恋愛小説〜マグダラの万里亜
- 序章
- 第一話「名前」
- 第二話「遠足」
- 第三話「夏休み」
- 第四話「別荘」
- 第五話「リア王」
- 第六話「喘息」
- 第七話「最後の夜」
- 第八話「星の王子様」
- 第九話「新しい敵」
- 第十話「田園交響楽」
- 第十一話「自己嫌悪」
- 第十二話「電話」
- 第十三話「転機」
- 第十四話「薔薇の咲く頃」
- 第十五話「十三周忌」
- 第十六話「恩」
- 第十七話「死神」
- 第十八話「最期の言葉」
- 第十九話「終章」
第八話「星の王子様」
あまりにも突然、何の前触れもなく父親を失った代償に、少なからず良い事もあった。
子供達の為に離婚しなればならなくなった百合子は、大義名分をかかげて大いばりで毎日家をあけるようになった。表向き、仕事を捜しているという理由だったが、夜も帰って来なかった。
大人の経緯は万里亜にはよくわからなかったが、きっとあの時紹介された「知らないおじさん」と会っているのだろうと想像出来た。
百合子の言い訳はいつでも祖父母に向けられたものであって、子供達に対する配慮ではない。夜になっても母親が帰らない事は、暗黙のうちに祖父母には秘密にされた。
あんなに優しくしてくれた修二が、もう二度と帰って来てくれないのだと思うと、胸に込み上げるものがあった。まるで本当の家族のように、みんなで一緒に寝ようと言った修二が、万里亜の覚えている最後の姿だったと思うと、やりきれない。
だが、修二が出て行ってから、万里亜も千絵も一度も折檻を受けていなかった。百合子はたまに帰って来ても上機嫌で、かつてなく寛容だった。
心配していた警察も、とうとう訪ねて来なかった。まだ時々夢で苛まれる事はあったものの、変質者の死は徐々に遠いものとなっていった。
卒業を間近に控え、私立中学に進学する事になった恵里子から、春休みに別荘に行こうと誘われた。もう頻繁には会えなくなるのだし、是非とも行きたかった。
百合子の機嫌のよい日を見計らって、万里亜は慎重に切り出した。しかしあっけないほどすんなりと、それは許可された。
卒業式には何の感慨も湧かなかった。泣いている級友を不思議な思いで見つめる。一体何が悲しいのか。泣かなかった女子は一様に「冷たい女」というレッテルを貼られた。一方不覚にも涙を見せてしまった男子は「女々しい男」ということになった。
くだらない。
どうせ中学へ上がっても、殆ど同じ顔ぶれのはずだ。一時の感傷に身を任せない事が「冷たい」というのなら、冷たくて結構だ。
殆どの子供は、両親かすくなくとも片方の親が式に参加していた。山口さんの母親でさえ、赤ん坊を背負って、精一杯のおしゃれをして参加していた。しかし万里亜は一人だった。
式が終わると親達は写真を撮ったり、ピアニカや絵の具などの置道具を持ってやったりしていた。
万里亜は無意識に透の姿を捜した。だが恵里子は母親と二人でいた。きっと仕事があったのだろう。もうその場には何の未練も感じず、万里亜は歩き出した。
何人かの友達に声をかけられ、誰かの親が嬉しそうに撮る写真に入った。多くの子が、万里亜と写真を撮りたがった。その度に愛想笑いを浮かべ、親達に挨拶しながら、人の波を縫うようにして校門を出た。
「万里亜ちゃん」
呼び掛けられて振り向くと、恵里子だった。
「何も言わないで帰っちゃうなんて、ひどいよ」
「ごめん、人ごみに酔っちゃって」
「別荘、来週だよ。透さん、休みが取れなかったって言うから、土曜に私達送って、次の週迎えに来るって」
「そうなの」
落胆が表情に現れそうになって、わざとらしく笑った。聡子の視線を感じた。
