恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十話「田園交響楽」

 三学期になって、名前が変わる事になった。

 今まで百合子は離婚しても、秋本の姓を名乗っていた。離婚する時に、旧姓に戻すか、そのままの姓を持続するか、選べるのだった。

 しかし二月に正式な再婚が決まった。戸籍の筆頭者だった百合子が再婚すれば、子供達の籍は中ぶらりんになってしまう。どこかの籍に入らなければならないが、百合子の再婚相手は、子供を自分の籍に入れるつもりがなかった。

 子供達は必然的に、祖父母の養女になると決まった。それは祖父母の望むところではなかったが、他に方法がない。

 秋本万里亜から、青木万里亜に。

 秋本千絵から、青木千絵に。

 名前に未練などない。どう変わろうと、何も感じない。しかし学校でそれを告知するのは、喜ばしくなかった。言い掛かりをつけられるきっかけとなってしまう、そうわかっていたからだ。

 この場所で権力を持つためには、暴力に訴えるしかない。破壊行為が何より嫌いな万里亜には、無理だった。ならば目立たないようにするしかないのだが、転校生というだけでそれも初めから不利だった。

 結局、逃げ回るしか他に身を護る術はなかった。

 理不尽な暴力を避ける為、万里亜はだれより早く帰宅した。

 不良達は、体育の坂井先生の事だけは、恐れていた。空手の有段者であると噂されており、不良が五人束になっても、適わないくらい立派な体格だった。  万里亜は出来るだけ坂井先生の側にいるよう心掛け、細心の注意を払って学校生活をやり過ごしていた。それでも暴力に曝される事は、一度や二度ではなかった。

 名前が変わった事は、どうしても恵里子に告げなければならなかった。恵里子からの手紙が、いつまでも旧姓のまま届いていたら、祖父母はいい気持ちがしないだろう。

 恵里子に、というより透に知られたくないと思うのは、万里亜の身勝手だ。万里亜が大事に思う人間関係を優先して、その義理もないのに扶養してくれる祖父母を、おろそかには出来なかった。

 もしもその手紙を書いた事で、恵里子から音信不通になってしまったら、それが答えだと思って、本は郵送で返そうと決めた。そう決心出来るまでには、勇気を要した。

 学校では戦いの毎日。家では祖母の機嫌を損ねないよう、息を詰めて暮らしていた。祖父の態度は、子供達が養子になると決まっても、何ら変化を見せなかったが、祖母は不満を露にした。

 千絵は悪辣な環境に染まって、暴力的になっていった。それを万里亜がどんなに注意しても、聴き入れない。この環境は特殊なものであり、染まってしまえば自分を貶めるのだと、わかって欲しかったが、聴く耳を持ってくれない。  千絵は賢い子だ。理解出来ないはずはない。

 自分の身を守る為には、周囲の色に染まる必要があった。外敵から身を守る為に自らの色を変えるカメレオンのように。しかしそうしている内に、心まで、中身まで染まってしまう危険があった。万里亜は妹にそれを教えたかった。けれど千絵にとってそれは、余計なお節介だった。

 孤独は万里亜に力を与えた。決して屈しない、決して頼らない、決して挫けない意志の力を。

 教会には行かなくなった。けれど聖書の教えは、その形を変えて万里亜の中に生きていた。

 すべての人間は罪深く、神を愛することのみで、赦される。

 心の中で何かが命ずる。

 恨まず、羨まず、妬まず、ただ愛せよと。

 恵里子に手紙を書きながら、万里亜は無意識に祈っていた。祈りは万里亜の根底に根ざした儀式だった。

 身体の芯まで冷え込むような寒い日だった。

 手紙を投函せず胸に抱いて、万里亜の領域である夜を迎えた。ふとんが自分の体温で暖まってくるまで、万里亜はじっと動かず、柾目の天井を見つめていた。節でもあってくれた方が、眠れない時間をつぶせるのにと思ったりもした。

