恋愛小説〜マグダラの万里亜
- 序章
- 第一話「名前」
- 第二話「遠足」
- 第三話「夏休み」
- 第四話「別荘」
- 第五話「リア王」
- 第六話「喘息」
- 第七話「最後の夜」
- 第八話「星の王子様」
- 第九話「新しい敵」
- 第十話「田園交響楽」
- 第十一話「自己嫌悪」
- 第十二話「電話」
- 第十三話「転機」
- 第十四話「薔薇の咲く頃」
- 第十五話「十三周忌」
- 第十六話「恩」
- 第十七話「死神」
- 第十八話「最期の言葉」
- 第十九話「終章」
第七話「最後の夜」
翌日の朝刊の京葉版に、その記事は小さく掲載されていた。
近隣を騒がせていた変質者は、泥酔しており、転んでブランコの縁に頭を打ち、そのまま気を失い死亡した。直接の死因は凍死だった。つまり、事故死だったと警察は推定している。争った形跡がないからだった。
万里亜は学校への道すがら、泥酔という漢字を辞書で引いた。
お酒を飲んでいて、酔っぱらって転んだのだろうか。そう警察が判断したのなら、そうに違いない。しかし、心は晴れなかった。
男が自分で転んだのか、それとも誰かに突き飛ばされて転んだのか、どうしてわかるのだろう。もしかしたら自分が無意識に突き飛ばしていて、その拍子に頭をぶつけて気を失い、凍死したのではないか。そうではないと、どうして断定出来るだろう。
百合子は新聞を読まない。近所付き合いもしていない。
あの日、万里亜が遅く帰って来た理由に話した変質者が、同じ時間同じ場所で死んでいたという事が、百合子に伝わるのはいつだろう。
(このまま知らずにいてくれたら……)
淡い望みを抱く。
警察がやって来ないなら、百合子がこの事を知る可能性はずっと低くなる。でももしかしたら、事故死だと思ったのは間違いで、やはり殺人でしたという事になるのではないか。そうしたら万里亜を取り調べる為に、警察がやって来るのではないか。
堂々回りだった。
他の事は何も考えられない。
本当はもっと色々気になっている事があった。もうすぐ卒業だし、一番仲良しの恵里子は私立中学を受験する事になっていた。
私立に進学を希望していたのは、クラスで五〜六人しかいなかった。万里亜は公立に進む事になっていた。百合子の決定だった。
百合子は自身が中学高校と私立の女子校に通っており、そのことを何よりも後悔しているということだった。女子だけの空間は、教育上悪影響を及ぼすし、生意気な万里亜は必ずいじめの対象になるはずだと、百合子は断言した。
万里亜にとってはどうでもよいことだった。ただ、恵里子と離ればなれになるのだけは、辛かった。恵里子が私立に落ちて公立に来てくれればよいのにと、思わずにはいられない。恵里子もまた、「万里亜ちゃんも一緒に女子学院を受けようよ」と熱心に誘ってくれた。しかし、百合子の決定は絶対だった。
そんなことで頭がいっぱいだった時に、起こった事件だった。
何日も寝つけない日々が続いた。考えなければいけない事がたくさんあった。あり過ぎて、何から順番に考えたらいいのかわからない。
変質者は事故死だった。その場にたまたま居合わせた事を、沈黙するのは罪だろうか。心にやましいものがあるから、言えないだけではないのか。自分を責める言葉は、いつしか百合子の声になる。
猾い子ね。
あなたの中には悪魔が住んでいるのよ。
どうしてそんなに嘘つきなの?