「こんにちは、万里亜ちゃん。卒業おめでとう」
上品なチャコールグレーのワンピースの胸に、コサージュをつけた聡子が、走って来た恵里子にやっと追い付いた。
「ありがとうございます。来週もお世話になります」
「卒業旅行だからママは邪魔だって言われたけれど、二人だけでは危ないから、私もご一緒させてね」
微笑んだが、目は笑っていないように見える。
「はい、よろしくお願いします」
「主人は仕事なのよ。一週間お留守番でかわいそうだけど」
「はい」
「残念がっていたわ」
何と応えて良いのかわからずに、万里亜は曖昧な笑みをつくった。
聡子は、自分の娘と万里亜をつき合わせたくないと思っているはずだ。五年生の夏休み、あの伊豆の別荘での最後の日に、聡子はそう言っていた。今回の旅行も不承不承なのかもしれないが、聡子もそして透も、恵里子には甘い。恵里子がどうしてもと言えば、どんな願いでもきいてやるのだろう。それに、中学が離れれば自然につきあいも消滅するに違いない。最後だからと大目に見ているのかもしれない。
歓迎されていないところに行くのは、気が重いものだ。それを圧しても行きたい理由が、今まで万里亜にははっきりとわからなかった。
確かに恵里子と遊ぶのは楽しい。日常を離れて泊まり掛けで出かけるのも、心踊るような行事だ。けれど、聡子に疎まれているとすれば、その喜びは半減する。出かければ、百合子にも恩を着せられる。そうまでしても行きたかったのは、何故か。
たった今わかった。透がいるからだ。透がいないのだと聴かされた自分の落胆ぶりで、それと気付いた。だが何故そんなに透に会いたいのかまでは、わからなかった。
話を聴いて欲しいのか。頭を撫でて欲しいのか。褒められたいのか。
そのいずれもが、確かに万里亜の心にある。けれどもう一つ、何かが足りない気がする。まだその他にも何かを求めている気がしたが、どうしても何なのかわからなかった。
次の週、百合子は自分の事で頭がいっぱいだったが、形式的に岡田家に挨拶の電話をかけ、万里亜に菓子折りを持たせた。前回聡子は、百合子が託した滞在費をどうしても受け取らなかったので、今回は持たされなかった。
土曜日の夜、会話をする暇もなく車は出発した。別荘に着いた時は九時をまわっており、もう眠るだけだった。万里亜は前に泊まったのと同じ恵里子の部屋で、絨毯の上にふとんを敷いた。ベッドが一つあったが、恵里子も万里亜の隣にふとんを敷いた。
「今日は寝ないで語り明かそうね」
そんな事を言っても、恵里子はすぐに眠ってしまう。明日には透が帰ってしまうかと思うと、早く寝て早く起きたかったが、万里亜は眠れない予感がした。
その日は透とも聡子とも、話す暇はなかった。
結局いつもと同じくらい眠れない時間を、暗闇の中でじっとやり過ごしたが、やがて浅い眠りについた。何度か暗いうちに目が醒めて、再びまどろんだ。何か夢を見ていた気がするが、朝にはすっかり忘れていた。
五時に小鳥のさえずりを聴き、誰より早く起きた。
きっと聡子は喜ばないと知っていたが、朝食をつくりはじめた。家でも毎日やっている事だ。
昨日聡子が用意していた食材で出来るものを考えてみたが、一年半前、岡田家の朝食はパンだったことを思い出し、オニオンスープを煮た。ベーコンエッグは誰かが起きて来てからで充分間に合う。サラダになるものは、大根と胡瓜と人参しかなかった。それらをスティックにして、味噌とマヨネーズでドレッシングをつくった。
キッチンで一人で座っていると、まるでこの家の住人であるかのような錯覚を覚える。厚かましい事だ。万里亜は口の端をゆがめて笑った。
二階で物音がした。
