恋愛小説〜マグダラの万里亜

第八話「星の王子様」

 あまりにも突然、何の前触れもなく父親を失った代償に、少なからず良い事もあった。

 子供達の為に離婚しなればならなくなった百合子は、大義名分をかかげて大いばりで毎日家をあけるようになった。表向き、仕事を捜しているという理由だったが、夜も帰って来なかった。

 大人の経緯は万里亜にはよくわからなかったが、きっとあの時紹介された「知らないおじさん」と会っているのだろうと想像出来た。

 百合子の言い訳はいつでも祖父母に向けられたものであって、子供達に対する配慮ではない。夜になっても母親が帰らない事は、暗黙のうちに祖父母には秘密にされた。

 あんなに優しくしてくれた修二が、もう二度と帰って来てくれないのだと思うと、胸に込み上げるものがあった。まるで本当の家族のように、みんなで一緒に寝ようと言った修二が、万里亜の覚えている最後の姿だったと思うと、やりきれない。

 だが、修二が出て行ってから、万里亜も千絵も一度も折檻を受けていなかった。百合子はたまに帰って来ても上機嫌で、かつてなく寛容だった。

 心配していた警察も、とうとう訪ねて来なかった。まだ時々夢で苛まれる事はあったものの、変質者の死は徐々に遠いものとなっていった。

 卒業を間近に控え、私立中学に進学する事になった恵里子から、春休みに別荘に行こうと誘われた。もう頻繁には会えなくなるのだし、是非とも行きたかった。

 百合子の機嫌のよい日を見計らって、万里亜は慎重に切り出した。しかしあっけないほどすんなりと、それは許可された。

 卒業式には何の感慨も湧かなかった。泣いている級友を不思議な思いで見つめる。一体何が悲しいのか。泣かなかった女子は一様に「冷たい女」というレッテルを貼られた。一方不覚にも涙を見せてしまった男子は「女々しい男」ということになった。

 くだらない。

 どうせ中学へ上がっても、殆ど同じ顔ぶれのはずだ。一時の感傷に身を任せない事が「冷たい」というのなら、冷たくて結構だ。

 殆どの子供は、両親かすくなくとも片方の親が式に参加していた。山口さんの母親でさえ、赤ん坊を背負って、精一杯のおしゃれをして参加していた。しかし万里亜は一人だった。

 式が終わると親達は写真を撮ったり、ピアニカや絵の具などの置道具を持ってやったりしていた。

 万里亜は無意識に透の姿を捜した。だが恵里子は母親と二人でいた。きっと仕事があったのだろう。もうその場には何の未練も感じず、万里亜は歩き出した。

 何人かの友達に声をかけられ、誰かの親が嬉しそうに撮る写真に入った。多くの子が、万里亜と写真を撮りたがった。その度に愛想笑いを浮かべ、親達に挨拶しながら、人の波を縫うようにして校門を出た。

「万里亜ちゃん」

 呼び掛けられて振り向くと、恵里子だった。

「何も言わないで帰っちゃうなんて、ひどいよ」

「ごめん、人ごみに酔っちゃって」

「別荘、来週だよ。透さん、休みが取れなかったって言うから、土曜に私達送って、次の週迎えに来るって」

「そうなの」

 落胆が表情に現れそうになって、わざとらしく笑った。聡子の視線を感じた。

「こんにちは、万里亜ちゃん。卒業おめでとう」

 上品なチャコールグレーのワンピースの胸に、コサージュをつけた聡子が、走って来た恵里子にやっと追い付いた。

「ありがとうございます。来週もお世話になります」

「卒業旅行だからママは邪魔だって言われたけれど、二人だけでは危ないから、私もご一緒させてね」

 微笑んだが、目は笑っていないように見える。

「はい、よろしくお願いします」

「主人は仕事なのよ。一週間お留守番でかわいそうだけど」

「はい」

「残念がっていたわ」

 何と応えて良いのかわからずに、万里亜は曖昧な笑みをつくった。

 聡子は、自分の娘と万里亜をつき合わせたくないと思っているはずだ。五年生の夏休み、あの伊豆の別荘での最後の日に、聡子はそう言っていた。今回の旅行も不承不承なのかもしれないが、聡子もそして透も、恵里子には甘い。恵里子がどうしてもと言えば、どんな願いでもきいてやるのだろう。それに、中学が離れれば自然につきあいも消滅するに違いない。最後だからと大目に見ているのかもしれない。

 歓迎されていないところに行くのは、気が重いものだ。それを圧しても行きたい理由が、今まで万里亜にははっきりとわからなかった。

 確かに恵里子と遊ぶのは楽しい。日常を離れて泊まり掛けで出かけるのも、心踊るような行事だ。けれど、聡子に疎まれているとすれば、その喜びは半減する。出かければ、百合子にも恩を着せられる。そうまでしても行きたかったのは、何故か。

