恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十三話「転機

 それからというもの、勉強に対する熱意は全く失われた。

 恵里子と同じ高校に行けば、もっと透と近しくなれる、そう思って勉強していたのだ。恵里子がいない今となっては、勉強など無意味でしかなかった。

 夏休みに入って、万里亜は何度も聡子を訪ねた。

 手紙を見せると約束していたし、恵里子に焼香もしたかった。

 聡子は、恵里子が生きていた時以上に、喜んで迎えてくれた。

 手紙を一つ一つ見ながら、恵里子の思い出を語るのが嬉しかったのだろうか。手紙は六十三通もあった。その殆どは他愛のないものだったが、聡子は一語一語、噛み締めるように読んでいた。

 訪ねる時はいつも、花と菓子を買っていった。

 花は仏前用ではなく、恵里子の好きだった百合を買った。香が強いので嫌う人もいるが、恵里子は庭にも百合の球根を植えていた。聡子もそれを知っていて、白い百合の花を小さな仏壇に欠かさず供えていた。

 菓子は、恵里子が好んだマドレーヌなどの焼き菓子を買った。果物はマスカットが一番好きだった。そういった好みをよく知っている万里亜と、恵里子の思い出を話すのが、聡子の楽しみとなっていた。

 聡子は飽きもせず、何度も何度も手紙を読んで、同じ事を繰り返し訊いた。その度に万里亜は、初めて聴いたような顔をして、答えた。

 透には会えなかった。

 門限の七時は厳しく言い渡されていて、破れば外出禁止と小遣い削減が待っている。七時までに帰るには、六時に岡田家を出なければならない。

 聡子はいつも夕飯を誘ってくれた。しかし万里亜は、毎回断らなくてはならなかった。

 六時に透が帰っているはずもなく、会いたいと思いながら、いつも会えずにいた。

 土日は祖父母が仕事を休んでいたので、出かけられなかった。

 夏休みももうすぐ終わろうという最後の土曜日、祖母が夕食後の片づけをしている時、電話が鳴った。

 あの聡子からの電話以来、万里亜は電話の音に敏感になっていた。ビクッと身体が震え、恐怖心が起こるのだ。しかし祖父は電話に出ない人だった。

 祖母は食器を洗っている最中で、電話を取る事が出来ない。必然的に、万里亜が取るしかなかった。心臓が不整脈のように、不規則に波打った。

「はい、青木でございます」

「岡田と申しますが」

 それは、思いもかけず透の穏やかな声音だった。

「透パパ!?」

「万里亜ちゃん? こんばんは。元気かな」

「うん、透パパは?」

「元気だよ。まめに聡子さんを訪ねてくれてありがとう」

「透パパに会えなくて残念だったけど」

「そうだね」

 透が何故電話をかけてきたのか、考える暇もなく、喜びだけに包まれて、万里亜は浮き立っていた。

「おじいさん、いるかな?」

「え? おじいちゃん? いるけど」

「ちょっと代わって」

 不思議に思いながらも、テレビを観ていた祖父を呼びに行った。

「おじいちゃん、いつも別荘に呼んでくれる岡田さんのお父さんから電話なんだけど」

「俺にか?」

「うん、代わってくれって」

「何だ?」

「わかんないけど、いつもお世話になっている人だから、丁寧にね」

 祖父は不信がりながらも、立ち上がった。

 何を話しているのか、ものすごく気になったが、祖父の声しか聴こえない。何を話しているのか、全くわからなかった。

「はい、わかりました。では明日お待ちしています」

 やっと祖父が受話器を耳から離した。電話を切るのが待切れず、もどかしかった。

「何? 何だったの?」

「いや、なんだか折り入ってお願いがあるから、明日伺ってもいいかと訊かれたんだが」

「お願い?」

「何だかわからん」

「明日、来るの? ここに?」

「うん、そう言ってたぞ」

「何時頃?」

「一時と言ってた」

「それじゃ、お昼御飯は食べて来るかな」

「そりゃそうだろう」

「何だろう? おじいちゃん」

「わからん」

 洗いものを済ませた祖母が話に加わった。

「岡田さんってこの前お嬢さんが亡くなった方でしょう?」

「うん、恵里子ちゃん」

「万里亜の親友だった子ね」

「うん」

「何かしら、気になるわね」

「うん」

 落ち着かない気分だった。祖父母はさして興味なさそうに、すぐに話題を変えてしまった。

 家中大掃除したかったが、土曜となると、祖父はいつでも夜更かしする。テレビを観ている祖父の横で、ガーガーと掃除機を振り回す訳にはいかなかった。それにソワソワしているのを、気付かれたくはない。

