取り上げられた。ちょっとでも苦しいとすぐに薬に逃げて、依存症になるからだという理由だった。

 一条の光りも万里亜を照らさない。ただ一筋の希望も、万里亜には与えられない。どんな苦しみにも、自分自身の強い心のみで立ち向かう事が、常に要求されていた。

 一瞬で楽になれる薬が、今ここにあったなら。そう思う心が弱い心なのか。甘える心なのか。

 暗くて人気のない公園を突っ切ると、少しだけ家に近くなる。危ないので、暗くなってからは通らないように言われていたが、今はどんな危険よりも百合子の折檻のほうが恐ろしかった。

 万里亜は迷わず、外灯のない広い公園を駆け抜けようとしていた。もう心臓は爆発しそうだったし、ヒューヒュー音は警笛のようだった。目の前が真っ白になりかけると、その度に意識を奮い立たせる。

(私は強い、私は走れる、私は甘えない)

 念仏のように唱える言葉は、頭には入って来ない。もう何も考えられない。

 苦しさを耐えるには、何か全く別の事を考えるのが効果的だった。しかし、それさえも出来かねた。

 走っているつもりだったが、実際には緩慢な動作で倒れる寸前だった。

 その時。

 目の前にふいに大きな人陰が現れ、驚いた拍子に、不用意に大きく息を吸い込んでしまった。それが引き金となり、それ以上どうやっても、空気が肺に送られなくなった。

 万里亜は息の止まった状態で、大きく目を見開いた。もう、一歩たりとも足を踏み出せなかった。

 学校で受けた注意を思い出す。

 最近この辺りをうろついている変質者。ぶかぶかのコートを着ていて、女の子が通りかかるとコートの前をいきなりはだけると言う。コートの下には何も身に付けていず、少女に猥褻なものを見せるのが目的だと聴いた。

 これが、先生の言っていた変質者だろうか。

 目の前に立ちはだかった男は、既に霞がかっていた。

(そんなものを見せたからなんだと言うのだろう。どうしてこう馬鹿な大人が多いのだろう。それともここで逃げられない私は、変質者に殺されるのか。それが私への罰?)

 意識は急速に遠のいて、バサリと倒れた時の身体の痛みは、何も感じなかった。

 夢を見ていた。

 自分が気を失ったのだという事は覚えていた。せっかく走ったのに無駄になった。結局は八時を大幅に過ぎて、余計折檻される羽目になった。

(世の中には無駄な事が多すぎる)

 そう思っていると誰かが「それは違う」と言った。聴き覚えのある声だったが、誰だったのか思い出せない。姿も見えない。

「どう違うというの?」

 万里亜はそれが夢であると自覚しつつ、声の主に問いかけた。

「無駄と思える事の積み重ねが、人間をつくるんだよ」

 前にどこかで誰かに聴いた言葉のような気がする。

「人間をつくるってどういうこと?」

「一見無駄と思えるものが、君の全てを形作っている」

「わからない」

「今はわからなくていいんだ。大人になればきっとわかるよ」

「私はもう大人よ。どんな大人より大人だわ」

「違う。君はまだ子供だよ。子供でいいんだ。無理して大人になろうとする必要はないんだよ」

 急に哀しくなって来て、万里亜は泣きたかった。けれど万里亜には泣く事が許されていない。

「どうしてそんな事を私に言うの? あなたはだれ?」

「君がとても無理をしているのがわかるから」

「何故知っているの? 私は誰にも無理しているなんて言ってないわ」

「見ればわかるんだよ。君がどんなにそれを隠そうとしていても、見ればわかる」

 ぼんやりとした白い人陰が現れて、万里亜に近付いて来た。

「やめて、どうしてそんな意地の悪い事を言うの? 私を甘やかさないで」

 耳を塞いでしゃがみこんだ万里亜に、白い陰は手を差し伸べた。

「君はもっと甘えてもいいんだ」

「やめてったら。甘えていいはずがない。誰が甘えさせてくれると言うの? あなたは誰なの? 私を救い出してくれると言うなら、一時ではダメよ。永遠に救い出して。そうでないなら構わないで」

