恋愛小説〜マグダラの万里亜
- 序章
- 第一話「名前」
- 第二話「遠足」
- 第三話「夏休み」
- 第四話「別荘」
- 第五話「リア王」
- 第六話「喘息」
- 第七話「最後の夜」
- 第八話「星の王子様」
- 第九話「新しい敵」
- 第十話「田園交響楽」
- 第十一話「自己嫌悪」
- 第十二話「電話」
- 第十三話「転機」
- 第十四話「薔薇の咲く頃」
- 第十五話「十三周忌」
- 第十六話「恩」
- 第十七話「死神」
- 第十八話「最期の言葉」
- 第十九話「終章」
第九話「新しい敵」
中学は制服を着なければいけない、という事以外、小学校のときと何も変わらなかった。嫌われ者の山口さんとは、また同じクラスになった。それ以外に同じクラスになったのは三〜四人だったが、顔は見た事がある子ばかりだった。
万里亜は推薦されて、またもや学級委員にされた。
恵里子からは最初のうちにこそ週に一通は手紙が来たが、そのうち来なくなった。
一学期が終わった日、百合子は再婚する事を子供達に告げた。あの日に紹介された知らないおじさんが相手だった。だが今度の知らないおじさんは、子供達の父親になるつもりがなかった。
子供達はしばらく祖父母に預けられる事に決まった。
百合子の言葉はいつだって絶対命令だ。それがどんなに嫌なことでも、口答えなど許されない。半年間、折檻なしの暮らしに慣れてしまった千絵は、その事をすっかり頭から消し去っていたようだ。
転校したくないと反抗的な態度を取ったために、久しぶりの折檻を受ける羽目になった。
水風呂に顔を沈められている妹を見て、恐怖の感覚が赤裸々に蘇って来て、動けなかった。
「ごめん……な……さい、ご……めんな……さい」
水から顔を出す度に、千絵はひたすら謝罪の言葉を繰り返す。罪悪感からではなく、恐怖からだとわかる必死の叫びだ。
百合子は狂った般若のように、髪を振り乱して全体重をかけ、千絵を水の中に押し込めた。自分がされた時の息苦しさと悲しみが蘇って来て、千絵の小さな身体がもがく様を見ていられなかった。
「や……やめて」
万里亜はやっとの思いで声を絞り出した。千絵を庇いたかった訳ではない。無意識に口にしてしまった言葉だった。
「やめて、千絵が死んじゃう」
しかし次の瞬間、百合子にキッと睨まれ、我に返ってみると、何て愚かな言葉を吐いてしまったのかとすぐに後悔した。
「何、ですって?」
ゆっくりと、低い声だった。全身に鳥肌が立った。
百合子は千絵の頭を押さえていた手を緩めた。プハっと大きく息を吸い、千絵の頭が水から持ち上がった。
「あなたは一体、親を何だと思っているの?」
一句一句確かめるようにゆっくりと、そして丁寧に疑問符を投げる時は、百合子が最高の怒りに達している証拠である。万里亜は悲嘆にくれて目を閉じた。
百合子の濡れたままの右手が、万里亜の頬を打った。水が周囲に弾け飛んだ。
「私が本気で、自分の子供を殺すと、そう思っているの?」
選ぶようにして、鋭利な言葉をぶつけて来る。言葉の攻撃を、避ける事は出来なかった。
そっと自分の部屋に隠れていればよかったのだ。何故余分な言葉を吐いて、きっかけを与えてしまったのか。今さら後悔しても遅かった。
「いつも、そういう目で、親を見ていたのね」
千絵がそろそろと風呂場から脱衣室に上がって来た。
「だから、何を言っても、反省出来なかったのね」
万里亜は一生懸命否定の言葉を捜していた。しかし口は貝のように閉ざされて、咽まで出かかった言葉たちはそのまま塊になって沈んだ。
「万里亜。感謝も、反省も、出来ない子」
辛うじて首を横に振った。
逃げてはいけないと、知っている。けれど身体は逃げたがって、万里亜の言う事を訊かない。足が僅かに後ろに引かれたその瞬間、百合子が万里亜のか細い腕を乱暴に掴んで、引き寄せた。
「私が千絵を殺すと思ったのね」
急に早口になる。怒りが爆発する証拠だ。がむしゃらに首を横に振る。そうすれば目の前の怪物から逃げられるとでもいうように。
「だったら望み通り殺してあげるわ。死んでおしまい」
一気に腕を引かれて水風呂に放り込まれた。
全身の力を振り絞って、万里亜は抵抗した。抵抗すればするほど、事態は悪化するのだと、冷静な時にはわかる。けれど今、本気で死の恐怖を感じていた。