罪を逃れようとするのはお止めなさい。
神様はみんな見ているのよ。
隠したっていつか罰が当たるのよ。
頭の中に複数の声が重複して響き渡る。耳を塞いでも塞いでも、それは自分の中から聴こえて来るのだった。
眠りたい。
眠れない。
頭が痛い。
身体が重い。
けれど、学校ではきちんとしていなければならない。誰にも弱味は見せられなかった。
学校は騒然とした雰囲気に包まれていた。
卒業制作のタイル絵の制作やら、卒業式の練習、送辞、答辞の訓練。答辞は生徒会長である、そろばん塾の戸田先生の娘が担当する事になっていた。万里亜は生徒会の書記だったので、答辞の文章を筆で清書しなければならなかった。
心が乱れている時は、筆も乱れる。いつもは一回で納得の行く仕事をこなす事が出来る万里亜だったが、答辞は何度も書き直した。
だがそうした非日常的な行事は、一時でも万里亜の心を現実から遠いところへ運んでくれた。墨の匂いが心を落ち着かせてくれる。
仮名筆をまっすぐ立てて持ち、手が震えないように、精神統一を行う。心を無にする。始めて六年目になる書道は、どの習い事よりも好きだった。
そんなある日、家に帰ると百合子の書き置きがあった。
修二の妹が病気だから、急に東京の病院まで泊まり込みで手伝いに行かなければならなくなった、という内容だ。万里亜には、あれこれやるべき事が指示してあった。いつまでとは書いてなかったが、少なくとも数日間は留守らしい。
久しぶりに伸び伸びとした気分を味わい、やりたかったけれど今まで我慢していて出来なかった事が、次々頭に浮かんで来た。
きっと門限通りに帰って来ているか、確かめる電話がかかって来るに違いない。だから、門限を破る事は出来なかった。それに、ちょっとでも迂闊な事をすれば、千絵が誘導されて喋ってしまうだろう。そう考えると、実際には何かが変わるというわけではなかった。しかし、気分的にはずいぶん楽だ。
張り詰めた空気が一気に解けて、万里亜は笑った。誰もいないリビングで転げ回ったり、手足をじたばたさせたりして、一人でくすくす笑った。
時計を見ると、三時四十分だった。大急ぎでランドセルをその場に放り出し、鍵をかけて家を出た。そんなだらしのない事が出来るのは、百合子のいない数日だけだ。
走って走って走って、喘息が出るかも知れない事も忘れて、思いきり走った。無性に大きな声を出したくなった。
学校まで十分ほど走り続けても、不思議と喘息にはならなかった。
誰かまだ残っていたら、一緒に遊ぼうと思ったのに、今日に限って誰もいなかった。ぽつんと一人、教室に佇む。恵里子達と一緒につくった壁新聞を、何気なく読んだり、ロッカーに座って足をぶらつかせたり。手持ち無沙汰な時間を楽しむ。こんなに気持ちに余裕のある日は、久しぶりだった。
ゴミ箱が空になっていないのに気付いて、万里亜は歩み寄った。本来ならば日直が下校前に、ゴミを焼却炉に持って行く事になっていた。その日の日直が誰なのか、もう黒板の名前は消されていて思い出せなかった。ここ数日、考えることが多くて、何をやっていたのか、頭にはこれっぽっちも残っていないのだった。
万里亜はゴミ箱を持ち上げた。木製の真四角なゴミ箱は、結構な重みがある。
ゴミを捨てに行くのは、初めてだった。日直は二人ずついるから、万里亜はゴミを捨てに行った事がなかったのだった。
校舎裏にある焼却炉の場所は知っていた。夕方まとめて、用務員のおじさんがゴミを燃やすのだ。
万里亜は初めての焼却炉を、ぎこちない手付きで開けた。ゴミ箱を持ち上げ、ひっくり返そうとした時、ガサっと中で何かが動いた。びっくりしてゴミ箱を落とし、その場にゴミをぶちまけてしまった。
確かに何かが中にいた。
恐る恐るゴミ投入口を覗いてみると、黄色い目玉が暗闇にキラリと光った。
万里亜は灰をかき出す為の、下の方の扉を開けた。すると、転がるようにして一匹の猫が出て来た。咄嗟に驚いて後ずさったが、よく見るとグレーに汚れた猫の手足は、しばられていた。鳴かないように口輪もはめられている。それでも声を出そうと必死にもがいていた。
万里亜がそっと手を出すと、猫は攻撃的に身構えようとし、転がった。鋭い爪に引っ掻かれながら、なんとか口輪を外し、手足のロープを解いた。猫は声もたてずに一目散に逃げて行った。
元は白い猫だった。白に黒いブチがあって、前からよく見かけていた。教室に入って来る事はなかったが、校庭や昇降口や、教師の車の上で寝そべっているのを、何度も見た事がある。確かにあの猫だった。
もしもこのまま気付かずにゴミを捨てて、用務員さんが焼却炉に火をつけていたら、猫は生きながらにして焼け死んだはずだ。
想像した事の恐ろしさに、ぶるっと震えた。
誰が何の為にこんな酷い仕打ちをするのか。この事を先生に報告した方がいいのだろうか。そう思いながら、ぶちまけてしまったゴミを拾い、焼却炉に放り込んだ。
人を殺したかも知れない自分が、猫を殺そうとした人物を、告発する資格があるのか、という疑問が湧いて来る。
誰もが怒りを抱えて生きている。その怒りを自分より弱いものにぶつけるのだ。
百合子が万里亜を打つように、誰かが猫を傷つけた。
(そして、私は……)
自分が無意識に何かを傷つけてしまうのではないかという考えは、いつでも万里亜の頭を支配している。その恐怖から逃れられた試しはない。
忘れたいのに、忘れていたいのに、いつでも何かが、万里亜にそれを思い出させる。
楽な思いはさせないぞと言われているようだった。
苦しむのが罰だ。
何の罰?