 大きく振払うと、白い陰はゆがめられて、かき消えた。

 何度かまばたきすると、今度は白い天井が見えた。ゆっくりと目を見開くと、万里亜はふかふかのベッドに横たわっていた。

「どう、気分は?」

 誰かが訊いた。声のほうを振り向くと、ぼんやりとした白い人陰が、ベッドの方を向いて立っていた。

「あなたが助けてくれたの?」

 そう訊きながら、これは夢だとわかった。助けてくれる人など、いるはずがない。

「助けるって何から?」

 人陰はとぼけた口調で訊き返した。

「何でもない。ここはどこ?」

「君の家だよ」

「私の? あなたは誰?」

「僕は君の夫だ。忘れたの?」

「……夫?」

 万里亜は自分の手を見た。白くて長い美しい指。爪にはピンク色のマニキュア。それから胸のふくらみにそっと手をあてた。万里亜は、いつのまにか大人になっていた。

「鏡を見せて」

 夫と名乗る白い人陰が、綺麗な銀装飾の手鏡を渡してくれた。

 覗きこんだ途端、万里亜は鏡を放り投げた。ガチャーンと、ガラスの割れる音が響いた。

 そこに映し出されたのは、百合子だった。

「なんだ、乱暴だな」

 人陰はのんびりとそう言った。

「私は誰?」

 恐怖に震えながら訊いた。

「誰って……○○○」

 肝心のところが訊き取れない。

「え? 何? 何と言ったの?」

 問いつめようとすると、人陰はゆらゆらとゆがんで、かき消えた。

 見る間に幸せそうな清潔な部屋は歪んで行き、万里亜は身体中に痛みを覚え始めた。うずくまって痛みに耐えようとすると、素足に砂利の感触があり、辺りは真っ暗やみに覆われた。

 万里亜は倒れていた。起き上がろうとしているのに、身体中痛くて動きが取れない。急激に「寒い」という感覚が戻って来た。

(ここで起きあがれないのは甘えだ)

 万里亜は気持ちを奮い立たせて腕をついた。呼吸ははるかに楽になっていたが、まだヒューヒュー音は耳の端に聴こえていた。

 暗い公園。目が慣れて来るまで方向がわからなかった。

 誰かが助けてくれる夢を見るなんて、馬鹿みたいだ。目覚めたらふかふかのベッドにいたなんて、万里亜の一番嫌いなおとぎ話の世界だった。

 現実は違う。自分で起き上がらなければ、誰も手を差し伸べてくれない。

 どれくらい意識を失っていたのか、見当もつかなかった。

 やっとの事で立ち上がり、固まってしまった手足を振った。もう今さら急いだところで、無駄だとわかっていた。

 万里亜は、身体中の砂利を払おうとして俯いた。そして、意識を失う寸前に見た男が、足元に横たわっているのを見た。ブランコの縁のところだった。

 人が倒れている。助けを呼ぶべきだろうか。しかし相手は変質者だ。変質者などに関われば、百合子がどんなに怒るだろう。

 万里亜は敢えて倒れた男を無視し、家への道を歩き出した。どうして倒れていたのかなんて、考えなかった。

 じっとしていると寒くて凍えそうだ。

 歩きながら百合子への言い訳を考えた。喘息の発作で倒れていたと言えば、「見え透いた嘘」だと言われるに決まっていた。百合子はいつでも嘘をつくなと繰り返す。万里亜が本当の事を言えば言う程、百合子は嘘だと決めつける。だから、百合子が嘘だと思わないような嘘を考える必要があった。

(何時間倒れていたのだろう?)