水を通したくぐもった声が、千絵に許しを与えているのが聴こえた。
身体は外に出たまま、上半身だけを浴槽につけられているので、逆立ちの時のように、頭に血が昇る。
息は二分弱までもつように水泳の時に訓練した。けれどそれは思いきり大きく息を吸って、万全の準備をした時の話だ。いきなりで、しかも恐怖に焦った状態で、準備する余裕などあるはずがなかった。
(もうダメだ、本当に死ぬんだ)
万里亜は極限の苦しさの中で、死がすぐそこにやってきていると感じた。振り払おうとしても、嘲るように万里亜が諦めるのを待ち構えている。
遠のく意識の中で最後の抵抗を試みる。
百合子の声も遠い。
罪から逃れようとするのは猾い人間だ。反省があれば抵抗はしないはず。そういった言葉の数々は、耳に入っては来たが心には響かなかった。
生命の危機の真只中で、唯一心を占めたのは、命とは全く関係のない本のことだった。星の王子様の挿し絵が目に浮かんで来て、あの本を透に返さないうちに死ぬのは嫌だと、強く思った。
(助けて、神様)
祈りはいつも虚しく空回りする。
頭の血管が切れたのではないかと思える音が聴こえた。もがいていた腕は力なく垂れようとしていた。もう何も耳に入らなかった。
その時、衣服の首を掴まれて、水から引き上げられた。勢い良く、肺に空気が満たされ、咳き込んだ。ぐったりした手足でなんとか身体を支え、ゲホゲホと水を吐いた。
耳もとで百合子が何か叫んでいるようだったが、聴こえない。自分の咳すら耳に入らない。静寂が万里亜のまわりに、薄い膜を張っていた。
無理矢理百合子の方を向かされ、襟首を捕まれたまま揺さぶられた時も、百合子の口の動きは見えるのに、何も聴こえなかった。頬を何度も打たれる痛みは感じるのに、当然聴こえるはずのパシっという音は、一向に聴こえて来ない。
そのうちに、目もかすんで、視界がひどくぼやけて来た。百合子の整った鼻筋が、ぐにゃりと曲がったように見えた。
そして、何もわからなくなった。
気がつくと、誰もいなかった。
万里亜は冷たい風呂のタイルの上に、濡れたまま横たわっており、聴力も視力も戻っていた。
まだ生きていた。
馴染みのある安堵感。何度気を失って、何度もう死んだと思い、そして何度生きている安心を味わっただろう。
気を失うのは心が弱いからだ。次に目覚めた時は、何もかも終わっていて、暖かいベッドの中だった、という展開を期待しているのだ。もしくは、すべてが夢であり、目覚めれば憂いなき日常が訪れはしないかという、非現実的願望からに違いない。
そんな馬鹿らしい夢は見るものかと、甘い自分を嘲笑う。
いつだって目覚めるのは、放置された冷たい床の上だ。どんなに目をつぶっても、生きている以上は必ず現実に立ち戻らなればならないのだ。一時だけ逃げて何になる。生きていたいと思う以上は、逃げても泣いても仕方ない。ありのままにすべてを受け入れるしかない。
緊張のほぐれた手足が、妙にだるい。
時々、本当に耳が聴こえなくなったり、目が見えなくなったりするのは、辛い事から逃げようとする猾い人間の証拠だろうか。本当はどこも悪くないのに、心が現実を拒否しようとするから、外界と遮断されて聴こえなくなったり見えなくなったりするのだろうか。
家中に人の気配はなかった。
万里亜は慎重に冷えきった身体を拭き、足を忍ばせて自分の部屋へ行った。途中、玄関で靴を調べると、百合子も千絵も出かけているようだった。
一人であることを知るのは、喜びだった。大きな安心感を伴って、万里亜をリラックスさせる。
命が繋がれているうちに、星の王子様を何度も読もうと思ったが、何故それにこだわっているのか、よくわからなかった。透が好きなものの良さがわからない自分を、責める気持ちはあったが、負担ではなかった。
本当に大切なものは、目に見えないんだよ。
一番心に引っ掛かったのは、その一行だ。
大切なものは目に見えない。それはきっとその通りなのだろう。けれど、万里亜にとっては何が大切なのだろう。目に見えない何が。
一番大切なのは何だろう。命? 確かに命は目に見えない。でも透が言いたいのは、そんな風に言葉に出来る何かではないような気もする。
一番知りたいのは、透が自分に何を言いたかったのか、ということだ。一番知りたい事こそが、一番大切なものなのだろうか?