 透に会いたかった。

 もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。

 涙がじわっと滲んで来て、ぎゅっと目を閉じた。

 隣で千絵の規則正しい寝息が聴こえる。一人きりの夜だけ、万里亜は自分に涙を許した。忘れる為に、涙が有効だと知っていたからだ。

 透に会いたいと思うのは甘えだ。ほんの気紛れで手を差し伸べてくれたからといって、頼っていいということにはならない。そもそも最初から、万里亜が心を預けていい相手ではない。

 このまま知らず知らずのうちに、どんどん心が傾いて行けば、一人では何も出来ない弱い人間になってしまい、神様に与えられた試練を乗り切る事が出来ないだろう。だから。

 頭の中を、目まぐるしく思い出が駆け抜けた。

 だから、ここで断ち切れと、神様はそう言うのだろう。

 尤もだと思う。

 どんなに幸せそうに見えても、羨んではいけなかった。自分に与えられたもの以外、欲しがってはいけなかった。最初から知っていたではないか。

(透パパは恵里子のパパ。私のパパじゃない)

 明日になったら、必ず手紙を投函しよう。万里亜はそう決めた。

 あまりにも多くの涙を流した為に、そのままでいるのは困難になった。万里亜は明かりをつけないで、そっと顔を洗いに廊下へ出た。

 リビングの明かりが洗面所の方まで漏れていて、ヒステリックな話し声が聴こえて来る。すぐに百合子が来ているとわかり、反射的に身を隠した。

 祖母が諌めて百合子が泣いていた。何かあったのだろうかと、好奇心に駆られ、そっと耳をそばだてた。

 子供達を養子にする件で、祖母が百合子に文句を言っているらしい。離婚には反対だった。今からでもいいから修二とよりを戻せと、説得しているのだった。しかし百合子は、何もかも自分の思い通りにする人間だ。

 途切れ途切れに、万里亜の名が叫ばれるのを聴いた。

「あの子は厄病神よ。すべてあの子のせいよ」

 そういう攻撃的な言葉だけが、はっきりと聴こえて来る。

(何が私のせいなの?)

 怒りが込み上げる。

「あの子のお陰で、大学だって途中で止めなければならなかったのよ」

「それはあの子のせいじゃないでしょう」

「あの子の父親が、呪の印としてあの子を植え付けて行ったのよ」

 心臓がドキドキした。自分の父親の事を聴いたのは、初めてだ。息を殺してじっと会話に神経を集中する。

「何馬鹿な事を言っているの」

「千絵の父親だって、あの子のせいで死んだのよ」

「あれは事故よ」

 泣きながらヒステリックに叫ぶ百合子の言葉は、聞き取りづらかった。

「万里亜が、あの人を殺したのよ」

 ドクンドクンと血の流れる音が聴こえた。

「やめなさい」

「いいえ、やめないわ。あの子の父親があの子を使って、殺させたのよ」

「百合子! もうあの男の事を考えるのはやめなさい」

 祖母の声音も興奮を帯びて来た。

(私が千絵の父親を殺した?)

 確かにそう聴こえた。それでは、自分と千絵は父親が違うという事なのか。頭が混乱する。

「修二と別れたのだって、あの子のせいよ」

「それは……」

「あのままでいたら、修二だっていつかあの子に殺されたわ」

 何の話をしているのだろう。自分がパパを殺す? そんなことは想像も出来ない。

「お願いよ。あの子は私にとって禍いの元凶なの。あの子がいたら私は幸せになれない。どうしてもって言うなら、そのうち千絵だけでも引き取れるように頼んでみるから、万里亜のことはお願い」

「だいたい最初から、子供を引き取りたくないと言うような人と結婚して、幸せになれるの?」

「今度こそ、絶対幸せになりたいの。だからその為に、今は子供が邪魔なのよ」

「邪魔だなんて、自分が産んだんじゃないの」

「千絵はともかく、万里亜は私の意志じゃないわ」

「またそういうことを……」

「あれは私の責任じゃない。むしろお父さんの責任じゃないの。だってそうでしょう。あの男をうちに自由に出入りさせていたのは、お父さんなのよ。万里亜の事はお父さんが責任を負うべきよ」