 早く眠って早く起きようと、その日は九時にふとんに潜り込んだ。

 千絵はリビングで祖父と洋画を観ていた。

 襖の隙間から、明かりが漏れているのが気になって、万里亜はタオルケットを頭から被った。開けたままの窓からは、微風すら入って来ない、蒸し暑い日だった。

 眠りは浅かった。うつらうつらしては目覚め、またまどろみ、再び覚醒した。

 何度も何度も夢を見て、目覚める度に忘れた。

 けたたましい鳥のさえずりは、まだ暗いうちから聴こえる。鳥が鳴き始めると、見る間に空は白んで来る。

 万里亜は起き上がって、隣で寝息をたてる千絵の幼い顔を見つめた。

 今年から中学生になった千絵は、下町の人間関係に上手く溶け込んでおり、虐められたり、不良に目をつけられたりする事はなかった。安心する気持ちと共に、千絵を憎らしく思う気持ちが入り交じって、万里亜を困惑させた。順応性のよい千絵が羨ましいからなのか、自分の言い付けを悉く無視するのが腹立たしいからなのか、あるいはその両方なのか、ちらりと考えたが、すぐに頭の中から追い払った。

 顔を洗って歯を磨き、万里亜は雑巾をしぼった。玄関からリビング、ダイニングに続く床を拭く為だ。

 音を立てないように静かに、洗剤をつけない濡れ雑巾で拭いて行く。普段目が届かない巾木の上には、どっさり埃が積もっていた。

 床掃除は千絵の分担だったが、おそらくやった事はないか、やった振りをしていい加減にこなしていたのだろう。雑巾はすぐに真っ黒になった。  下駄箱の上は万里亜が毎日拭いていたので、それほど汚れていなかった。窓は相当汚れていた。自動車の排気ガスのせいだろう。煤のように黒々とした汚れが、雑巾をダメにしてしまう。何枚も雑巾を替えながら、だんだん心臓がドキドキし始めた。

 透は一体何の話でここへやってくるのだろう。

 水拭きを終えると、木目の床にワックスもかけた。

 ベランダで祖母が育てていた矢車草が、まだ辛うじて咲いていた。スイートピーもいくつか花をつけている。それらを切り花にして小さな花瓶に活けた。  まだ七時だった。

 日曜の朝は遅い。十時を過ぎなければ誰も起きて来ない。だから日曜は、朝食の仕度をしなくていいことになっていた。

 だが万里亜はじっとしていられず、レモンのタルトをつくり始めた。

 バターを賽の目に切って小麦粉と混ぜて行く。タルトはマドレーヌと並んで、恵里子の好物だった。

 出来上がった生地を冷蔵庫で寝かしている間、また手持ち無沙汰になってしまい、綺麗に手を洗って、星の王子様を読んだ。

(大切なものは目に見えないと言うけれど、私の大切なものはちゃんと見える。私が一番大切だと思うのは、透パパだ)

 祖父母が起きて来て、せっかく綺麗に片付けたダイニングを、朝食で散らかした。千絵もそれに加わり、まるで今日来客があることなど忘れたかのように、のんびりとだらしなく時を過ごしていた。

 万里亜は急くような気持ちで、早く三人がもうすぐ人が来るのだということに、気付いてくれないかと待ったが、一向にその気配はなかった。ピカピカになった床にも、リビングに活けられた花にも、誰も気付かない。

 その癖、タルトの匂いにだけはすぐに気付いた。

「何でお菓子なんかつくってるの?」

 千絵が興味を示しているのは、あくまでも菓子に対してであって、菓子を焼かれている理由にではない。

「今日、恵里子ちゃんのお父さんが来るんだよ。だから散らかさないでよ」

「散らかしてないじゃん」

「パン屑落とさないで」

「落としてないでしょ」

 それ以上何か言うと喧嘩になるとわかっていたので、万里亜は口を噤んだ。

「いつ落としたって言うのよ」

 だが千絵は引き下がらなかった。

「ごめんね、落としてないよね」

 万里亜は面倒になってそう答えた。

「何でそういう厭味な言い方するわけ? いい子ぶりっこの嫌なやつ」

 挑発に乗らない為に、一呼吸置いた。

「……掃除機かけるから」

 千絵の横をすり抜け、廊下に掃除機を取りに出る。

「何よ、感じ悪い」

 背中に聴こえる妹の声を聴き流し、掃除機をコンセントに繋いだ。

「ああ、そう言えば岡田さんが来るんだったわね」

 祖母がやっと思い出し、食卓を片付け始めた。

「カリカリしちゃってさ、馬鹿みたい」

 千絵が、まるで万里亜を憎んでいるように、次々刺のある言葉を吐き続ける。憎まれるような何をしたと言うのだろう。何もしていないつもりでも、人を怒らせてしまうのは、悪魔の仕業かもしれない。急に百合子に言われ続けたことを思い出し、苦笑した。