それから、祖父母に預けられるという生活について、考えてみた。
千絵は何故嫌がるのだろう。百合子と離れていれば、少なくとも肉体の痛みは与えられないではないか。転校したくないという気持ちは何だろう? 友達はその時だけの馴れ合いだ。永遠の友情なんて存在するものだろうか。
築き上げて来た学校での権力を失うのは、残念な事だ。新しい環境で一からそれを築くのは、大仕事だった。けれどそんなものは、日常的に苦痛を与え続けられるより、ずっと楽ではないか。千絵はそれに気付いていないのか。
帰って来た百合子と千絵は、めかしこんでいた。再婚相手に会いに行ったのだろうか。
毎週土日に訪れていた祖父母は、近頃来なくなった。百合子が男と会うのに忙しいせいだろう。
しかし夏休みが始まる明日、夜になったら祖父母が子供達を迎えに来ると、百合子は言った。千絵はもうすっかりおとなしくなっており、最初から母親の再婚を大歓迎していたかのような演技を見せた。
転校は誰にも告げられないまま、二学期の始めに手続きされる事になった。
万里亜は恵里子にだけ、手紙を書いた。新しい住所を知らせ、転校先の学校名を知らせる。離婚の事は書かなかった。おそらくそれを人に話したとわかったら、百合子の機嫌を損ねるだろう。
家は人に貸すから、今日中に引っ越しの荷造りをするようにと厳命された。明日は当面の勉強道具だけを持ち、残りは夏休みの終わりに引っ越し業者が運ぶ事になっていた。
教科書、鞄、スポーツバッグに入るだけの衣服、水着、それから透に借りた本。それらを残して、残りをダンボールに詰めて行く。とても一日で終わるような量ではなかったが、命令は絶対だ。思い出を選り分ける間もなく、万里亜は何でもどんどん捨てて行った。ゆっくり選別している暇などない。
千絵は手際が悪い。自分の分をさっさと終わらせて、千絵の荷造りを手伝ってやらなければ、今日中になど終わるはずがなかった。終わらなければ、連帯責任とやらを問われる事になる。もしくは監督不行届き。どっちみち、何でも万里亜の責任だ。
万里亜の気も知らず、千絵は机の奥から出て来た友達の手紙を読み返したり、昔お気に入りだった服を試着してみたりしていた。
万里亜が自分を犠牲にしてやっとつくった時間を、千絵の為に使ってやろうとしているのにも関わらず、千絵は協力しようとしない。いちいちうるさいと膨れっ面で、干渉する姉を嫌うのだった。
万里亜は苛々しながら、千絵の荷物をどんどんダンボールに詰めて行く。すると、「勝手に触らないでよ」と生意気な口をきく。
時間配分の出来ない子だ。そのペースでやっていたら、今日中に終わらないという事に、何故気付かないのか。それとも、叱られるのは自分ではないと、呑気に構えているのだろうか。だとしたら、なんて憎らしい存在なのだろう。
自分のものは、殆ど捨てた。散々文句を言われながら、千絵の荷造りも手伝った。その努力も虚しく、やはり万里亜だけが平手打ちを受ける羽目になった。千絵が何かを言い付けたからだ。そして、荷造りも終わらなかったからだった。
千絵が何をどう言ったのか知らないが、万里亜は妹を思いやらない意地悪な姉に仕立て上げられていた。
ならばどうすればよかったのだ。放っておけばよかったのか。
考えるだけ愚かな事だった。何をどう努力しても、百合子には気に入らないのだ。
荷造りは途中のまま、二人は江東区にある祖父母の家へ連れて行かれた。
祖父母は亀戸の近くでプラスチック製造業を営んでおり、近くに三ケ所の工場を持っていた。一応は株式会社であったが、従業員は二十名足らず。その大半がパートタイマーだった。
祖父の和義が社長で、祖母の菊子が専務。その他の役員には、実際には何の仕事もしていない、祖父母の兄弟姉妹が名を列ねていた。
江東区、墨田区辺りは自営業者の多い土地柄だ。万里亜の通う事になっている中学校の学区内は、多くが商店や工場主の住まいであり、サラリーマン家庭はほとんど見られない。