 それきり、祖母は黙ってしまった。

 万里亜は静かに部屋に戻り、頭まですっぽりふとんにくるまった。

 今初めて聴いた事実を考え直そうと思うのに、何から考えたらよいのかわからない。頭が働かなかった。

 千絵とは父親が違う。そのことはさほどショックではない。けれど自分の父親が「あの男」と呼ばれて百合子に憎まれているのは、自分が憎まれる以上に心に鋭く突き刺さった。

 百合子が、躾のためと言いながら、本当は万里亜を、万里亜の父親を憎み、打ち付けていたのだと、はっきり意識するのが怖かった。

 躾だとか愛情からだという言葉を、信じられた試しはない。けれど完全に疑っていた訳ではない。訝しんでいただけだ。

 千絵の父親を、本当に殺したのだろうか。どうやって殺したのだろう。父親に愛情を注がれる千絵を妬ましく思って、それで殺したのだろうか。殺せば自分だけの父親になるとでも、思ったのだろうか。

 四才より小さかった時の事だ。何の記憶も残っていない。そんな小さい幼女に、大人がどうやったら殺されるというのだろう。

 万里亜の心に、忘れかけていた記憶が呼び覚まされた。去年の冬、あの変質者を殺したのは、やっぱり自分だったのだろうかと、ぼんやり思った。

 桜の時期は、万里亜の一番好きな季節だ。あの淡い薄紅色の花びらが、風に舞い散る様子をぼんやり眺めるのが、万里亜は大好きだった。

 しかし今はそんな事をしている余裕がない。外には危険がいっぱいで、今年の桜は、諦めざるを得なかった。それでも校門の脇に植えられた二本の桜の樹の横を通り過ぎる時は、幸せな気持ちになった。花の香りは殆どないはずだが、空気の色も清清しさも違って見える。

 二年生に進級し、石丸とやらが率いる一団が卒業になっても、学校の雰囲気に、さほど変化はなかった。

 新しい人間が番を張り、森下達は、一年生にここでのやり方を教える役目を仰せつかっていた。万里亜は依然として狙われていたが、今の時期は不良達も忙しく、浮き足立っていた。

 新しい不良組織のトップは、木村という男だった。ルックスの面で石丸よりずっと人気があった。不良組織に組み込まれていない女子の中にも、彼を好きだという子がたくさんいた。

 クラス替えがあったが、新しいクラスで友達をつくろうという気持ちはなかった。それでも、今まで他クラスだった何人かの女子が、万里亜に近付いて来て、学校では一緒に過ごすようになった。

 彼女達は男の子の話しかしなかった。

 誰が好きだとか、誰が誰とつきあっているとか。そんな話を聴かされても、万里亜には別世界の出来事のように感じるだけだ。

 誰かと友達になるとき、必ず聴かれる事がある。

「好きなひと、いる?」

 万里亜には「いない」と答える事しか出来なかった。しかし彼女達はその言葉を信じず、万里亜を秘密主義だと罵った。

 人を好きになる感情を悪いとは思わない。万里亜には、好きだと思えるひとが、本当にいなかっただけだ。

 同じ学校の男子達を、恋愛の対象として考えるには、彼等は幼すぎ、そして馬鹿すぎた。

 好きだ嫌いだ、告白するのしないの、どうしてそんな下らないことで、あんなに楽しそうに笑えるのか。ルックスだけで人を好きになるのは、芸能人に憧れるのと同じ感覚なのだろう。テレビを観ない万里亜には、好きな芸能人すらいない。

 近付いて来た女の子たちは、万里亜と会話が成立しないとわかると、だんだんに離れて行った。それでよかった。友達は恵里子一人で十分だ。

 恵里子は全く変わらなかった。同情も見せなかったし、軽蔑も見せなかった。

 名前が変わった事を手紙で告げて以来、一度も顔を合わせてはいない。手紙の文面だけからは、本心は何もわからない。黙って宛名を変えてくれただけで、その事について深くは触れなかった。

 手紙の内容は、学校での出来事が中心で、いつも楽しそうな雰囲気が漂っている。育った環境がさほど変わらず、同じような思想を持った子供達が集まっているのだろう。だから、楽しむ事が出来るのに違いない。