嘘つきの?
猾いことの?
甘えていることの?
焼却炉の蓋を閉めて、ゴミ箱を持ち上げた。もう楽しい気分は吹き飛んでいて、万里亜は無表情に教室に戻った。
それからいつもと同じように家に帰り、放り投げたままのランドセルを拾い上げ、自分の部屋へ隠った。
千絵はまだ帰っていない。時計は四時二十五分だった。
万里亜は学校の宿題をやり、それから提出用の日記に当たり障りのない事を書き、図書館で借りたままになっていた「内なる子供」という心理学の本を手にとった。だが、読んでいても少しも頭に入らなかった。
千絵が部活から帰って来た気配がした。夕飯をつくらなければならない。
薄汚れて敵意を露にした猫の姿や、ぼんやりと霞がかった変質者の姿が、頭の中にフラッシュする。
階下へ降りて行くと、千絵はダイニングで百合子の書き置きを読んでいた。
「おかえり」
振り返った千絵は嬉しそうに笑っているように見えた。
「あ、お姉ちゃんただいま。ママ、いつまでいないの?」
笑顔を見られたことが後ろめたいのか、千絵の表情はすぐになくなった。近頃千絵は、無表情であることが多い。
「わかんない」
「お姉ちゃんがやる事、いっぱい書いてあるね」
「うん、千絵ちゃんも手伝ってよ」
「やだよ。千絵が頼まれたんじゃないもん。お姉ちゃんの仕事でしょ」
最近こういう生意気な口をきくようになった妹を、恨めしい気持ちで睨み付ける。
何故すべての家事を、万里亜が受け持たなくてはいけないのだろう。掃除、洗濯、食事の仕度。その上八時には強制的に眠らされる。勉強する暇なんかない。それでも、百点をとらなければいけない。全ての事に秀でていなればならない。
千絵は手伝いをさせられる前にと、大急ぎで自室に駆けて行った。
万里亜は仕方なく冷蔵庫をあけて、食材を調べた。キャベツが半分、人参、たまねぎ、じゃがいもと、冷凍庫には肉が入っている。卵と牛乳もあった。
何をつくるか考えながら、米を研いで炊飯器にセットする。それから鶏肉を電子レンジで解凍して、タマネギを刻んだ。親子丼と味噌汁なら簡単だ。
料理をやり始めたのは五年生からだ。もうすぐ二年になる。今では何も考えなくても、勝手に手が動いてくれる。ちょうど米が炊きあがる頃に、すべて終わるだろう。
味噌汁の具は、じゃがいもだけにした。百合子がいない時は、誰も文句を言わないとわかっているので、あれこれ気を揉む必要はなかった。
ちょうど出来上がろうという時に、修二が帰って来た。いつもよりずっと早い帰宅だった。
「あ、お帰りパパ。今御飯出来たところだよ」
万里亜は親子丼の具に卵をからめながら振り返った。
「いい匂いだね」
修二は玄関からすぐのダイニングに、ちょっとだけ顔を出し、ニコリと笑った。そして、着替える為にすぐ出て行った。
「千絵ちゃん呼んで来てね」
万里亜が大きな声を出す。普段家の中で大きな声を出す事はなかった。 「わかった」
遠くで修二の返事を聴いた。
どうせ何もかも万里亜がしなければならないのだったら、このまま百合子が帰って来なくても何も困らない。その方がずっと、家族らしく暮らせるのではないかという気がした。だが、すぐに思い直す。
修二は百合子がいるから、万里亜にも千絵にも優しくしてくれるのだ。百合子が帰って来なければ、修二も出て行ってしまうに違いない。
笑い声と共に二人がダイニングに戻って来た時には、すっかり配膳まで終わっていた。
「ええ、今日これだけ? 質素だね」
何も考えていない千絵の言葉が、万里亜の癇に触る。ならば自分でつくればいいじゃないかという思いが喉元まで出かかった。
「千絵ちゃん、お姉ちゃんがせっかくつくってくれたのに、文句を言っちゃダメだよ。パパが小さい頃は、親子丼なんて大御馳走だったんだぞ」
修二が千絵を軽く諌める。
「でもママが見ていないと、お姉ちゃんはズルしてお仕事サボるから、千絵が見張っていないとダメだって、ママ言ってたもん」