自営業の家庭というのは母親も働いていて忙しい。子供に構っていられる暇などないので、概して教育意識も教養レベルも低く、だが金だけは持っていた。
祖父母の家も例に洩れず、金があった。けれどまとまった休みが取れないため、旅行や観劇や趣味といった情操面は二の次にされ、工場を増やしたり、別荘を購入したりに使われることが多かった。
別荘は軽井沢と伊豆に二ケ所あったが、祖父母が利用する暇はなかった。
万里亜がこれまで住んでいた家は、ベッドタウンとして人気のある千葉県だった。最寄り駅から東京駅まで三十分という好立地だったので、一流企業の社員向けに分譲された、高級住宅が立ち並んでいた。
日立製作所や旭化成といった会社が社員の為に分譲した区画には、同じ会社の社員ばかりが住んでいた。隣接して三井不動産や京成不動産が大きな分譲地を売り出していた。
万里亜が住んでいたのは京成の開発した分譲地の一つで、恵里子の家は三井の分譲地だった。一つの分譲地は端から端まで歩いて二十分ほどの広さである。
つまり、学区内には父親が一流企業に勤めるエリートの子供が多かった。もちろん、駅前にはたくさんのアパートがあったし、山口さんのように長屋に住んでいる人もなかにはいた。しかし、少数だった。
住宅環境の違いは顕著だった。祖父母の家の近所を散歩してみると、家々に庭はなく、門塀もない。どの家も道路からすぐに玄関で、ドアより引き戸が多かった。道路にはみ出さないようにする為だ。そして、隣家との境は、ひどい時には数センチメートルしかなかった。
祖父母の家は三階建てで、一階は駐車場、二階は事務所になっていた。三階にはキッチン、ダイニング、リビング、風呂、トイレの他に、六畳が二部屋しかなかった。
一方は和室で一方は洋室だ。洋室は祖父母の寝室で、和室は孫達が泊まる為に空いていた。その空いた和室を、千絵と二人で使う事になった。
机もない。クローゼットもない。押し入れの上の段にはふとんが入っていて、下の段には押し入れダンスが二つあった。それらは二人の孫の為に、空になっていた。
四才の時からずっと、自分の個室を持っていた二人にとって、共同の部屋というのは苦痛でしかない。ベッドもないので、毎日ふとんを上げ下ろしする生活になるのだ。まるで修学旅行がずっと続いているみたいなものだ。そこが自分の居場所だと思える日は、一生来ない気がした。
百合子の監視もなく、祖父母は昼間は仕事で留守だったので、夏休みの間は比較的自由に過ごす事が出来た。何度か恵里子の家に遊びに行って、透とも顔を合わせた。
転校の理由は何と応えて良いかわからず、親の仕事の都合と言っておいた。透に嘘をつくのは良心が痛んだが、離婚の事を言いたくなかった。
恵里子が万里亜を一番の友達だと思っているのは、万里亜がきちんとした家の子供だからだ。父親は一流企業で、母親は働く必要がなく、庭付きの家があり、成績がよいことが、恵里子の友達の条件だった。恵里子に限らず、優等生の類いだった子供達は、みんなそういう思想を植え付けられていた。
教師も、団地やアパートに住んでいる子供が平均点を下げると言って、その思想を増長させていた。
万里亜は離婚が知られる事で、もうあの子とつきあってはいけませんと、言われるのが怖かった。そうでなくても聡子は、万里亜を疎ましく思っているのだ。親が言わなくても恵里子自身が、もうあんな子とはつきあわないと言うかもしれない。それだけはどうしても嫌だった。
自分の部屋がない事、岡田家とのつきあいを切られるかもしれない事、その二点を除けば、祖父母との暮らしは快適だった。
家事は今まで同様に万里亜が受け持ったが、菊子は何をしても「ありがとう」と言ってくれる。料理に文句をつけたり、掃除の仕方が悪いと叩かれる事もない。