 たった今わかった。透がいるからだ。透がいないのだと聴かされた自分の落胆ぶりで、それと気付いた。だが何故そんなに透に会いたいのかまでは、わからなかった。

 話を聴いて欲しいのか。頭を撫でて欲しいのか。褒められたいのか。

 そのいずれもが、確かに万里亜の心にある。けれどもう一つ、何かが足りない気がする。まだその他にも何かを求めている気がしたが、どうしても何なのかわからなかった。

 次の週、百合子は自分の事で頭がいっぱいだったが、形式的に岡田家に挨拶の電話をかけ、万里亜に菓子折りを持たせた。前回聡子は、百合子が託した滞在費をどうしても受け取らなかったので、今回は持たされなかった。

 土曜日の夜、会話をする暇もなく車は出発した。別荘に着いた時は九時をまわっており、もう眠るだけだった。万里亜は前に泊まったのと同じ恵里子の部屋で、絨毯の上にふとんを敷いた。ベッドが一つあったが、恵里子も万里亜の隣にふとんを敷いた。

「今日は寝ないで語り明かそうね」

 そんな事を言っても、恵里子はすぐに眠ってしまう。明日には透が帰ってしまうかと思うと、早く寝て早く起きたかったが、万里亜は眠れない予感がした。

 その日は透とも聡子とも、話す暇はなかった。

 結局いつもと同じくらい眠れない時間を、暗闇の中でじっとやり過ごしたが、やがて浅い眠りについた。何度か暗いうちに目が醒めて、再びまどろんだ。何か夢を見ていた気がするが、朝にはすっかり忘れていた。

 五時に小鳥のさえずりを聴き、誰より早く起きた。

 きっと聡子は喜ばないと知っていたが、朝食をつくりはじめた。家でも毎日やっている事だ。

 昨日聡子が用意していた食材で出来るものを考えてみたが、一年半前、岡田家の朝食はパンだったことを思い出し、オニオンスープを煮た。ベーコンエッグは誰かが起きて来てからで充分間に合う。サラダになるものは、大根と胡瓜と人参しかなかった。それらをスティックにして、味噌とマヨネーズでドレッシングをつくった。

 キッチンで一人で座っていると、まるでこの家の住人であるかのような錯覚を覚える。厚かましい事だ。万里亜は口の端をゆがめて笑った。

 二階で物音がした。

 そろそろ六時半だ。誰か起きて来るのだろう。

 万里亜はスープを温め直し、フライパンを火にかけた。

「あら、万里亜ちゃん早いのね」

 背中から声をかけたのは、聡子だ。ちょぴりがっかりした気持ちになったが、気を取り直して振り返った。

「おはようございます」

「朝食をつくってくれたの?」

「早く目が醒めちゃったから」

「いい匂いね。手伝いましょうか?」

「あ、じゃあパン焼いて下さい」

 和やかな会話だったが、本当は緊張していた。聡子の優しい笑みが心からのものだとは、どうしても思えなくなっていたのだ。

 透には打ち解けて話せるのに、聡子とは敬語とくだけた言葉の入り交じった、おかしな会話になってしまう。それに気付いた聡子が、気を悪くしないだろうかと気になったのだ。

 四人分のベーコンエッグが出来上がった頃、透と恵里子が一緒に降りて来た。楽しそうに何か話しながら笑っている。

「おはよう」

 口々にそう言いながら、元気にダイニングに入って来る。

「おはようございます」

 万里亜はベーコンエッグの皿を運びながら、二人を交互に見遣った。

 透は白いシャツにVネックのベージュのセーターを重ねて着ていた。シャツには縦縞の織り模様が入っている。セーターの胸には刺繍が入っていた。きちんと髭も剃り終わっている。万里亜と視線があうと、にっこり笑って頷いた。

 恵里子は赤いセーターに黒いズボンを履いている。髪はまだとかしていないのか、あちこち跳ねていた。

「万里亜ちゃん、起きるの早いね。お手伝いしていたの?」

 恵里子に問われ万里亜が答える前に、聡子が口を挟んだ。

「私が万里亜ちゃんのお手伝いをしていたのよ。全部つくってくれたのよ」

「すごいな。恵里子にも出来る?」

 透が恵里子の為に椅子を引いてやりながら、そう訊いた。そういうさり気ない思いやりが、万里亜の胸を打つ。

「まさか、出来ないよ。恵里子は調理実習もさぼり組だもん」

 恵里子は甘えている時だけ、自分の事を恵里子と名前で呼んだ。

「威張って言う事か?」

「だって透さんが意地悪な事言うんだもん。恵里子は出来なくていいんだよ」

「何で? 出来ないとお嫁さんになれないよ」

「透さん、その考えは古いよ。今時は男子も料理するんだよ」

「そりゃパパだってたまにはやるけど」

「たまにじゃなくて、毎日やるの」

「そんな事言っているようじゃ、貰い手はないな」

 透は言葉とは裏腹な嬉しそうな声をあげた。

「恵里子はまだ小学校を卒業したばかりよ。何言っているの?」

 聡子がミルクを持って来て、テーブルに置いた。万里亜はスープを配膳し終えたところだった。

「そうだよ、気が早いよ。わあ、美味しそう。いただきます」

 真っ先に恵里子がベーコンエッグに手を出した。スープを一口飲んで、透が笑った。

「旨い。万里亜ちゃんはいいお嫁さんになるね」

「私は結婚しないの」

 斜め向いの席についた透に、万里亜は笑みを返した。万里亜の隣、つまり透の真向かいには聡子が座っている。聡子の表情は普通にしていたら万里亜には見えない。ということは、万里亜の表情も、身体をこちらに向けない限り、聡子からは見えない。

