恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十二話「電話」

 別荘から戻って来ても、夏休み中は電車に乗って恵里子の家に遊びに行った。一緒に勉強するという名目だったが、ほとんどおしゃべりばかりしていた。

 恵里子が見せてくれた教科書のレベルは、万里亜の通う公立の中学校とは比べ物にならなかった。その上恵里子は、塾にも通っていた。

 自分が受験レベルの勉強を全くしていない事に気付き、万里亜は愕然とした。

 奢りがあった。自習で充分だ、そう思っていた。しかし見た事も聴いた事もない問題が、解けるはずはない。

 恵里子は元来面倒見の良い性格だった。悪く言えばお節介だ。

 勉強の進み具合やポイント、テストの順位などを事細かに教えてくれて、祖父のところでコピーして来たという大量の資料をくれた。

「これで勉強して、万里亜ちゃんも女子学院に来てね」

 恵里子は本気でそう望んでいるらしかった。

 万里亜にしても、ほんの小さな希望が生まれたのは確かだ。

 百合子は再婚後、一切実家には寄り付かなかった。たまに祖母が電話をかけても留守である事が多く、子供達は完全に見捨てられていた。だが、それは喜ばしい事だった。

 祖母は、子供達と養子縁組してからというもの、百合子並みの口うるささを発揮したが、体罰は行わなかった。祖母が厳しい箇所と、百合子が厳しかった箇所は、微妙に違っており、最初のうちこそ戸惑ったものの、最近ではすっかり慣れていた。祖母の要求の方が遥かに理に叶っており、受け入れ易かったからだ。

 祖母は自営業の多い地域に珍しく、教育熱心だった。自分自身が御茶ノ水女子大学を卒業しており、それを誇りに思っていたのだ。だから、勉強する時間を与えずに百点を取れといった矛盾した要求を出す百合子と違って、理路整然としていた。

 勉強する時間はふんだんに与えられ、点数よりも万里亜の知識欲を喜んだ。

 百合子が勉強する時間を与えなかったのは、今思えば嫉妬だった。

 再婚する前に訪ねて来た百合子は、「あの子のせいで大学も止めなければならなかった」と泣いていた。その屈折した思いは、万里亜に向けられた。そう考えれば、不当な虐待も許す事が出来た。

 母は不幸だったのだ。

 とにかく、百合子が全く音信不通であるならば、私立の高校へ進ませてもらえる可能性はあった。祖父母には金があったし、祖母は教育熱心だったのだ。

(もしかしたら本当に恵里子と同じ高校へ行けるかもしれない)

 希望はいつしか膨らんで、明るい未来の空想へと発展した。  この劣悪な環境を抜け出し、恵里子の級友となる。それはかつての権力を取り戻せる予感でもあったし、より透と近しい存在になる可能性でもあった。  しかしまだ、その事を祖父母には言えないでいた。成績がまるっきり足りなかったからだ。

 勉強するのは苦ではない。むしろ自力で未来をつかみ取る為の、唯一の道であるかのように感じられ、退屈に時間を潰すよりずっと楽しかった。

 くだらない文学小説など読むのは止め、私立受験の問題集をやる。勉強ばかりしている万里亜を、祖母は喜び、千絵は馬鹿にした。千絵には「お姉ちゃんはいい子ぶりっこだ」と散々非難されたが、それは自分が遊んでばかりいて姉と比較されるのが嫌だったからだ。

 祖母は塾に行けと言ったが、外出するのは危険だった。不良達はどこで待ち伏せしているかわからなかった。解説の多い参考書を何度か読めば、大抵困る事はない。塾に行く必要はあまり感じられなかった。

 恵里子には、まめに手紙を書いた。

 来年も別荘に呼んで欲しいという下心に、自分自身気付いていた為、自己嫌悪は最大級に膨れ上がっていた。けれども、一年に一度でも透と話をして、幸せな気分を味わいたいという贅沢な願いを、消し去る事は出来なかった。

 透が、次に会う時、と言ってくれたのが嬉しかった。それが心からの言葉でなくても構わない。心から万里亜に会いたいなどと、思ってくれるはずはないのだ。透にとって万里亜は、娘の友達の一人でしかない。それは取るに足りない存在であるということだ。