そろそろ六時半だ。誰か起きて来るのだろう。
万里亜はスープを温め直し、フライパンを火にかけた。
「あら、万里亜ちゃん早いのね」
背中から声をかけたのは、聡子だ。ちょぴりがっかりした気持ちになったが、気を取り直して振り返った。
「おはようございます」
「朝食をつくってくれたの?」
「早く目が醒めちゃったから」
「いい匂いね。手伝いましょうか?」
「あ、じゃあパン焼いて下さい」
和やかな会話だったが、本当は緊張していた。聡子の優しい笑みが心からのものだとは、どうしても思えなくなっていたのだ。
透には打ち解けて話せるのに、聡子とは敬語とくだけた言葉の入り交じった、おかしな会話になってしまう。それに気付いた聡子が、気を悪くしないだろうかと気になったのだ。
四人分のベーコンエッグが出来上がった頃、透と恵里子が一緒に降りて来た。楽しそうに何か話しながら笑っている。
「おはよう」
口々にそう言いながら、元気にダイニングに入って来る。
「おはようございます」
万里亜はベーコンエッグの皿を運びながら、二人を交互に見遣った。
透は白いシャツにVネックのベージュのセーターを重ねて着ていた。シャツには縦縞の織り模様が入っている。セーターの胸には刺繍が入っていた。きちんと髭も剃り終わっている。万里亜と視線があうと、にっこり笑って頷いた。
恵里子は赤いセーターに黒いズボンを履いている。髪はまだとかしていないのか、あちこち跳ねていた。
「万里亜ちゃん、起きるの早いね。お手伝いしていたの?」
恵里子に問われ万里亜が答える前に、聡子が口を挟んだ。
「私が万里亜ちゃんのお手伝いをしていたのよ。全部つくってくれたのよ」
「すごいな。恵里子にも出来る?」
透が恵里子の為に椅子を引いてやりながら、そう訊いた。そういうさり気ない思いやりが、万里亜の胸を打つ。
「まさか、出来ないよ。恵里子は調理実習もさぼり組だもん」
恵里子は甘えている時だけ、自分の事を恵里子と名前で呼んだ。
「威張って言う事か?」
「だって透さんが意地悪な事言うんだもん。恵里子は出来なくていいんだよ」
「何で? 出来ないとお嫁さんになれないよ」
「透さん、その考えは古いよ。今時は男子も料理するんだよ」
「そりゃパパだってたまにはやるけど」
「たまにじゃなくて、毎日やるの」
「そんな事言っているようじゃ、貰い手はないな」
透は言葉とは裏腹な嬉しそうな声をあげた。
「恵里子はまだ小学校を卒業したばかりよ。何言っているの?」
聡子がミルクを持って来て、テーブルに置いた。万里亜はスープを配膳し終えたところだった。
「そうだよ、気が早いよ。わあ、美味しそう。いただきます」
真っ先に恵里子がベーコンエッグに手を出した。スープを一口飲んで、透が笑った。
「旨い。万里亜ちゃんはいいお嫁さんになるね」
「私は結婚しないの」
斜め向いの席についた透に、万里亜は笑みを返した。万里亜の隣、つまり透の真向かいには聡子が座っている。聡子の表情は普通にしていたら万里亜には見えない。ということは、万里亜の表情も、身体をこちらに向けない限り、聡子からは見えない。
「私だって結婚なんかしないよ。出来損ないの男子なんか嫌いだもん、ね? 万里亜ちゃん」
「うん」
万里亜は小さく笑った。子供っぽい恵里子の物言いが、学校での、ませた発言と正反対で、可笑しかったのだ。
「そうだった、君たちは学校一の優等生だったね。学校の馬鹿男子共じゃ釣り合いが取れないか。それにしてもうちの娘は、大きくなったらパパと結婚するって一度も言ってくれないな」
透は恵里子から聡子に視線を移した。
