恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十一話「自己嫌悪」

 透は陽に灼けていた。

 聡子は相変わらず白く気品があり、以前はそれが穏やかな優しさに思えたものだが、今は冷たい拒絶にしか感じられない。

 聡子は敬けんなクリスチャンで、洗礼も受けていた。冷たいと感じるなんて、僻みかもしれない。そう思おうと努力したが、自分が成長すればするほど、聡子と百合子の間に差を感じなくなっていた。

 かつて貴婦人のようだと感じた聡子は、今ではヒステリックな普通の女だった。

 もちろん聡子は体罰を与えない。恵里子の無邪気さを見れば、それはわかる。だが、本質は、百合子と同じであるような気がする。

 聡子が穏やかさを演じていられるのは、万里亜に言わせれば透のお陰だった。もしも夫が透でなかったら、「あの男」と百合子が憎々しげに吐き出すような、そんな人間だったら、聡子は今の聡子でいられただろうか。

 あり得ない。

 人間を創るのは環境だ。それは幼い頃、誰かが教えてくれた言葉だった。誰だったか思い出せない。

 幸と不幸はいつでも背中合わせだ。同じ資質を持って生まれても、落とされた環境が違えば、全く別の人生を送る事になる。

 聡子と百合子が変わらないように、万里亜と恵里子だって変わらない。産まれ落ちた家が違うという以外、何の差があるだろう。

 大事なのはどの家に産まれたか、どの家に嫁いだかだ。そして、家の在り方を決めるのは、間違いなく夫であり父親なのだった。

 透を中心とした世界は、万里亜にとって狭き門をくぐった先の神の領域に等しい。そこに存在を許されているのが、百合子や万里亜と変わらない、欠陥だらけの人間であると思うと、心は沈んだ。

 どうして自分は選ばれなかったのだろう。それとも前世で、二人はよっぽど善い行いをしたというのか。自分はどんな罪を犯して、神の国からふるい落とされたのだろう。

 尽きぬ不満は、思ってはいけないとわかっていても、万里亜の心を雁字搦めにした。

 こんな風に人を羨んだり、妬んだりしてはいけない。そうしないとあれほど固く誓っていたのに、自分を抑えられない。

 もしも自分と同じ状況で、それを感じずにいられる人がいるとしたら、それは本物のマリア様だけだ。

 自分を正当化しては、その醜さに嫌悪する。繰り返しだった。

 透の存在が、自分の為に大切だった。

 こんなのは本当の愛情じゃない。自分の心の安らぎの為に、人を利用したいと考える、そんな人間だからふるい落とされたのだ。同じだと思っても、本当は同じじゃない。恵里子は、聡子は、こんな醜い感情を持たない。たとえそれが、醜い感情を持たないですむような幸運な環境に置かれていたからだとしても、自分を正当化している猾い万里亜より、遥かに正しくて清らかだ。

 最後は絶望に支配される。いつでもそうだ。そして強引に無に帰そうとする。

 そんな内面の葛藤とは全く別の次元で、万里亜は無邪気な子供を演じ、楽しむ振りをした。実際には、楽しいと感じることは、ほとんどなく、苦痛だけが与えられた。透の醸す安心感の中から、疎外されているという苦痛だけが。それでも、全く関係ないところで生きて行くよりは、どんなに恵まれている事だろう。

 透が笑いかけてくれるほんの一瞬だけ、頭の中のせめぎあいは、真っ白な幸福感に覆われるのだった。

「万里亜ちゃん、背が伸びたね。それになんか大人っぽくなって、キレイになったよ」

 恵里子が無邪気な笑みを投げかける。そう言う恵里子も、ふっくらしていた頬のあたりが、大人びた印象に変わっていた。

 成長期の一年は早い。万里亜も恵里子も、この一年ですっかり大人になった。

 ガリガリに痩せていた万里亜は、丸みを帯びた身体つきになり、胸も大人のように膨らんできた。逆に、太ってはいないがふっくらした印象だった恵里子は、年頃の娘らしく痩せて、華奢な身体つきになっていた。

「そういう恵里子ちゃんだって、キレイになったよ。色つきリップ、つけているでしょう」

 万里亜は透明なピンク色に濡れた恵里子の唇に、指をつけた。ペタっという感触と共に、指に淡い色がつく。

「えへへ、このリップ、学校で流行っているんだ。万里亜ちゃんの学校はどう?」

「うちの学校は半分くらいの子がお化粧しているよ。リップじゃなくて口紅」

「うそ。半分も? うちも四分の一くらいはそういう子もいるけど。それに学校終わるとトイレで化粧する子もいるよ」

「女の子ばっかりっていいね」

「よくないよ、全然。万里亜ちゃん、彼氏出来た?」

「出来ないよ。恵里子ちゃんは?」

「なんかちょっとだけつき合った事もあったけど、全然いい人いない」

「どこで知り合った人?」

「友達の紹介だよ。結構彼氏持ち多いから、彼氏の友達とか紹介してくれるんだ」

 恵里子はちょっと照れたように笑った。一年も会っていないと、何だか会話がすれ違ってしまう。いつの間にか、万里亜にはわからない世界に行ってしまった友達を前に、苦い喪失感を味わった。