 それでも、年に一度一週間もの長い時間を一緒に過ごさせてもらえるのは、幸運な事だった。それは恵里子が変わらぬ友情を示してくれるお陰であり、娘とつき合わせたくないと思っているにも関わらず、万里亜の訪問を寛大に許してくれる聡子のお陰でもある。

 そう考えると、二人に対する感謝で心がいっぱいになる。そして、恵里子本人の話に本当はあまり興味を持っていない自分を責めたり、聡子を冷たい人だと感じている自分を責めたりしてみるのだった。

 指を組み合わせて祈るようなポーズで、万里亜は赦しを乞う。

 多くを望むから苦しいのだ。羨むから妬ましいのだ。そう自分を諌めると、本当になんて幸運なんだろうと思えて来て、心に平静が訪れる。

 二年生の夏休み以来、万里亜は常に、勉強するか祈っているか、どちらかだった。

 祈りはたびたび、千絵によって遮られた。

 最近千絵は姉を毛嫌いしている、というより、姉の優等生ぶりを毛嫌いしていた。祖母が姉を見習えと口うるさく言うのが堪え難かったのだ。それでも百合子の支配による恐怖時代より、ずっと幸せなのだということを、千絵は忘れているようだった。

 万里亜がどこにも出かけず、飛んで帰って来て勉強ばかりしているのは、祖母の機嫌を取る為ではなかったが、千絵にはそう映っていたらしい。

 万里亜も次第に、妹と心を通わせるのを、すっかり諦めた。妹よりも大事な事、自分自身よりも大事な人のことで、頭がいっぱいだった。

 一九八三年五月二十四日。

 運命を変えることになる一本の電話があった。

 よく晴れた陽射しの眩しい日だった。

 三年生は一学期の成績で受験する学校を決める事になっており、万里亜にとって中間テストは重大だった。けれどクラスメート達はまるで無頓着で、平然とカンニングばかりしていた。それを知りながら、教師も注意しないでいた。

 万里亜は苛立って、一日も早くこの環境から逃れたいと思っていた。

 外の陽射しが眩しすぎるのか、教室が暗すぎるのか。窓の外はまるで別世界だった。

 テストの週は早く家に帰れる。万里亜は一刻も早く、薄暗い陰うつな教室から出て行きたかった。

 どの科目も、テストは簡単すぎて話にならなかったが、点数がいいからといって、五をもらえるとは限らない。教師の独断や贔屓、力あるPTAの圧力などで、成績は操作されるのだ。

 頭の悪い子を、どこかの高校に無理矢理押し込めなくてはならない学校側は、点数の取れない子には、嘆願という形を勧めていた。つまり、おたくしか受けませんよという約束をして、入学試験なしに入れてもらうという方法だ。その場合、頭の悪い子に内申点をやらなければならない。

 中学までの成績は、相対評価だった。五は何人、四は何人と決まっている。出来ない子に点をあげるということは、出来る子の点が減らされるということなのだ。

 理不尽だったが、不当な扱いは今に始まった事ではない。今さら怒りも起こらなかった。

 電話が鳴ったのは、夕方だった。

 万里亜は夕飯の仕度をしているところだった。クリームシチューは、千絵の大好物で、カレーコロッケは、祖父の喜ぶメニューだった。

 まだ誰も帰って来ておらず、南のベランダに面したダイニングルームは、穏やかな空気に包まれていた。もう終わりかけのパンジーが、小さな花を咲かせているベランダから、ときおりささやかな風が入って来た。

 騒音にはもう慣れてしまい、明治通りからの車の爆音は、耳を素通りした。  電話の音は異質だった。普段あまり電話が鳴らないせいだ。仕事関係は事務所にかかって来て、自宅の電話は静かなものだった。