 戸田先生に呼び止められたと言えば、先生に電話して帰った時間を確認するに違いない。いや、もうしているかもしれない。

 変質者に捕まっていた、というのはどうだろう。いやダメだ。変質者に付け入られる隙があったと余計怒られるだけだ。しかも暗い公園を通った事を知られてしまう。

 全て本当の事を言ったとしても、最後まで聴きはしないだろうし、公園を通った事を咎められ、変質者に遭遇したことまで、万里亜の不徳のせいだと言われるだけだ。

 喘息の発作で倒れていたと言えば、甘えた根性を入れ替えると言って、厳しく叩かれる事だろう。しかし何の言い訳も思い付かない以上、本当の事を言って怒られるしか方法はなかった。

 本当は考えても無駄だと知っていた。どんなにうまい言い訳を思い付いたところで、折檻をさける事は出来ないのだ。ついてもつかなくても、嘘は、ついたことにされるのだ。

 さっきはあんなに遠く感じられたのに、もう家の前まで辿り着いている。門はきっちりと閉まっていて外灯はついていない。

 玄関ドアに手をかける。ガチャという音がして、ドアは万里亜を拒んだ。鍵がかかっていたのだった。

 仕方なく、門まで戻ってインターフォンを押す。今が何時なのかわからないが、娘が帰って来ないのに眠ってしまう事はないだろう。けれどもなかなか鍵はあけて貰えなかった。二度もインターフォンを鳴らす勇気はない。このまま誰も出て来なかったら、どうしたらいいのだろう。

 だがしばらくして、鍵をあける音と共に、陰うつな顔が扉の隙間から覗いた。

 万里亜はすんなりと家の中へ招き入れられた事に、少なくとも衝撃を受けた。家に入る前に一問答あると思っていたのだった。

「電話も出来ない状況だったの?」

 冷ややかな百合子の声音が、万里亜を震い上がらせた。話を中断させられる前に、本当の事を全部わかってもらいたくて、万里亜は早口に捲し立てた。

「今、何時だと思っているの? もう少し小さい声で話しなさい」

 百合子は不機嫌だったが、珍しく万里亜の話を聴いてくれた。

 八時を過ぎると怒られるから急いだ、というのは黙っていた。具合が悪かったから急いだ、と嘘を言った。

 何が嘘で何が本当かなんて、どうでもいい。出来るだけ百合子の神経を逆なでしない方法が何よりも最善だった。

 万里亜の呼吸はまだヒューヒューと嫌な音をたてていたし、時々は咳き込んだ。どんなに抑えようと思っても、咳は出てしまう。それが百合子を怒らせはしないかと、内心ビクビクしながら、万里亜は話し終えた。

「ごめんなさい。どうしても喘息を抑えられなかった」

 万里亜は素直に謝った。その態度が生意気だと言われる可能性もあったが、謝りもしないと言われるより、たぶん遥かにましだ。

「足を洗って薬をつけなさい。それから吸入も、今日は特別に使っていいわ」

 そう言って百合子は、寝室に戻って行った。万里亜は目を見開いた。

 一人ぽつんと玄関ホールに残され、何が起こったのかわからずに、突っ立っていた。

 百合子は怒鳴らなかった。怒らなかった。嘘つきと言わなかった。

(私の話を信じたの? あのママが?)

 嬉しいと言う気持ちはなかなか沸き起こらなかった。ただ、不思議だった。

 時計は九時半を指している。修二はまだ帰っていないようだった。

(九時半に帰って来て、怒られもしないなんて)

 次第に浮かれた気分が万里亜を支配し始めた。何がよかったのだろう。

 靴を脱いで家にあがろうとした時、大きな姿見にうつる自分の姿が目に入った。スカートも足も泥だらけで、短いスカートからのぞいた素足は、あちこち擦りむいて血が滲んでいる。右の頬にも擦り傷があった。

(そうか、こんな姿だから、それでママは信じたんだ)

 嘘を言ったわけでもないのに、何故か後ろめたい気分になる。自分が親を騙して悪い事をしてきたかのような、不本意な錯覚に襲われた。

 次の日、百合子とは顔を合わせないまま、学校へ行った。低血圧の百合子は、十時過ぎないと起きて来ない。だから毎朝、修二と万里亜と千絵は三人で朝食をとる。

 以前は修二が朝食をつくっていた。しかし去年からは、「もう火を使ってもよい年になった」ので、食事をつくるのは万里亜の当番になった。朝も、夜も、万里亜がつくっている。買い物も、万里亜が任されていたし、お弁当も自分でつくれるようになった。