 百合子は自分からは全く連絡をしてこなかったが、時々祖母が電話で子供達の行状を愚痴ると、最高に不機嫌な電話がかかってくる。時々は、折檻する為だけに戻って来た。

 幼い頃、祖母は味方だと思っていた。しかし今、百合子に折檻させる為に、子供達の事を告げ口しているのは祖母に他ならないのだった。

 透と聡子が青木家に到着したのは、一時十分前だった。

 玄関を開けた万里亜は、それまで聡子の存在を、全く頭に入れていなかったことに気付かされた。

「こんにちは、万里亜ちゃん」

 聡子が微笑みながら、手みやげの菓子を万里亜に渡した。口元が寂しそうだった。

 右手で玄関の扉を押さえ、左手は聡子の背中に添えた透を目にして、万里亜は苦い胸の痛みを感じた。

 リビングソファに、祖父母と、岡田夫妻が向き合って座り、千絵は遊びに出かけた。万里亜は冷やしておいたレモンタルトを、一番お気に入りのウエッジウッドに盛り、暖かい紅茶を容れた。

 リビングに、万里亜の座るスペースはなかったので、お茶を出してすぐに、ダイニングの方へ退いた。しかし、意識はリビングに集中していて、気もそぞろだった。

 長い沈黙を破って、祖父が口を開いた。

「それで、お話というのは?」

「……はい実は……御存じの通り私共は春に一人娘を失っております。万里亜ちゃんは娘と昔から一番仲良くしてくれていました」

 何かをはぐらかすように、端切れの悪い口調で、透は口を開いた。いつもの透らしからぬ自信のない弱々しさが感じられ、万里亜の不安はますます高まった。

「単刀直入に申しますと、私共は万里亜ちゃんを養女に迎えられないかと、御相談に参った次第なのです」

 語尾には力がこもっていた。

 万里亜は対面式のキッチンでヘナヘナと座り込んだ。キッチンの内側でしゃがみ込んだ万里亜の姿は、リビングから隠された。

 全身の力が抜けた。

 今、透は何と言った? 養女?

 意味を実感として飲み込めるまでに、長い時間がかかった。リビングで大人達も、万里亜と同じように、沈黙していた。

「もちろん、万里亜ちゃんの気持ちを一番大切に考えていますので、万里亜ちゃんがいいと言ってくれたらという話ですが。万里亜ちゃんに申し出る許可をいただけないでしょうか」

 透のこういった物言いが、万里亜は好きだった。万里亜を一人の人間として、尊重してくれる。子供だからといって、大人の勝手にしていいとは考えていない。

 動機が高まった。

 今すぐ飛び出して行って、透パパのところへ行くと、宣言したかった。しかし、それが祖父母を傷つける行為だと、知っていた。

 祖父はともかく、祖母は子供達を養子にするのに、最初から反対だった。やっと自分の時間を自分の為に使える年齢になったというのに、なぜ今から子育ての苦労を繰り返さなければならないのだと、ヒステリックに叫んでいるのを、かつて聴いた。悲しくはなかった。

 祖母であった時には優しい面だけが見えたが、養子になってからは、真実を見せつけられた。

 育てる義理もない子を押し付けられて、家は狭くなり、お金は余分にかかり、その上子供達は思ったように動かない。祖母は苛立ち、不満が言葉の端々に、刺となって現れた。

 思い出したくもない男の子供であれば、尚更顔も見たくないだろう。父親の事については、あの、百合子が訪ねて来た夜以来、話題に上った事はないし、何も知らない。だが、歓迎されない人物であるというのだけは、確かに、心に刻まれていた。

 内心では、万里亜を厄介払いしたいと考えているかもしれない。

 そうであったとしても、万里亜の方から喜んで出て行きたいいう素振りは出来なかった。絶対に気を悪くするだろうし、「育ててやった恩も忘れてなんて薄情な子だろう」と言われるに決まっている。

 百合子の言葉が呪いのように蘇る。

「万里亜。その名前に似つかわしくない子。反省も、感謝も出来ない子」

 その通りではないか。産んでくれた母親が去っても、悲しいと感じなかったし、育ててくれた祖父母を、簡単に見捨てようとしている。

 そして、何度望んだ事だろう。岡田家の娘だったらと。

(私は今、かつてない喜びに満たされている。恵里子が死んで間もないというのに、何故自分だけが幸せな気持ちになれるの?)