「はい、青木でございます」

「あの……岡田と申しますが……」

 その声が聡子のものであるとは、気がつかなかった。言い淀む、という表現がぴったりな口調だった。

 誰にかかってきた電話なのかわからないので、相手が言葉を繋ぐのを黙って待った。

「……万里亜さんは、いらっしゃいますか?」

 誰かから自分に電話があるなどとは、思ってもみない事だったので、びっくりして一瞬返事が出来なかった。

「……わたくしですが」

 そう答えながら、岡田というのが恵里子の姓だったと気付いた。普段姓で呼ぶ事がないので、意識していなかったのだ。そう気付くと、それは確かに聡子の声であった。

「聡子さん?」

 相手が尚も沈黙を守っているので、万里亜が問うた。

「万里亜ちゃん」

 泣いている気配が伝わってきて、万里亜を不安にさせた。一体何の用事で聡子がわざわざ電話をかけて来るのか。

「聡子さん?」

 もう一度問いかけた。どうしたのかとは、訊けなかった。

 何か話そうとすると、声を詰まらせ、再び押し殺した泣き声が聴こえて来る。何があったのか、不吉な予感が胸を覆って、落ち着かない。早く用件を言って、と叫びたかった。

 一点の曇りもなく完璧な淑女であり、万里亜を見下していたはずの聡子は、今や保護を要する頼りない幼女のようだ。その雰囲気は、たとえ何が起こったのであっても、庇ってやらねばならないと思わせた。

「大丈夫ですか? しっかりして下さい」

 励ます言葉は無駄だとわかっていた。けれども他に何を言えばよいのだろう。

「……死んでしまったの」

 やっとの思いでそれだけ言うと、聡子は大きな声をあげて泣いた。聴き取りにくい咽ぶような声で、確かにそう聴こえたが、聴き違いだとしか思えない。

「え?」

 何かペットでも飼っていただろうか、頭の中で恵里子の家の様子を反芻した。けれど岡田家に生きている者は、恵里子と、聡子と、そして透しか思い出せない。

 祖父母だろうか。だとしたら万里亜に電話して来るだろうか。では誰が?

 誰が、とはどうしても訊けなかった。聡子は訳のわからない事を口走るばかりで、要領を得なかった。

「聡子さん、しっかりして。今から行きましょうか?」

 万里亜の言葉が聴こえているのかいないのか、何故万里亜に電話をかけてきたのか、何もわからないまま、聡子をなだめて電話を切った。ようやく訊き出せたのは、明日が通夜だという事、そしてその会場の名前だけだった。

 昨日聴いた会場の電話番号を調べ、場所を調べ、喪服を着て、という冷静な作業。何故何も感じずにそれが出来るのか、わからない。喪服を着るということは、誰かの死を頭で認めているという事だ。

 近くのコンビニで御霊前の袋を買い、祖母の財布から一万円抜き取る。そうしたことに考えが及ぶ冷静な自分に、だんだん嫌悪を感じ始めた。

 亀戸の駅までは十五分足らずだった。いつもそこから電車に乗り、恵里子の家に行く。だが今日は行き先が違っていた。

 電車を一度乗り換え、バスに乗り継いで、万里亜は会場へ到着した。

 黒い服を着た人がたくさんいる。いくつかある会場の中から、岡田という文字を見つけ、急いだ。急に人が死んだ実感が湧いて来て、心臓が早鐘のように打ち始めた。

 受付には知らない人が大勢いた。会場は広く、花に埋め尽くされた祭壇には、棺が設えてある。それを見た途端、万里亜は足が震え始めた。

 本当に、死んでしまったのか。

 一歩一歩祭壇に近付き、棺の中を覗き込む。

 不作法だったかもしれない。だが、周りは全く見えていなかった。

 そこに横たわるのは確かに死者だ。眠っているのではない。死した人間の顔だった。化粧は施されていたものの、水気のない皮膚は、全くの別人だった。

「恵里子……」

 万里亜はつぶやき、突然洪水のように込み上げる悲しみと戦った。今初めて、恵里子が死んでしまったのだと、本当にもう目覚めないのだと、はっきり認識したのだった。

 涙がとめどなく溢れて来て、胸に痛みが走った。

 謂れのない罪悪感が万里亜を支配した。

「恵里子ちゃん……ごめんね、ごめんね、恵里子ちゃん」

 口の中のつぶやきは、誰にも聴こえなかった。

 何故「ごめんね」なのか自分でもわからなかった。

 信じられない、信じたくない、間違いだと思いたい、そういった曖昧な逃げは、冷たくなった恵里子を前に、到底通用しなかった。

 もう二度と無邪気な笑みを見せてくれない。一緒の高校へ通いたいと言ってくれない。一緒に勉強しようとも言ってくれないのだ。この時初めて、恵里子が万里亜にとって、たった一人の友だったことを思い知った。

 罪悪感が急速に膨らんだ。聡子の言葉を聴いた瞬間、死んでしまったのは恵里子か透かどっちなのだと心が急き、そして透であって欲しくないと願ったのも、無意識だが否定出来ない事実であったからだ。