「当たり前だよ。普通のパパはみんな、ママより娘が好きだって言うんだよ。だから娘も合わせてあげてるだけでしょ。ところがうちのパパときたら聡子さん一筋で、恵里子の事ちっとも大好きじゃないから、恵里子だってパパと結婚したいなんて思うわけないじゃん」
尤もな理屈だった。
「自業自得だったか」
透が苦笑する。
「自業自得って何?」
「自分が悪いからしょうがないってことよ」
聡子が口を出した。
「ふーん。万里亜ちゃんの家はどう? 小さい時パパと結婚したいと思った?」
「うーん。思った事ないと思う、たぶん。よく覚えてないけど」
「万里亜ちゃんのパパもママ一筋なの?」
「うん、そんな感じ」
「やんなっちゃうね」
恵里子がパンを頬張りながら言った言葉に、透も聡子も思わず失笑した。
「優等生のお嬢様方には適わないね」
それから、透と恵里子が食器を片付け、聡子が食後のフルーツを切った。
風が強かったので、その日は家でトランプやチェスをして遊んだ。楽しい時間はあっという間で、いつまでも遊んではいられなかった。明日は会社へ行かなくてはならない透が、七時には別荘を出る事になっていた。その時間が近付けば近付くほど、万里亜は寂しい気持ちになった。
まだ遊びたがっていた子供達の為に、夕食は聡子が一人でつくることになった。
ゲームが切り良く終わって、テレビを見ながら喋っている時、透が思い出したように言った。
「そうだ、万里亜ちゃんに本を貸してあげようと思っていたんだよ。僕が一番好きな本。ちょっと待ってて」
万里亜は一緒に図書館へ行った時の事を思い返した。透の愛読書とは一体どんな本だろう? 難しい経済の本だろうか。それとも政治? もしくは法律? 透は銀行員だから、金融関連の本かもしれない。
そう思っていた万里亜に手渡されたのは、一冊の児童書だった。
「これ?」
驚きを隠せない万里亜に、透は大きく頷いた。恵里子はテレビに夢中になっている。
「この本はね、僕が昔からずっと一番好きだった本なんだ。随分古いだろう? 今でもこれが僕の一番なんだよ。もっと難しい本をいっぱい読んでいる万里亜ちゃんには、子供っぽいと思うかもしれないけど、読んで感想を聴かせて欲しいと思って」
「星の王子様……」
「そう、星の王子様を読んで、万里亜ちゃんが何を感じるか教えて欲しいんだ。万里亜ちゃんがこの本を好きだと思うまでは、返さなくていいよ」
「好きと思わなかったら?」
万里亜は悪戯っぽく笑った。
「そうしたら、また間をあけてもう一回読んでみて。いつかきっとこの本の良さがわかると思うから。それまではずっと、万里亜ちゃんがこの本を持っていて」
「……わかった。ありがとう」
透が帰ってしまってから、その古い本を大事に噛み締めて読んだ。
それは現実にはあり得ないような空想物語だった。これを透が今でも一番好きなのだと言った理由は、万里亜にはどうしてもわからなかった。何故万里亜にこの本を貸してくれたのかも。
後で恵里子に訊いてみると、恵里子はこれを読んでいないと言った。自分だけに貸してくれたのだと思うと、嬉しかった。けれども、本の良さは少しもわからない。わからない間は本を持っていていいと透は言った。恵里子と中学が別れてしまったら、この本が透との唯一のつながりのような気がした。そう思うと、良さがわからない焦りも、ほんの少し和らぐ。
百回読めばわかるだろうか。わかったらその時は、褒めてくれるだろうか。
「ううん」
隣で恵里子が寝返りを打った。万里亜は本を大切に閉じて、枕元に置くと、明かりを消した。消したばかりの蛍光灯が暗闇で光っているのを見つめながら、万里亜は透の事を考えた。
星の王子様のどこが好きなのだろう。