 重苦しい沈黙は、裁きの時を待つ法廷のような張り詰めた空気を醸し出した。冷房がやけに効き過ぎていて、床の冷たさを意識した途端、急に鳥肌が立った。

「急に……そんな事を言われましても……」

 やっと、状況を飲みこんだ祖母が口を開いた。万里亜はキッチンに隠れたまま、指を組み合わせて目を閉じた。

「ええ、失礼は重々承知しております」

 透が答えた。

「私共はあの子の親から、一時的に預かっているだけですし……」

 祖母は口籠った。

「でも」

 ずっと黙っていた聡子が口を挟んだ。

「万里亜ちゃんの御両親は離婚されたと聴きました。おじいさまおばあさまの養女になっていると……」

 その事を他人に話していると、祖父母に知られたくなかった。今、祖母がどんな顔をしているだろうと考えると、怖かった。それは怒った百合子の、般若のような表情と重なった。

「聡子」

 透が聡子の言葉を途中で制した。祖母は黙ってしまった。

「今すぐにでなくても結構です。今日は、その事で万里亜ちゃんと話し合いたいと思っている事を、お伝えしたかったのです」

 気まずい空気が流れているのが、見えていなくてもわかった。

「万里亜、こっちへ来なさい」

 祖父に呼ばれて、恐る恐る立ち上がった。

 透と聡子はキッチンに背を向けており、表情は見えなかった。祖母が怒っているのがわかった。祖父は、無表情だった。

 万里亜はそろそろとキッチンをまわって、リビングに入った。

 座る椅子がないので、立っていた。

「聴こえていたのだろう。お前の気持ちはどうなんだ」

 祖父が、感情のわからない平たんな声で聴いた。

「そんな、今すぐでなくても……」

 聡子が言いかけた。

「私は……」

 正直な気持ちは、すっかり顔に出ていた。けれど言葉にしていいかどうかは、また別問題だった。ここで喜びを露にしたら、祖父母の面子が立たない。

「考えさせて下さい」

 内面の葛藤は見せず、しっかりした優等生を演じるのには慣れていた。だが、透の前では素直な自分でいたかった。つくった笑みを返しながら、焦燥感が募って来て、腹の奥がむず痒いような不快さを味わった。

 喜びでいっぱいの本心、百合子が邪魔だてするのではないかという不安、祖父母の機嫌を損ねて、反対されたら大変だという計算、透に対する感謝、好きではなかった筈の万里亜を引き取りたいとまで思いつめた聡子への哀れみ、そして百合子のいう通りに成長している自分への嫌悪、ありとあらゆる感情がごちゃ混ぜに駆け巡って、それらをひた隠すのに、全神経を使わねばならなかった。

 しかし一方で万里亜は、完璧な幸福に包まれた自分の未来を、すでに思い描いてもいた。

 百合子は万里亜を厄病神と呼んだ。手放したいと思っているはずだ。

 祖母は子供を引き取りたくなかった。手順さえ間違えなければ、万里亜を快く解放してくれるはずだ。

 祖父は、万里亜のしたいようにさせてくれるはずだ。

(大丈夫だ。とうとう私は、一番大切なものを、この手に、入れる事が出来る)

 聡子は、恵里子を失った悲しみで、今は気が動転しているだけで、冷静になれば万里亜を養女にするなどという考えは捨てるだろう。気が変わらぬうちに、手早く事を運ぶには、まず祖母の面子を保ってやる事だ。

「ずる賢い子」

 百合子が責める。

 だが何とでも言うがいい。もはや百合子は自分に、何の手出しも出来ない。自分の未来を自分で切り開いて、何が悪い。誰にも邪魔はさせない。それが罪だというのなら、いつか罰は受けよう。けれどそれは今じゃない。

 万里亜の心に強い意志が生まれた。それは、今までに一度も意識した事がない種類のものだった。

第十四話「薔薇の咲く頃」 このページのトップへ
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