菜ばしを投げ付けたくなった。
「お姉ちゃんはズルなんかしないよ、さ、さめないうちに食べよう。いただきます」
修二は箸を持ったまま、手をあわせた。
「いただきます」
千絵が倣う。
「いただきます」
万里亜も急いで席についた。
親子丼はなかなか上手に出来ていた。卵もふんわりとしていて、美味しかった。
後片付けだけは千絵の分担だった。万里亜は手伝わなかったが、修二がほとんどやってあげていた。その間に万里亜は風呂掃除をして、湯を張った。
千絵と万里亜は一緒に入る習慣だった。千絵が一人では危ないからという理由だったが、千絵ももう四年生になっていて、危ない事など何一つなかった。
自分が四年生の時には、もっと大人であることが要求された。何故千絵だけが、いつまでも子供扱いしてもらえるのだろう。妬ましい気持ちを抱いては、慌てて打ち消す。
二人で肩まで湯に浸かって、タイルに描かれた中世風の城の絵をなぞりながら、百数えた。
風呂から出ると、修二はテレビを見ていた。七時半だった。
「今日はママがいないから、内緒でテレビを見てもいいよ」
修二が立ち上がりながらそう言った。
「ホント!?」
千絵は嬉しそうに目を輝かせたが、万里亜は手放しに喜べなかった。帰って来た百合子がこの事を知ったら、叱られるのは修二でも千絵でもなく、万里亜だと確信出来たからだ。しかしここで「テレビは禁止よ」と言っても、千絵は言う事をきかないだろう。
百合子は誘導がうまい。千絵も修二も百合子に隠し事は出来ない。必ず、何かの拍子にしゃべってしまうだろう。
一緒に隠し事をした時、百合子の誘導に乗らないのは万里亜だけだった。すでに二人がしゃべってしまっているとは知らず、しらを切って嘘つき呼ばわりされる事になるのだ。だからといって、一番最初にしゃべってしまえば、今度は千絵から「言い付けた」と責められる。そうなることは目に見えているので、テレビなど見たくはなかった。
けれど一人だけ見ないと言ってその場を去れば、修二を傷つける事になるような気がして、言い出せなかった。
千絵は何か特定の番組が見たいわけではなく、テレビそのものに興味あるようだった。チャンネルをガチャガチャとまわして、細切れの映像を面白そうに見ている。
「お姉ちゃん、何がいい?」
「何やっているか知らないから」
万里亜は慎重に応えた。あとで、「お姉ちゃんが見たいと言った」と百合子に言い付けられては、たまらない。
修二はもう風呂に行ってしまい、リビングには千絵と二人きりだった。
「漫画、やってないね」
千絵が残念そうに言った。もうすぐ八時だ。アニメ番組をやっているような時間ではなかった。
「千絵ちゃん、眠くない?」
「眠くない」
「でももうすぐ八時だよ。寝る時間だよ」
「パパがお風呂から出てくるまで、待ってようよ」
「うん、そうだね」
千絵がそのままにしたテレビからは、流行りの歌謡曲が流れて来た。きらびやかなミニの衣装を身に付けた二人組の女性が、ピンクレディというのだということだけは、知っていた。けれど歌自体は、どこれもどこかで聴いた事があるような気はするものの、はっきりとは知らないものばかりだった。
修二はパジャマを着て、髪を拭きながら戻って来た。左手にドライヤーを持っている。
「今日は九時までテレビを見て、それからみんなで一緒に寝よう」
そう言いながらソファに腰掛け、ドライヤーを延長コードに繋いだ。
「千絵ちゃん、こっちおいで」
テレビを見ている千絵の頭を、乾かしてやる。こういうところは、本当に面倒見のよい父親だった。
「パパ、うるさくてテレビが聴こえないよ」
「髪を乾かさないと風邪引くんだぞ」
ドライヤーの音が大きいので、二人とも大声を出した。
「よし、いいぞ。次は万里亜だ。こっちにおいで」
修二に促されて、万里亜は父親の座るソファの前の絨毯に、ぺたんと腰をおろした。修二の右手が優しく髪を流しながら、左手のドライヤーで風をあてていく。軽いマッサージのような右手の動きが、気持ち良かった。