門限も、五時から七時になった。仕事から戻るのが七時だからだ。仕事をするのは二階の事務所ではなく、近所にある三ケ所の工場だったので、七時までは誰の監視の目もなく、完全に自由だったのだ。
これからは何もかもが上手く行くのではないか、微かな期待が胸を過った。しかしすぐにそんな甘い考えを一瞬でも抱いた自分に、嫌悪しなければならなかった。
住環境よりももっと重大な違いがあると気付いたのは、学校が始まった後だった。それは如何ともし難い、生活環境による考え方の違いであった。
百合子との地獄の生活に終止符が打たれた途端に、今度は学校が地獄と化したのだった。
かの地で、権力を握る為の条件は、いい家の頭の良い子供だった。しかしここでそれは通用しないと、すぐにわかった。
ここでは不良と呼ばれる勢力が、幅をきかせている。そもそも、いい家の子供など一人もいなかった。親はよくて工場主や商店主で、多くは肉体労働者だった。放任されて好き放題の子供、嫌われものの山口さんのように、殴られて顔が変型している子供、勉強が出来る為に虐められて小さくなっている子供など、万里亜の理解を超える生徒層の中に、何の準備もなく放り込まれ、どう振る舞えばいいのかわからなかった。
自分のせいではない老成した表情と、彼等に言わせれば上品ぶった物腰のお陰で、転校第一日目から、万里亜は孤立した。群れたいとは思わないが、情報は欲しかった。しかし、不良グループに睨まれた万里亜に声をかける勇気を持つ者は、一人もいなかった。教師でさえ、不良を恐れていた。
右も左もわからない環境での第一日目、授業は成立しなかった。
クラスの半分の生徒が騒音と言えるほどの声で騒いでいて、数人は煙草をふかしていた。教師は注意して暴力を振るわれるより、黙って職員室へ逃げ込む方を選んだ。
教科書を開いている二〜三人のおとなしい生徒は、早速餌食になり、吊るし上げられ、最後には小突き回されて笑い者にされた。酒を買って来いと無理を言われ、金も渡されないのに買いに出るしかなくなった男子もいた。
中学一年。たったの十二か十三である。しかし彼等はすでに、暴力団の予備軍のようだった。
そりを入れてリーゼントにしたり、グリースをべたべたにつけてオールバックにしているが、顔だちはまだ幼い。その不自然さが、滑稽だった。
太いズボン。長い学ラン。細く剃った眉毛。そういう風貌が際立っている男子は、クラスに四人いた。彼等を取り巻くように、六人の女子が、教室の後ろを陣取っている。一様にスカートを長くして、髪にはパーマ。染めている子もいた。揃って品のない笑い声をあげ、四人の男達に媚びを売っているように見える。
それ以外の生徒たちは、彼等の言いなりだった。全部でたった十人、数で言えばクラスの四分の一である。しかし彼等の背後には先輩がついていて、少しでも意にそまぬ者は呼び出しをくらってリンチを受けるのだ。
だが初日の万里亜には、そんな事はわからなかった。
「おい、てめえ」
そう呼ばれたのが自分であると認識するまでに、数秒かかった。一番後ろの空いていた席をあてがわれた万里亜は、背中に煙草の煙を感じられる位置にいた。
「しかとかよ」
「どこのお嬢ちゃんだか知らねえが、そんな態度じゃ痛い目みるぜ」
「教えといてやるが、転校生はまず石丸さんに挨拶する決まりだ」
「その前にレディースだよ、女なんだから」
下卑た笑い声と共に、口々に勝手な事を言いながら、男女の不良たちは、たちまち万里亜を取り囲んだ。
「誰?」
万里亜は眉をしかめた。
「俺らのリーダーだ。でもその前に俺が、石丸さんに取りなしてやるかどうか決める」
偉そうにふんぞり返って、授業中だというのに煙草をふかすこの男は、森下哲治という名前だった。不良組織の中でも幹部クラスであり、一年生の番だった。
森下と同じクラスに組み込まれてしまったのは、不運だったのか、それとも試練だったのか。
森下の傘下である三人の男子は、にやついた表情で様子を見守り、周囲を取り囲んだ六人の女子は、敵意を露にしていた。