 身内だけが会場に泊まって、夜通し恵里子のそばについていてやるのだと聴いた。万里亜は知らない親戚の女性に、残りたいと申し出た。

 聡子は誰とも話が出来る様子ではなかった。泣き切ったあとの放心状態で、終始、透がいたわりを見せていた。その透も、泣き腫らしたと思われる憔悴しきった顔をしていて、目の焦点はうつろだった。

 多くの親戚達が控え室で飲み食いし、泊まって行く人たちは眠る準備をしていた。

 万里亜は親戚の女性に伴われ、一時控え室に入ったが、何も食べずにすぐ出て来た。本当はお酌をしたり、片づけをしたりというこまごました手伝いをすべきなのかもしれないが、恵里子の死と全く関係ない話で笑いさざめく親戚の男性達を、腹が立って見ていられなかった。その場には、一秒でもいたくなかった。

 会場は煌々と明かりがついており、恵里子の棺のそばには聡子が座っていた。透は雑務処理に追われており、悲しむ暇もなかった。

「万里亜ちゃん」

 真っ赤な目をした聡子が、近付いた人陰に顔をあげた。

「私も今晩、ここにいさせて下さい」

「ありがとう」

 言葉は続かず、また涙をこぼした。万里亜は隣に座って、聡子の背中を優しくさすった。

「事故か自殺かわからないと言うの」

 聡子は声を詰まらせた。

「自殺!?」

 思わず声にしてしまい、後悔した。聡子を傷つけはしなかったと、慎重に口を閉ざす。

「恵里子が自殺なんてするはずない、そう思うでしょう」

「はい」

「何か知らない? 手紙をやり取りしていたでしょう? その手紙、見せて貰えない?」

 聡子は身を乗り出して、万里亜の両腕を掴んだ。

「はい、今度持って来ます」

「何か悩んでいた様子はあったと思う?」

 自殺ではないと口では言いながら、聡子は恐れていた。もしかしたら本当に自殺だったのではないか、それを気付いてやれなかったから死んでしまったのではないか。

 万里亜は学校でのイジメの話を思い出した。だが手紙には、恵里子がそんな目にあっているとは書いていなかった。言っても余計な心配をさせるだけだ。

「そんな様子は全然……」

「あの子は万里亜ちゃんのことを一番信頼していたと思うの。だから、何かあったら万里亜ちゃんにだけは話しているだろうと……」

 言葉は時折、涙に中断される。

「学校で、階段から落ちたと言うのよ」

「そんな……」

「あの子は運動神経がよかったのよ。階段から落ちるなんて……」

「誰かそばにいた人は?」

「わからないわ」

 一瞬、誰かに突き落とされたのではないか、という考えが浮かんだ。たとえば殺すつもりでなくても、ふざけていて押す事はある。

「恵里子の叫び声を聴いて、何人かの生徒が駆け付けたという話なんだけど、どこか曖昧なのよ」

「自殺だったら叫ばないわ」

「そうよね」

「恵里子は私に学校の教科書を見せてくれて、同じ高校に通おうって言ってくれたのに、自殺なんかするはずない」

 そこまで言い切ると、万里亜も胸が詰まって、声をあげて泣いた。

 結局、何故死んだのかを考え倦ねてみても、恵里子が戻る訳ではない。虚しいだけだ。けれど、どうしてこんな事になってしまったのか、悔しくて悲しくて、考えずにはいられないのだった。

 透とは言葉をかわさなかった。目があうと弱々しい笑みを見せる。その姿が胸を切り裂いた。堂々とした体格が、ひとまわり小さくなったように感じられた。一夜にして頬もこけてしまった。

 恵里子は一人娘だった。

 羨んだから、恵里子は死んでしまったのだろうか。何気なく思い付いたこの考えは、振払っても振払っても、万里亜にまとわりついて離れない。

(恵里子になりたいと何度も思った。けれど、恵里子になり変わりたいと思った訳じゃない)