いつもならリビングにドライヤーを持ち込むなんて、許されなかった。あとでよく髪の毛を掃除機で吸っておかないと、百合子に指摘されてしまうと思いながら、万里亜は目を閉じていた。
万里亜の髪を乾かし終えると、修二は自分の髪に取りかかった。テレビ番組はいつのまにか、コメディタッチのドタバタ劇に変わっており、千絵が退屈そうにそれを見ていた。
急にドライヤーの音が止んで、テレビからの台詞が耳に飛び込んで来る。
学校で男子が真似をしてふざけていたのは、この番組だったのかと、万里亜は初めて知った。下劣で品のない冗談は、何が面白いのか全くわからない。しかしそれを見て、修二は笑っていた。
こんなものを見て可笑しいと感じる修二に対し、小さな嫌悪が生まれたが、すぐに打ち消した。自分の子供でもないのに、こんなに優しくしてくれる父親に対して、嫌悪感を持つなんて事が、許されるはずはない。今浮かんだのは自分の考えではなく、百合子が言う悪魔の仕業だと、万里亜は自分に言い聞かせた。
退屈なテレビ番組が、早く終わらないかと思いながら、万里亜はじっとしていた。そのうち千絵が、修二にもたれかかったまま、眠ってしまった。
「千絵ちゃん、こんなところで寝たら風邪をひくよ。もう二階に行って寝よう」
番組は途中だったが、修二は立ち上がり、テレビを切った。 千絵も眠い目をこすりながら、半分寝ぼけた様子で、立ち上がった。
「今日はパパの大きいベッドで、みんな一緒に寝よう」
修二がそう言った。
「え〜ママに怒られるよ」
だんだん覚醒して来た千絵が、階段を上がりながら振り返った。
「怒らないさ。みんなで寝ればあったかいぞ」
「でも千絵はぬくもりが嫌いなんだよね」
千絵の言葉に修二が小さく吹き出した。
「ぬくもりなんて言葉、どこで覚えて来たの?」
「先生がよく言うんだよ。人のぬくもりを感じられる子になりなさいって。それでおしくらまんじゅうするの。でも千絵はぬくもりは気持ち悪いから嫌いで、誰にも触りたくないんだよ」
「家族なんだからいいじゃないか」
「千絵は冷たいシーツが好きなのにな」
「いいから、部屋へ行って枕持っておいで」
千絵はしぶしぶ枕を持って修二の寝室にやって来た。万里亜もそれに倣った。
修二の両脇に二人の少女が潜り込んでも、ベッドはまだまだ広かった。
「ふかふかだね。パパ毎日ここで寝ているの。ずるいよ。千絵のベッドはもっと固いんだよ」
「子供は固いベッドの方が背筋が曲がらなくていいんだよ」
「ちょっとパパ、あんまりくっつかないでよ。千絵はぬくもり嫌いなんだってば」
「いいじゃないか、ちょっとくらい」
千絵と修二の無邪気な会話を聴きながら、万里亜は急激な眠気に襲われた。ここ数日ろくに眠っていなかったせいかもしれない。冷たい足を修二にくっつけて、まどろみ始めた耳に、千絵と修二の声が徐々に遠くなって行った。
「あれ、万里亜、もう眠ったのか?」
「お姉ちゃんいつも眠れないなんて言ってる癖に、もう寝ちゃったの?」
「しっ、静かにしてあげよう」
「千絵、眠くなくなっちゃったよ」
「黙ってじっとしていれば、すぐに眠く……」
「そんなこと……から……」
「……だいじょ……んだ……」
「……」
腹の底に響くような恐ろしい声が聴こえる。あれは誰だろう。どこかで聴いた事があるけれど、思い出せない。
前にもこんな事があった。
一生懸命起き上がろうとしているのに、身体が石になったように動かない。だるいしあちこち痛いし、身体が地中に沈みこんでいるような気がする。
それでもなんとか、万里亜は目を開けた。
うす暗い部屋には自分一人。半開きの扉からは、階下の明かりが辛うじて届き、扉の陰を万里亜のすぐ目の前まで届かせた。
広々とした白いダブルベッドには、万里亜一人しかいなかった。