森下が顎をしゃくった。先程買って来させたビールやつまみの袋を、あけろという意味らしい。万里亜は無視した。
「てめえ!」
口汚い言葉を吐いて掴み掛かろうとしたのは、木村綾子だった。痩せ過ぎて頬はこけ、顔色が悪い。森下はすっと右手を出して、綾子を無言で黙らせた。
「ここのやり方をまだよくわかっていないようだな」
村沢と呼ばれるオールバックの小男が、万里亜の腕を掴んだ。中一に見えない老けた少年だった。
怒りが万里亜の全身を支配した。力でねじ伏せようとする人間が、何より嫌いだ。見も知らぬ男に、自分を触れさせたくない。
嫌悪の表情と共に振払って、森下を睨み付けた。
「いつまでそうしていられるか、見物だな」
口の端を歪めて笑う。頭に血が昇った周囲の人間達と違って、森下は余裕だった。
女子達が口々に「ヤキを入れるべきだ」と意見したが、森下は取り合わなかった。
「そういう事は石丸さんが判断する。てめえらは手出しするな」
人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、不良達は万里亜から離れた。ひそひそ話や、あからさまな中傷が飛び交う中、万里亜は一人で黙って国語の教科書を予習した。
初日からこれでは、先が思いやられる。おそらく一年中、授業は成立しないのだろう。
校内暴力、暴走族といった言葉は、かつて別世界のものだった。しかしあまりにも突然、万里亜は渦中に投げ込まれた。この状態で成績など、どうやってつけるのだろうか。勉強はすべて自習なのか。
不安の中に国語の時間は終わり、不良達は教室を出ていった。そのおかげで、次の英語は普通に授業が出来た。
始業式の日は、その次の数学で終わりだった。内容は、前の学校ですでに習ったものばかりだった。これなら授業があってもなくても、あまり影響はないかもしれない。自習で充分だ。
その日、万里亜は諸手続きの為、職員室に立ち寄り、下校が遅れた。
学校の中は、生徒たちの質を如実に現わす荒れぶりだった。ところどころ窓ガラスが割られ、トイレというトイレはドアが壊されていたり、煙草の火を押し付けられていたり、まともな形を保っているものなど、一つもない。
蹴られて変型したロッカー、誰も掃除をしないゴミだらけの床、落書きだらけの壁。荒廃した雰囲気が尚更、子供達の心を荒ませるのだろう。
こんな環境で、あと二年半も耐えねばならないのだろうか。
一刻も早く逃げ出したい。
逃げてはいけないとどんなに力説されたとしても、この環境に留まる利点は一つも見つからなかった。
考え事をしながら帰り支度をすませ、昇降口に向かう途中、万里亜の行く手を阻む一団があった。
予感はあった。しかし策は講じていなかった。講じようがなかった。
斜めに構えて立ちはだかる五人の中に、知っている顔は一つだけだった。木村綾子である。彼女はおそらく「ヤキを入れる」という考えに固執しており、同じ考えの先輩達を動かしたらしかった。
みんな同じような髪型をして、スカートを引き摺るほど長くし、上履きのかかとをだらしなく踏んでいる。規定の黒いジャンバースカートを着てはいるものの、中のブラウスは色とりどりだった。
明らかに下手な化粧をしており、揃って眉毛は薄い。一人は大きなマスクをして、鉄パイプを握っていた。おそらくその人物がこの一団の権力者なのだろう。
二人が万里亜の両腕をがっちりと押さえ、トイレに引き摺って行こうとした。抵抗しても無駄だった。何が起こるのかわからなかったが、危険である事だけはわかった。
「てめえが生意気な転校生か」
綺麗な顔をした女が訊いた。万里亜は応えなかった。
マスクをした女が鉄パイプで、思いきり万里亜の腹を殴った。
「うっ」
初めて受ける腹への殴打に一瞬息が止まるかと思った。両腕はしっかり抑えられていて、避けるのは不可能だった。同じ場所へ続けて三打、マスクの女がパイプを振り卸した。