 普段は給食だからお弁当はつくらないが、土曜日に委員会がある日や、遠足、運動会、写生大会などの行事には、かわいらしいお弁当を持って行く事が出来るようになった。それが出来るようになった喜びのため、朝晩の食事の用意は少しも苦にならなかった。

 けれど後片付け当番にされた千絵は、不満でいっぱいだった。片付けるより料理の方が楽しそうに見える。千絵は、「お姉ちゃんだけずるい」と言って何かと万里亜に突っかかった。

 毎月五万円が、リビングに置いてあるライティングデスクの引き出しに入れられる。中国製の、天女の彫が入った立派なデスクだった。そこからは、必要なお金を自由に使っても良い事になっていた。

 お金は大きなファスナーのついた、革のポーチに入っていた。ポーチには仕切りがあって、お札は一番奥、小銭はまんなかに入れる事になっている。

 お金を使ったら、代わりにレシートを、一番手前の仕切りに入れておく。そういう決まりだった。

 万里亜はそこから、朝晩の食事の材料を買っていた。

 時々千絵が文房具やお菓子にお金を使い過ぎて、食材費が足りなくなる事があった。万里亜は千絵に、何にいくら必要か、前もって申告するよう求めた。千絵はそれに逆らって、どんどんお金を使ってしまう。足りなくなって叱られるのは万里亜だけだった。

 その事で千絵とは喧嘩が絶えなくなり、姉妹の心はだんだん離れていった。千絵も友達と遊ぶ方が楽しくなり、万里亜も習い事と家の用事で忙しかった。

 闇の心を分かち合える二人きりの姉妹は、次第に、話をする機会を失って行った。それは百合子が、二人に同盟を組ませない為に張った罠だったかもしれない。しかし幼い姉妹に、真実はわからなかった。

 二人は、学校へ行く時も別々だった。

 小さい頃、あんなに素直に自分の言葉を聴いてくれた千絵が、今は自分を敵視さえしていると思うと、万里亜の心は深く痛んだ。

 その日、学校は騒然としていた。

 近隣をうろついていた変質者が、昨夜、三角公園で死んだのだと、万里亜は初めて聴かされた。それは朝刊には載っていない情報だったが、三角公園の近くを通って学校へ通って来る一部の生徒は、死体や警官を見たと言う。

(昨日のあの男の事だ、死んでいたんだ)

 身体の中身がすべて凍り付いたような感じがした。

(でもどうして? 何で死んだの?)

 自殺であってくれたら、と、わけもなく祈りたくなった。

 もしかしたら、自分が殺したのではないかという恐怖が沸き上がって来る。

 何も覚えていない。変質者の顔すら、見ていない。意識をなくす寸前に目の前に立ちはだかったのが、死んだという男と同一人物なのかどうか、訊かれても答えられない。

 万里亜は百合子に真実を話した事を、今さらながら後悔していた。変質者を殺したのが万里亜であると、百合子は疑うに決まっている。そんな恐怖に包まれた。

 あらゆる事柄が一度に頭に浮かんで来て、整理する事が出来なかった。

 読んだばかりの本の内容が蘇る。

「残虐な殺人者は例外なく、幼少期に虐待されて育っている」

 そう書いてあった。だが、万里亜が無意識に男を殺したかもしれない根拠は、それだけではない。

 百合子は昨夜、万里亜を叱らなかった。叩かないし怒鳴らないし、薬まで使っても良いと慈悲を見せた。それは何故か。

 神様は万里亜の中の悪魔がしでかした悪事を、ちゃんと知っている。いつか必ず罰を下す。

 男を殺して刑務所に入れられるのが、神様の罰なら、百合子がわざわざ手を下す必要はない。それを知っていて、かつてない慈悲を見せたのではないか。

(でも、もしそうだとしても、刑務所には入れられない。私はまだ十二才になったばかりだ)