 時々は、男の子のことが書いてあった。恵里子もまたクラスの女子達と同じように、男の子には興味を持っているようだった。共学で羨ましいと書いてあった。

 万里亜は自分の通う学校のことは、一切手紙に書かなかった。書けなかった。書いても意味がわからないだろうと思う。実際万里亜だって、理解するのに時間がかかった。体験してみなければ、一生知らない世界だっただろう。すべては生活環境の違いから来る、思想の違いなのだ。

 ここでは暴力が公然と場を支配する。それが許されている。

 恵里子は昔、守らなくてはいけない規則と、守らなくてもよい規則があると言った。一体何を守り、何を守らなくていいのか、万里亜の判断と、恵里子の判断は同じだった。しかしここには、万里亜と同じ判断を下す者は一人もいない。

 頭のいい子は何人かいたが、親が教育熱心でない為に、せっかくの資質は無駄にされていた。商業高校や工業高校に進んで、将来家業を継ぐ事、もしくは手に職をつける事が、多くの親の願いであった。

 不良に目をつけられていた万里亜は、学校へ出席しなければならない義務を果たすと、それ以外は家に閉じこもった。図書館にも行けなかったので、家にあった世界文学全集を読みあさった。他に何もする事がなかったのだ。

 小さい頃、テレビを観せて貰えなかったので、テレビを観て暇をつぶすという習慣がなかった。万里亜とは逆に、千絵はテレビにかじり付いた。今まで観られなかった分を取り戻そうとしているように、何もしないでテレビばかり観ていた。

 万里亜もたまには一緒に観た。しかし、何が楽しいのか全くわからなかった。そのうち観るのはニュースだけになった。

 文学は、たいして面白いとは感じなかった。所詮はみんな創りごとの世界だ。創り上げられた人間が何を喜び、何を悲しんでも、万里亜には共感出来ない。

 しかしある時、心打つ物語に出逢った。アンドレ・ジイドの「田園交響楽」だった。初めて、本を読んで涙を流した。

 今まで創り物の世界を嫌って来た。けれど、そこに共感出来る感情が流れてさえいれば、こんなにも、本の世界が重要であるかのように感じる。盲目の少女の気持ちが、そして牧師様の気持ちが、痛々しいほどにわかってしまったのだった。

(けれどもし私がジェルトリュードだったら、目が見えるようになっても変わらず、牧師様を愛していたはずよ)

 ある意味では、万里亜も盲目であると言えた。閉ざされた世界しか知らない、ちっぽけな存在だった。

 万里亜には、ジェルトリュードの裏切りが許せなかった。目が開いた途端、牧師様を傷つける少女の若さを憎んだ。それは万里亜が、牧師様を愛した少女に自分を同化させて、読んでいたからである。

(私だったら牧師様を裏切りはしない、悲しませはしない)

 怒りがこみあげてくる。だが、なぜこんなにも腹立たしいのだろう。なぜ涙が出て来るのだろう。なぜ牧師様を愛し続けると断言出来るのだろう。

 突如として万里亜の胸に衝撃が駆け抜けた。

 自分が透を、恵里子の優しいパパとして羨んでいたのではなく、男性として愛していたのだと、突然気付いてしまったのだ。本の中の少女が間違いに気付くと同時に、万里亜は、自分の本当の気持ちに気付いてしまったのだった。

 全身に震えが走った。

 なんてことだろう。なんという深い罪。恵里子のパパを羨ましがるより、ずっとずっと大きな罪ではないか。

 リビングのソファで、本をひざに置いたまま、万里亜は指を組み合わせた。祈り赦しを乞う為ではない。身体の震えが止まらなかったので、無意識に指を固く結びあわせてしまったのだ。

(誰にも気付かれてはダメだ)