「いっ……」
痛みが脳に達するまでに時間がかかった。転校して来たからといって、何故こんな仕打ちを受けねばならないのか。誰に挨拶しなかったというのか。こんな犯罪じみたことが平然と許される場所なのか。
「返事くらいしろ」
顔の綺麗な女が万里亜の髪を無造作に掴んで、乱暴に引っ張った。
「石丸さんに挨拶しなかったそうじゃないか」
「それが許されてるからっていい気になるんじゃねえよ」
「男衆は許しても、あたしらレディースは男ほど甘かないんだ」
「誰に頭を下げるべきなのか、教えてやるよ」
「てめえを使うのは石丸さんじゃなく、このあたしだよ」
次々に吐かれる四人の言葉は、日本語だと思えなかった。木村綾子が一歩後ろに下がって満足そうににやついた。
綺麗な顔の女が、万里亜の頭をぐいっと押し下げて、トイレの床に跪かせた。
「あたしが通る床を綺麗に舐めな」
頭を汚れ切ったタイルに押し付ける。汚い上履きを履いたままの足で、誰かが万里亜を踏み付けた。たくさんの足が万里亜の身体を蹴った。
痛みよりも屈辱の方が大きかった。
何故こんな不当な目にあわされねばならないのか。だが、許しを乞うのは御免だった。言いなりになるのも御免だ。逃れる術はないのか。どうしたらいいのだ。
無意識に顔や腹など弱いところを手で庇った。そして、暴力をやり過ごすには黙って待つしかないということを、思い出した。抵抗すればするほど、相手は喜んで追い討ちをかけてくる。そういうものだと知っている。
心を飛ばした。
もしここで殺されでもしたら、誰か泣いてくれる人がいるだろうか。悲しむのは祖父母だけであるように思う。それもその時だけ。すぐに忘れ去られるだろう。
いい家の子でなくなり、こんな劣悪な環境に放り込まれた万里亜を、岡田家の人々は軽蔑するだろう。死んでも自業自得と思うかもしれない。透だって、あんな子に大事な本を貸してやって馬鹿だった、と思うかもしれない。
急激に悲しみの渦が襲い掛かって来た。
悲しみは、時に最大の凶器となる。
どんな酷い言葉より、肉体的な苦痛より、心を襲う悲しみの方が、ずっとずっと堪え難かった。
自分はこんな風に、苦痛を与えられる為だけに生まれてきたのか。
百合子の折檻からやっと逃れたと思ったら、次は程度の低い人間の巣窟に放り込まれ、生け贄にされるのか。生きている間中、何者かによって虐待され続けるのか。逃れられないのか。それでも、恨むなと言うのか。妬むなと言うのか。受け入れろと言うのか。だからマリアという名前を与えられたのか。
(もしも、たった一人でいい、ほんの少し愛してくれる人がいたら、私は何にでも耐えられる。けれど、誰も、どこにも、私を必要としてくれる人はいない。助けてくれる人はいない)
絶望が雲のように、万里亜の頭上を覆った。
遠くに自分を罵倒する声が聴こえる。殴ったり蹴ったりする人間の動きが見える。けれどもう、どうでもよかった。
何がそんなに悲しいのだろう。自分を客観的に見つめて、冷静に判断を下すもう一人の万里亜が、痛み苦しみ悲しむ哀れな万里亜を見下ろしていた。
へりくだって謝罪してやればいいじゃないか。そうすればこの馬鹿な人間共は、万里亜が服従したと思って、偉くなったと錯覚し、喜んで隙を見せる。よく観察して、相手が喜ぶ事を言ってやり、それと気付かれない内に、相手を思うように動かす。簡単なことじゃないか。相手は馬鹿だ。どうしてそれが出来ない。
万里亜が万里亜を責める。
どんな悪い事をした罰だと言うのだろう。辛いと感じるのは甘えなのか。不当な目にあっている人間は、世の中に五万といる。自分だけを憐れむな。肉体の痛みは一瞬だ。永遠に続きはしない。
相反する言葉が頭の中に溢れ帰って、何を選び取ればいいのかわからなくなる。そして最後は真っ白になる。その時考えるのはいつも同じ事。
星の王子様は何を訴えたかったの?