不吉な予感が脳裏をよぎる。どんなに否定したくても、聴こえて来るのは百合子の声だった。しかも怒っている。怒っている時の百合子は、静かで丁寧で冷たかった。落ち着いた鋭い声音は、万里亜の胸を一瞬で凍えさせる、氷の刃だった。
修二は、千絵は、一体どこへ行ったのか。百合子が怒りをぶつけているのは修二なのか。目覚めたら万里亜に向けられるべき怒りを、今だけの身代わりとして修二が受けているのか。
目覚めない方がいいと本能が告げていた。しかし、好奇心があった。
外はまだ暗い。帰って来ないはずの百合子が、何故戻って来て、何故――というより誰に、怒っているのか。
万里亜は足音を忍ばせて廊下に出た。壁に写る自分の陰が恐ろしいもののように感じられた。
階段の上で身を隠しながら、階下の様子を伺う。修二の声はとぎれとぎれで、殆ど聴こえなかった。
こんな事が前にもあった。全く同じだ。けれど今何故百合子が怒っているのかについては、皆目わからなかった。
去年の夏、恵里子の別荘で聡子が見せた怒りとは、別のものであるはずだ。だが一つだけはっきりしている事がある。怒りの鉾先は、自分に向けられている。そうであるに決まっていた。
百合子の口から何度か万里亜の名が吐き出された。それ以上は聴く必要がなかった。
万里亜は忍び足で自分の部屋へ戻り、ベッドに入った。ふとんは冷えきっており、ぞくっとする寒さだった。あのぬくぬくとしたダブルベッドに戻りたかったが、それは事態の悪化を招くだけだとわかっていた。
眠らなければ。ふりでもいいから。けれど頭は冴え渡っている。
階下での言い争いが止み、誰かが階段を上がって来る音が聴こえた。万里亜は身を固くして、ドアと反対方向の壁を向いてじっとしていた。
部屋の前で、足音は止まった。ドアを開く音がした。誰かの陰が長くのびて、万里亜を覆った。
息をひそめた。
目を閉じたまま祈った。
早くあっちへ行って……。
やがて人陰は、ドアを閉めて遠ざかった。
何がいけなかったのか、万里亜にはわからない。
修二が本当の父親ではないから、だから一緒に眠ってはいけないのだろうか。千絵は、ぬくもりを嫌って途中で出て行ったのだろうか。自分はいつの間に、眠ってしまったのだろうか。
どちらにしても、朝になれば地獄が待っている。今夜ぶつけられなかった怒りが、何倍にもなって万里亜に向けられるはずだ。だからせめて目覚めるまでは、何も考えずに楽しい夢を見ていたい。そう願うのは猾い事だろうか。
どうしても眠れない時、羊を数えると眠くなるよと誰かが言った。けれど何匹羊を数えても、万里亜は眠れなかった。そんな時万里亜は、自分が望む事を一つ一つ考えて数え上げて行く。そうすると幸せな気持ちになってきて、いつしか眠りが訪れる。最後まで数え上げられた試しはない。その前に必ず眠れるからだ。だから今夜も楽しい事、やりたい事を数えようとした。
もしも全ての願いが叶うなら……絵の教室に通いたい、それから劇団にも入りたい、男子しか許されないサッカーもやってみたい、痩せっぽちの細い手足にもうちょっとお肉をつけたい、学級委員はやめたい、本当は園芸係をやりたかった、放課後自由に遊びに行きたい、クラスの女子が時々やっているお泊まり会に行ってみたい、日曜日は教会なんか行かないで遊びたい、家事はやりたくない、パパに肩車してもらいたい、お誕生日にパパとママから大きな包みのプレゼントが欲しい、お兄ちゃんかお姉ちゃんが欲しい、テストで0点をとってみたい、体育をさぼってみたい、それから……
眠る前に数えるたわいもない願いごと。それを思う時だけ、万里亜は本当に正直だった。いつもは考えてはいけない、願ってはいけないと無理矢理抑えつけている、子供らしい小さな願いは、数え切れなかった。
それらが実現した時の事を考えるだけで、わくわくして楽しくなった。その時だけ本当の自分は忘れた。
空想の中で、万里亜は恵里子になった。パパは透でママは聡子。そこでの万里亜は、愛されて甘やかされて、いつでも笑いかけてもらえる娘だった。