 翌日、別れ花が最後のお別れとなった。あとはもう写真でしか恵里子を偲ぶ事は出来ない。

 小さな骨になってしまった恵里子は、信じられないほど小さい壺の中に閉じ込められた。白い布で包まれた壺の入った箱は、聡子が抱き締めるように持っていた。

「あの子は誰?」

 親戚の一人が透に、無遠慮に訊いた。通夜にも参加し、骨上げにまでしゃしゃり出ている少女を、訝しんでのことだ。

「恵里子と姉妹のように仲良くしてくれていた子です」

「ふーん」

 中年男性の不躾な視線は、息が詰まりそうだった。あとでそれが、聡子の姉の夫だと聴いた。

 聡子の姉は、やはりキリスト教の洗礼を受けており、沈みこむ聡子に、何故恵里子に洗礼を受けさせておかなかったかと責め立てていた。葬儀が仏教式であるのが気に入らないらしかった。

 その後バスで霊園に着くまでの間、聡子の姉はずっと文句を言い続けていた。親戚達は、万里亜には誰がどういう関係だか全くわからなかったが、悲しんでいる様子はこれっぽっちも見られず、万里亜にも好奇の目を向けた。万里亜はずっと黙って俯いていた。

 学校の友達が何人も来たが、みんな焼香して帰って行った。万里亜がここまで首を突っ込んでいいものかどうか、作法上の事はわからなかった。もしかしたら、早々に退席するべきだったのかもしれない。しかし、少なくともここにいる親戚たちよりも、万里亜の方が恵里子と親しかったし、悲しんでもいた。  精進落しは辞退したかったが、そんな暇もなくバスで連れて行かれた。最後に岡田家まで行って設えられた祭壇に焼香した。

 だんだん人が減って行き、万里亜も席を立とうとしたが、聡子に引き止められた。

 透が忙しく客をもてなし、万里亜はお茶の用意を手伝った。聡子はぐったりしていて、立ち上がる気力もなかった。

 親戚達の無神経さは、ますます癇に触った。だが万里亜が口出しするべきことではない。

 どのくらい親しかったのか、根掘り葉掘り訊き出そうとする人もいた。何も答えられない。考えてみれば、それほど親しくしていたと言えるだろうか? 年に一度、一週間だけ家族の仲間入りさせてもらっていただけだ。

 万里亜は結局最後まで残っていた。

 最後の客が帰ってしまうと、蒸し暑いはずの家の中は寒々しく感じられた。

「学校を二日も休ませてしまって申し訳なかったね」

 透に声をかけられて、万里亜は首を横に振った。

「学校の先生は事故だと言うんだ。でも何人かの友達が自殺かもしれないと囁きあっていて、それで聡子さんは参ってしまって。警察にも色々事情を訊かれたりして、疲れて切っていて、万里亜ちゃんが来てくれてありがたかったよ」

「恵里子ちゃんはどうして事故なんかにあったの?」

「三階の踊り場から転落したと言うんだ」

「でも学校の階段は、普通回り階段でしょう」

「そう。だから手すりを乗り越えなければ、落ちたりしないはずなんだ」

 透は悔しそうに唇を噛んだ。涙を堪えているのだろう。心なしか全身が震えていた。

「透パパ……」

 もう夕方になっていた。それほど暗くなってはいなかったが、透が駅まで送ってくれて、二人で歩いているということが、万里亜の心を弾ませた。

 こんな時に、なんて不謹慎なことを考えるのだろうと、自分が恐ろしくなる。肩が触れるか触れないかというほどの近くに、透が歩いていると思うと、恵里子の事をすっかり忘れてしまいそうになる。なんて自分勝手で冷たい人間なのだろう。そんな自分にマリアという名がついているなんて、皮肉としか思えなかった。

 十分の道のりはあっという間だった。

 透が、持っていた香典返しの袋を万里亜に手渡した。いらなかったが素直に受け取り、透が買ってくれた切符を右手に持った。

「また遊びに来てくれるね。時々は聡子さんの様子を見に来てやってくれ」

「はい」

「気をつけて」

「はい」

 別れ難い思いがしたが、透の視線を背中に感じながら、振り返らずに改札をくぐった。

 電車に揺られながら、現実的なことが頭に次々浮かんで来て、嫌気がさした。

 恵里子がいなくなってしまった今、もう別荘で透と一緒に過ごす事はないのだ。これから先ずっと、もしかしたらこれきり、透には会えないのかもしれない。

 恵里子の死に顔を見たのが、何年も昔であるかのように感じられる。それが今日あった事とは、どうしても思えなかった。

 涙が込み上げて来た。それが何のための涙なのか、ハッキリとはわからなかった。

 恵里子の死か、透に会えなくなった絶望か。それとも……?

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