 万里亜は少しでも安心したくてそう思い付いた。けれどすぐに、刑務所に入れられるかどうかより、自分が人を殺したのかもしれない打撃の方が、ずっと大きいのだとわかった。落胆は表情に現れた。

「万里亜ちゃん、どうしたの?」

「え?」

 恵里子だった。

「怖い顔して」

 その時突然、昨日意識を失っている時に聴いた声が、透だったと気付いた。何故透が出て来たのか、全くわからなかった。

「あ、何でもない」

 無理に笑顔をつくろうとしたが、顔は強ばっていた。

 早く死因がわかればいい。自分が殺したのではないという証拠を見つけたい。でももし、現場に何か落として来ていて、刑事が訪ねて来たら、本当の事を話すべきなのだろうか。殺人事件に関係しているとなったら、百合子は万里亜を今度こそ家に置いておかないだろう。しかし、百合子には真実を話してしまっている。もし刑事に嘘をついたら、何と言われるかわからない。

 万里亜には、刑事よりもずっと百合子の方が怖かった。

 その日は一日中上の空で、何も頭に入らなかった。

 学校から飛んで帰って、夕食の支度をしながら夕刊を待つ。テレビは勝手につけてはいけない事になっていたので、ニュースを見る事は出来なかった。

 習い事のない曜日だったのは、せめてもの救いだ。夕刊は四時には配られるだろう。

 バイクの音に耳を済ませながら、万里亜は味噌汁をかき混ぜた。今日は豆腐とワカメの味噌汁をつくった。それからカボチャの煮つけと銀鱈の照焼き、大根サラダだ。

 百合子は料理をしない。万里亜のつくるものは、土日にやってくる祖母に教わったものか、図書館の本で覚えたものだった。

 子供達の夕食は、五時半だった。四人分つくるが、百合子は食べない。修二が帰って来てから温めて食べるのだろう。夕食後に外出するのはそろばんの日だけで、それ以外は夕食が済むと、風呂に入ってすぐに眠らなければならない。八時消灯は六年生になってもまだ続いていた。

 四時を少し過ぎて、バイクの音が耳に入って来た。万里亜は味噌汁の火を止めて、玄関へ駆け出した。

 百合子は出かけていて、千絵は部活に行っている。家には誰もいないので、一人きりでゆっくりと新聞を読む事が出来る。万里亜は無意識に、感謝の言葉を呟いていた。

 まだ食器を並べていないダイニングテーブルに、新聞を広げる。目は斜に記事を追い、どんどんページをめくって行った。しかし、該当する事件の詳細について、夕刊には出ていなかった。

 千葉県で起こった小さな事件など、全国版の新聞には載らないのだろう。

(明日、朝刊の京葉版を見てみよう)

 万里亜は新聞をたたんで、リビングのマガジンラックにさした。

 新聞を読むのは、修二と万里亜だけだった。修二は万里亜が先に新聞を開いても、まるで気にしない。友達の話では、何でも父親が一番先、という家もあるらしい。

 一瞬、事件の事は忘れ、自分は寛大な継父に感謝すべきなのだろうと思えた。

 その夜は、いつにもまして眠れなかった。

 不眠は万里亜の日常だ。安心してぐっすりと眠れた日など、思い出せない。たった一日だけ思い出せるのは、恵里子の別荘で、透の体温を感じていた時だけだった。あの時、どうしてあんなにも安心出来たのか、万里亜にはわからない。

(もしも私が本当に殺人犯だったら、透パパだって口をきいてくれなくなる)

 万里亜の中で恐怖の順位は徐々に変わっていた。

 一番最初は、刑務所に入れられるかもしれないという恐怖が、次には、変質者を殺したのが自分かもしれないという恐怖が、心を占めた。次には、百合子がどんな酷い仕打ちを自分にするだろうかという事が、最大の恐怖になった。

 そして今、透に軽蔑され無視されるかもしれない事が、百合子への恐怖を上回っていった。

(私のパパじゃないのに、どうして……)

 けれど透の言葉を思い出すうちに、すべての恐怖は洗い流されて行き、想像も出来ない眠りの深みに落ちて行った。

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