冷たかったシーツに、じんわりと暖かさが広がった。そして眠った。
いつの頃からか、万里亜の夢には必ず透が現れた。そして夢の中だけで、万里亜は心から笑った。
次の日の朝、修二はいなかった。
万里亜は千絵と二人で黙って朝食をとり、黙って学校へ行った。思いもかけず百合子が帰って来ており、修二が起きて来ない事に、何か不吉なものを感じたのか、千絵も考え込んでいた。
家を出てから友達との約束の場所に走って行こうとする千絵に、万里亜は一つだけ訊いた。
「千絵ちゃん、昨日いつ自分のベッドに戻ったの?」
千絵は振り返った。チック症が出ていた。
「お姉ちゃんが眠っちゃってからすぐ、千絵は自分の部屋へ行ったよ」
それだけ言うと、くるっと向きを変えて走り出した。
百合子の低血圧のお陰で、地獄は先延ばしになった。だが後になればなるほど、酷い事になるのではないかという不安が、首をもたげて来る。
ふと、百合子が急に戻って来た最悪の理由を、万里亜は思い付いた。
(誰かにあの時の変質者が死んだってことを聴いたんじゃ……それで私を問いつめるために帰って来たのかも)
昨日見たはずの幸せな夢は、欠片も覚えていない。現実はただただ、訳もなく万里亜を責め苛む茨の檻のようであった。
しかし、身構えた恐怖は肩透かしに終わった。
放課後、どこにも寄り道しないで一目散に家に帰り、神妙にしていた万里亜に、百合子は二、三、質問しただけだった。何かに気を取られているようであり、万里亜のことなど見えていない。疲れがくっきりと表情に浮き出ており、三十二という年齢に相応しい横顔に見えた。
何があったのか、万里亜には見当もつかない。見舞いに行った修二の妹に何かあったのだろうか。それとも修二との間に。もしくは修二の両親との間に。
百合子が修二の両親に疎まれていることは、万里亜にもなんとなくわかっていた。おじいちゃん、おばあちゃんであるはずの修二の両親とは、殆ど会った事がなかったし、何度か会った記憶を手繰っても、子供達に好意的な態度だったことはない。
当たり前だ。二人の少女は修二の娘ではないのだから、孫として可愛がれるはずはない。子持ちの再婚を、歓迎する親などいるはずがない。
百合子は今まで、そういったことを気にしている様子はなかった。けれど何か言われればいい気持ちはしないだろう。厄介ごとのすべては、子供がいるせいだと思うのかも知れない。
存在する事が万里亜の責任なのかどうか、答えを出すことは出来なかった。教会では、生を受けた以上は一生懸命に生きるべきだと教わった。何度か、いつ死んでもいいという思いが脳裏を掠めた時、教会の先生の言葉を思い出した。
百合子にとって万里亜がどんなに邪魔な存在でも、万里亜は生きていたかった。いつか、誰かが自分を必要としてくれると、信じたかった。
万里亜は何も言わない百合子からそっと遠ざかり、四時まで自室で宿題をすることにした。しかしドリルを開いても手は進まなかった。
さきほどの質問が、何度も何度も蘇って来る。あれは一体どういう意味だったのか。
「パパに何もされなかった?」
「何もって?」
「昨日の夜、何も嫌な事はなかったの?」
万里亜は首を横に振った。
「身体に触られたりしなかった?」
髪を乾かしてもらった事を言うべきだろうか? 万里亜は一瞬迷ってから、再び首を横に振った。
「そう」
それきり、百合子は黙ってしまった。
万里亜には、母が何を言いたいのか、よくわからなかった。
五年生の時、性教育の時間が設けられ、赤ちゃんがどうして産まれるのか解説したビデオを見た。しかし突然連れて行かれた視聴覚室で、何の前触れもなく見せられたビデオの意味は、全く理解出来なかった。男女の性と赤ん坊の誕生を結び付けて考える事すら、出来なかった。