 万里亜は自分の醜い心の中を、知りたくなかった。気付かなければよかったと後悔した。なんとか気持ちを封じ込めようと、固く目を閉じた。

 今までだってそうやって生きて来た。本当の望み、本当の気持ち、真実はすべてひた隠して、上手くやって来た。

 自分の心に嘘をついて道化になり切っていると、最初はとても悲しいけれど、だんだん笑顔がしっくり貼り付いて来て心を被ってくれる。そうすると何も感じなくなる。悲しいとも思わないし、楽しいとも思わない。でも顔は笑っている。

 過去に笑わなかった分を取り戻そうとでも言うように、万里亜は無理矢理笑う。

 それでも、泣いてもいいよと言ってくれる人がいたら、それがたとえ悪魔でも付いて行ってしまいそうな気がする。

 何故気付いてしまったんだろう。こんな絶望的な想いに。

 心がゆれ動く。

 本当は泣きたいのか笑いたいのかわからない。

 忘れたいのか、忘れたくないのか。

 鳥肌がおさまらない。

 窓の外は穏やかな四月の陽気だったが、万里亜は寒くて寒くて仕方なかった。

 心から追いやろうとして必死になればなるほど、気持ちは膨れ上がって万里亜を押しつぶそうとする。他の事は何一つ考える事が出来ず、途方にくれた。

 しかしそのお陰で、日常の苦痛をほとんど感ぜずにすんだ。

 日常は惰性。そして日常は仮の姿。生きているのは夜だけだ。独りきりの、暗闇の、静寂の、夜だけだった。

 夏になると、恵里子から別荘への招待があった。これからは毎年、お盆の時期を一緒に別荘で過ごそうという誘いだった。その知らせは喜びであり苦しみだった。

 恵里子の家も万里亜の家も、お盆に帰省するという習慣がなかった。だから、お盆が何の為の休みなのか、よく理解出来ていなかった。幼い頃祖母に、死者の魂が戻って来ると聴いた時には、震え上がったものだったが、今では形骸化した儀式であり、廃れゆくものと認識しているだけだった。

 透はゴールデンウィークと盆と正月に一週間づつ休みがあるだけで、まとまった休みには家族で別荘へ行く習慣だった。そのうちの一回、万里亜を仲間に入れてくれるという申し出は、嬉しくもあり、申し訳なくもあり、複雑だった。

 せっかくの休日を他人に侵害されるのが、どれほど不快なものか、万里亜にはわかっていた。

 とても大切に思う人が、自分の存在のために不快感を強いられると考えるのは、あまりにも辛かった。けれどもそれ以上に、透に会いたいと思う自己中心的な欲求が、強く頭をもたげた。相手の事を思いやって自分の欲求を抑えることが、どうしても出来ない。そんな自分を、万里亜は醜いと思った。醜さを、透に悟られたくなかった。

 星の王子様は、もう何十回と読んでいた。それを透に話した事はない。

 もしかしたらまだ読んでいないと思っているか、それとも貸した事さえ忘れているかもしれないと、そう思う時もあった。だが大抵は、本の良さをまだわからない自分に対して腹が立ち、それでも何も言わずに待ってくれている透に、頭が下がった。時折、衝動的に平伏したい気持ちになったが、全ての感情は、たとえ万里亜の内部で猛り狂っていようと、表に出て来る事はなかった。

 別荘は辞退すべきだった。それが人間として正しい。

 優等生の万里亜が、己の正しさをふりかざすと、本当の万里亜が反発する。

 正しいかどうかなんて、主観的な問題だ。それが誰にとって正しくても、透に会いたいと思う万里亜を抹殺する事は出来ないのだ。ならば正しさなど何の意味があるだろう。

 本当の万里亜は自分勝手で、他人を思いやろうとなどしない。せっかく母親の監視の目から逃れているのに、自分を抑えつける必要がどこにある。

 あらゆる感情がせめぎあって、最後は支離滅裂だった。もう何が本当の望みで、何に罪悪感を感じるのか、わからなくなった。そういう時は、思考を止めるだけだ。

 堂々回りの考えを止めると、万里亜は欲望のままに、恵里子に手紙を書いた。

「ありがとう。久しぶりに会えるのが、とても楽しみです」

 それは恵里子への言葉ではなかった。

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