「去年の秋、大学の学園祭で知り合った人はカッコ良かったんだけど、中学生だってバレちゃって」

 万里亜が黙っていると、恵里子は楽しそうに話しを続けた。

「年、嘘ついてたの?」

「高校二年って言ったんだけど、さすがにすぐバレた」

 あははと大きな声で笑う。

「そういう話、透さんとか聡子さんにもするの?」

「まさか、しないよー。怒られるもん」

「怒るの? 二人とも優しそうで、怒るところなんか想像出来ない」

「怒るよ。特に透さんなんかさ、リップもするなとかジジくさい事言うんだよ。信じられないよね」

 内面のドロドロした感情が、表に出て来そうになり、慌てて笑顔をつくった。

 怒られたり束縛されるのが羨ましいなんて、どうかしている。

 万里亜はリップも口紅もつけなかったが、もしつけていても、透は何も言わないだろう。恵里子を愛しているからダメだと言うのだ。いくら大事な娘の友達でも、他人の子ならリップをしていようとなんだろうと、気にならないに違いない。それをあからさまに知らずにすんでよかったと、万里亜は思った。これから先も、絶対色つきリップなどつけないと、その時決めた。つけなければ傷付く事もないからだ。

「今思うとさ、共学の方がよかったよ。周りはみんな頭いい子ばっかだから、それはやり易いんだけど」

「勉強難しい?」

 男の子の事を訊かれたくなくて、万里亜は故意に話題を逸らした。

「うん、難しい。でも面白いよ」

「そうか、いいな」

「公立はどうなの?」

「すごい簡単な事しかやらないよ。高校行けるかなって心配になるくらい」

「万里亜ちゃんは頭いいもん、大丈夫だよ。そうだ、高校からでも女子学院においでよ。万里亜ちゃんがいないと寂しいよ」

「ありがと。でも受からないよ」

「私が使っている教科書、コピーしてあげようか?」

「ホント?」

「うん、中間期末テストの問題もコピーしてあげるよ」

「大変じゃない?」

「大丈夫、おじいちゃんの家にコピー機あるもん」

「すごい。どうして?」

「印刷屋さんなんだって」

「おじいちゃんって、この別荘のオーナーのおじいちゃん?」

「違う。聡子さんの方のおじいちゃん」

「透さんの方のおじいちゃんは、大学の先生だよ」

「そっちもすごーい」

 この話をもっと聴きたかった。透に関する事は、何でもいいから聴きたかったのだ。しかし恵里子はすぐに話題を自分の興味に従って、戻してしまった。

「仲いい子も出来たんだけど、嫌な奴もいるんだ。女同士って陰湿なイジメがあるんだよ」

「共学だってあるよ。どこでもあるんじゃない?」

「それがね、昔みたいに当然虐められるだろうって子がいないじゃない? 山口さんみたいな。だから、ロシアンルーレットみたいに、誰が攻撃されるかわかんない怖さがあるんだ。私は今のところ大丈夫だけど」

 心持ち声をひそめたが、周りには誰もいない。恵里子は小学生の時のように透や聡子に甘えるそぶりを見せず、万里亜と二人きりで遊びたがった。だから、今も二人で恵里子の部屋に隠っていた。

 万里亜にとってそれは喜ばしい状況ではなかったが、そんな素振りをするわけにはいかない。恵里子は親に聴かれたくない男の子の話や、お化粧の話をしたかったのだ。呼んでもらったのだから、それに合わせてやらなければならないという義務感が生じていた。

「今日仲がいいと思っても、明日はシカトかもしれないんだよ。ずっと変わらなく仲がいいなんてこと、ないんだから。だから万里亜ちゃんが懐かしいよ」

「頭のいい人たちなのに、どうしてそんな意味のないシカトなんかするの?」

「ストレス溜まってるんだよ。勉強は厳しいし、テストだらけだし。だから発散する為に学校ではすごい優等生なのに、終わるとケバケバって子もいるよ」

「恵里子ちゃんの学校は平和で楽しいんだと思ってたよ」

「だいたいはね、楽しいよ。だけどいつつまんなくなるか、予想もつかない」

「みんなそのまま同じ高校に進むんでしょう?」

「そう、それが怖いよね。絶対先生とか親にわからないように、イジメぬかれていた子が、去年退学しちゃったんだよ」

「どんなイジメなの?」

「給食に虫が入っていたり、下駄箱に剃刀挟まれていたり、持ち物がなくなったり、水泳の時なんか、着替えがごっそりなくなったんだ。その子、帰れなくなって泣いてたけど、誰も声かけないの」