「私だって結婚なんかしないよ。出来損ないの男子なんか嫌いだもん、ね? 万里亜ちゃん」

「うん」

 万里亜は小さく笑った。子供っぽい恵里子の物言いが、学校での、ませた発言と正反対で、可笑しかったのだ。

「そうだった、君たちは学校一の優等生だったね。学校の馬鹿男子共じゃ釣り合いが取れないか。それにしてもうちの娘は、大きくなったらパパと結婚するって一度も言ってくれないな」

 透は恵里子から聡子に視線を移した。

「当たり前だよ。普通のパパはみんな、ママより娘が好きだって言うんだよ。だから娘も合わせてあげてるだけでしょ。ところがうちのパパときたら聡子さん一筋で、恵里子の事ちっとも大好きじゃないから、恵里子だってパパと結婚したいなんて思うわけないじゃん」

 尤もな理屈だった。

「自業自得だったか」

 透が苦笑する。

「自業自得って何?」

「自分が悪いからしょうがないってことよ」

 聡子が口を出した。

「ふーん。万里亜ちゃんの家はどう? 小さい時パパと結婚したいと思った?」

「うーん。思った事ないと思う、たぶん。よく覚えてないけど」

「万里亜ちゃんのパパもママ一筋なの?」

「うん、そんな感じ」

「やんなっちゃうね」

 恵里子がパンを頬張りながら言った言葉に、透も聡子も思わず失笑した。

「優等生のお嬢様方には適わないね」

 それから、透と恵里子が食器を片付け、聡子が食後のフルーツを切った。

 風が強かったので、その日は家でトランプやチェスをして遊んだ。楽しい時間はあっという間で、いつまでも遊んではいられなかった。明日は会社へ行かなくてはならない透が、七時には別荘を出る事になっていた。その時間が近付けば近付くほど、万里亜は寂しい気持ちになった。

 まだ遊びたがっていた子供達の為に、夕食は聡子が一人でつくることになった。

 ゲームが切り良く終わって、テレビを見ながら喋っている時、透が思い出したように言った。

「そうだ、万里亜ちゃんに本を貸してあげようと思っていたんだよ。僕が一番好きな本。ちょっと待ってて」

 万里亜は一緒に図書館へ行った時の事を思い返した。透の愛読書とは一体どんな本だろう? 難しい経済の本だろうか。それとも政治? もしくは法律? 透は銀行員だから、金融関連の本かもしれない。

 そう思っていた万里亜に手渡されたのは、一冊の児童書だった。

「これ?」

 驚きを隠せない万里亜に、透は大きく頷いた。恵里子はテレビに夢中になっている。

「この本はね、僕が昔からずっと一番好きだった本なんだ。随分古いだろう? 今でもこれが僕の一番なんだよ。もっと難しい本をいっぱい読んでいる万里亜ちゃんには、子供っぽいと思うかもしれないけど、読んで感想を聴かせて欲しいと思って」

「星の王子様……」

「そう、星の王子様を読んで、万里亜ちゃんが何を感じるか教えて欲しいんだ。万里亜ちゃんがこの本を好きだと思うまでは、返さなくていいよ」

「好きと思わなかったら?」

 万里亜は悪戯っぽく笑った。

「そうしたら、また間をあけてもう一回読んでみて。いつかきっとこの本の良さがわかると思うから。それまではずっと、万里亜ちゃんがこの本を持っていて」

「……わかった。ありがとう」

 透が帰ってしまってから、その古い本を大事に噛み締めて読んだ。

 それは現実にはあり得ないような空想物語だった。これを透が今でも一番好きなのだと言った理由は、万里亜にはどうしてもわからなかった。何故万里亜にこの本を貸してくれたのかも。

 後で恵里子に訊いてみると、恵里子はこれを読んでいないと言った。自分だけに貸してくれたのだと思うと、嬉しかった。けれども、本の良さは少しもわからない。わからない間は本を持っていていいと透は言った。恵里子と中学が別れてしまったら、この本が透との唯一のつながりのような気がした。そう思うと、良さがわからない焦りも、ほんの少し和らぐ。

 百回読めばわかるだろうか。わかったらその時は、褒めてくれるだろうか。

「ううん」

 隣で恵里子が寝返りを打った。万里亜は本を大切に閉じて、枕元に置くと、明かりを消した。消したばかりの蛍光灯が暗闇で光っているのを見つめながら、万里亜は透の事を考えた。

 星の王子様のどこが好きなのだろう。

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