まだ初潮も迎えていない万里亜には、百合子の杞憂は捕らえ所がない。けれどその一方で、変質者に対する注意や、痴漢の存在を注意されることで、おぼろげながら、大人の男性には何か危険なものがあると察していた。
犯罪関連の本での知識もあった。
万里亜はレイプという言葉を知っていた。男性が女性に乱暴する事だ。しかし自分の身に置き換えて考えてみた事はない。あくまでも別世界の話だった。
百合子が万里亜の素肌を叩くことが、レイプにそっくりだと思ったりした。でも女同士だから犯罪ではないのだと思っていた。百合子が訊いたのは、修二が百合子のような折檻をしなかったかという意味だろうか。
宿題は進まないまま四時になってしまい、万里亜は夕食の仕度の為に部屋からでなければならなかった。階下には百合子がいる。そばにいればきっかけを与えてしまうだろう。憂鬱な気持ちで夕食のメニューを考えた。
しかしキッチンへ入ると、百合子が言った。
「今日は外食をするから作らなくていいわ。千絵が帰って来たらすぐに出かけるから、着替えておきなさい」
「はい」
危うく「パパは?」と訊きそうになり思いとどまった。余計な事を言ってそれが百合子の気に触ったら大変だ。
その後の出来事は、万里亜に千絵にも何がなんだかわからなかった。連れて行かれたレストランでは精一杯おとなしくしていたが、心の中は疑問符でいっぱいだった。千絵も決して「パパは?」という言葉を出さなかった。訊いてはいけないと本能が告げていた。
その日レストランに現れて食事をごちそうしてくれたのは、修二ではなく知らない男性だった。百合子は終始機嫌良くにこやかで、別人のようだった。
念入りに化粧を施した横顔は若々しく、とても二人の子供がいる女性には見えなかったし、ほっそりとした指先は優雅でうっとりするほどだった。優しい慈愛に満ちた視線は、終始男性に向けられており、見た事もなく輝いている母親の姿に、万里亜は目を見張った。般若の陰は欠片も見えなかった。
万里亜は幼い日、知らないおじさんがパパになった日の事を、思い返していた。
それから家の前まで車で送ってもらい、行儀良くあいさつをして知らないおじさんと別れた。百合子は今日のことを祖父母に言ってはいけないと念を押した。言われるまでもなく、言うつもりはなかった。些細な失言で百合子の逆鱗にふれたことは、一度や二度ではないのだ。
その日から修二は、一度も家に帰って来ない。次の土曜日、祖父母が来る前に百合子が言った。修二と離婚すると。それはみんな子供達のためであると。
修二は本当の父親ではなく、子供達に辛くあたっていた。それが許せなかったので、子供の為に仕方なく離婚するのだと、百合子は言った。だんだん年頃になってくると、父親ではない男性の同居が危険なのだと、百合子は言った。何が危険なのかは、あやふやだった。まるであの晩、万里亜が修二にいやらしい事でもされたかのように、百合子は決めつけている。
それらはもちろん事実ではなかったが、祖父母に対してはそういう理由付けが必要だったのだ。もちろん子供達は逆らう事も出来なければ、本当の事を祖父母に話す事も出来ない。
意味もわからず、千絵は泣いた。
万里亜は頭の中を整理しようとしていた。けれどもやがかかったように、真実は霧に包まれていた。
祖父母は当然、離婚には反対だった。しきりと子供達が父親に不満をもっていたのかどうか、訊き出そうとする。
百合子はいつでも、嘘は一番罰せられるべき罪だと言った。しかし今、百合子に念を押されたように、「父親に辛く当たられ、もうこれ以上我慢が出来ない」という演技が求められていた。それは嘘とは言わないのか。
千絵はただただ泣くばかりで、万里亜は百合子の視線を背中に感じながら、あんなに優しかった父親を悪者にすべく、嘘を強いられていた。
あの日、引き合わされた知らないおじさんの事を、祖母にぶちまけたい。そんな衝動を抑えながら、万里亜は涙をこぼすまいと唇を噛んだ。
卒業まで、あと三ヶ月だった。