「それでどうしたの?」

「わかんない。すごくムカついたけど、そこで声をかけると今度は私がやられるんだよ。見ない振りするしかないでしょ。結局誰がやっているのか、全然わからなかった」

「頭がいいだけに、そういうところ、抜かりないのかもね」

「共学はイジメなんかないんでしょ?」

 万里亜は自分がされた不当な暴力の数々を、洗いざらい吐き出したい衝動に駆られた。しかし、思いとどまった。そんなみじめな環境にあると、透に知られたくない。

「暴走族みたいな人とかいるから、不良の間で喧嘩とかイジメとかあるよ」

「金八先生みたいな感じ?」

 万里亜はテレビを観ていなかったので、それがどういう意味なのかわからなかったが、曖昧に頷いておいた。

 その夜、恵里子がテレビを観て、聡子が風呂に入っている時、透と二人だけで話をする機会があった。

 身体中の血液が温水になったみたいに、暖かい心地よさに包まれて、気分が昂揚した。滅多にない貴重な時間を、大事に大事に使おうと、透の一挙手一投足を見守った。一つの言葉も聞き逃すまいとしていた万里亜の姿は、滑稽であったかもしれない。しかし透は気付かない振りをしてくれた。

「透パパ、星の王子様のヒントは何?」

 万里亜は思いきって訊いてみた。ずっと訊きたくて訊けなかったのだ。

「あ、読んだんだ」

「うん、もう二十回も三十回も読んだ」

「万里亜ちゃんは真面目だね。恵里子だったら勧めたって、読みやしないよ」

「違うよ、透パパのナゾナゾが気になっただけ」

「ナゾナゾ?」

 透は首をかしげた。自分が万里亜にどんな謎を投げかけたのか、全く覚えていない様子だった。

「星の王子様の良さがわかるまで、本は返さなくていいって言ったでしょう? あれはどういう意味だったの?」

「ああ」

 なるほどと納得した風で、表情に笑顔が戻った。

「どこがどういう風によかったの?」

「それは僕が万里亜ちゃんに聴いた事じゃないか」

「だってわからないんだもの」

「面白くなかった?」

「ううん、そんな事ないけど、星の王子様の何が、透パパに一番好きだと言わせたのか、そこのところが今一つわからないの」

 透は声を立てて笑った。

「いや、ご免ご免。万里亜ちゃんがそんなに真面目な性格だって知らなかったから」

 今度は万里亜が首をかしげる番だった。

「そんな深刻にとらえなくていいんだよ。ただ、何かが残ればいいなと思っただけなんだ」

「何かって?」

「それは人によって違う事だから、僕が押し付ける訳にはいかないよ」

「でも、私は透パパがいいと思ったところがどこなのか、知りたいんだもの」

 正直な気持ちが、何の衒いもなくスッと口にのぼった。

 不思議だった。あんなに一人でドロドロと考えをめぐらせていたのが嘘のように、透と話していると正直な気持ちが醜いと感じなかった。自然体で話をする事が出来る。相手の反応を確かめる事なく、自分の思った事を思った通りに口に出来るのだ。

「困ったな、読書感想文は子供の頃から苦手だったんだけど」

 万里亜の真剣なまなざしに、迂闊な事を答えられないと思ったのか、透は真面目な顔で考え込んだ。しかしすぐに挫折した。

「なんとなく、心暖まらない?」

「なんとなくなの?」

「ここがこうだからってハッキリ言えないのが、文学じゃないかな? 万里亜ちゃんは数学と国語はどっちが好きなの?」

「数学。きっぱりと答えが出るから」

 万里亜は透の言いたい事を察して、ちょっとふざけながら応えた。

「お嬢様はきっぱりした答えをお望みでしたか」

 透が苦笑した。

「うん」

 万里亜は困っている透を見て、楽しくなった。万里亜の為に真面目に考えてくれていると思うと、幸せだった。

 腕組みしてうーんと唸る透を見つめながら、本当は答えなんかどうでもいいと思った。聡子の事も、恵里子の事も、すっかり頭から追い出されていて、透が自分の為に存在しているかのような錯覚を憶えていた。

 幸せな時間は、長くは続かなかった。風呂から出て来た聡子の気配に、一気に現実に引き戻された。

 こちらに向かって歩いて来る聡子に見下ろされると、途端に卑屈な気持ちになって来て、聡子の視線を敵意であるかのように感じ始めた。そう思うのは、自分が聡子に敵意を抱いているからだとは、気がつかなかった。

「それについては、次にお会いするまでの宿題とさせていただけますか? お嬢様」

 透が丁寧な口調でふざけて言った。聡子が聴いていたので、それに合わせて受け答える事が出来なかった。万里亜は俯き加減に、頷いただけだった。それが精一杯だったのだ。

 透は万里亜の変化を気にとめることもなく、立ち上がった。姿を目で追いたいという欲求を抑えるのに、万里亜は全神経を集中しなければならなかった。

 どんなにそう思ってはいけないと自分を律しても、聡子がもう少しゆっくり戻ってくれたらよかったのにと、思わずにはいられなかった。

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