恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十六話「恩」

 伊豆高原の別荘にやって来たのは久しぶりだった。電車で来たのは、これが初めてだ。駅から比較的近いので、電車でもそんなに苦にならない。

 こうして桜の開く季節、駅からの桜並木を時間をかけて歩いて、のんびりした気分を味わうのも悪くない。

 平日だったので、人はまばらだった。

 昨年の冬、透は銀行を退職した。五十を過ぎると出向を言い渡されることが多い銀行では、多くの管理職が五十五で定年する。しかし透は、まだ定年前であった。

 本来ならばあと数年勤めることが出来たが、秋の健康診断で胃の精密検査が要され、大学病院で胃癌が発見された為、早期退社したのである。胃癌の治療で長期に渡って会社を休むのならば、退職した方が迷惑をかけずに済むと判断したのだった。元来責任感の強い性格だった。

 胃を半分以上切除してしまうと、最初のうちは絶食である。鎖骨の下の辺りに針を刺し、高カロリー輸液を点滴注入しながら回復を待つのである。その姿はあまりに痛々しく、万里亜の心を切り裂いた。

 いくら点滴をしていても、数週間絶食していればやつれても来る。そのあと口にできるのは、流動食だけだ。それもすでに食の細くなった身には、一口の粥さえ持て余してしまう。

 透は、万里亜の所属する大学病院に入院することになった。放射線科の教授が、消化器内科の教授宛に、紹介状を書いてくれた。それがあれば何か変わるというわけではないが、たとえ些細な安心でも、微かな希望を得るためなら、どんな事でもしたかった。

 胃癌は早期発見されれば殆ど問題ないと言われていたが、心配で心配で仕事も手につかない。病院を休みたいと思って教授に相談したが、当然反対を受けた。

 透も、万里亜が仕事を辞めようとしているのを察していた。

「大袈裟だな、大丈夫だよ。せっかく苦労して医者になったのに、病院を辞めるなんて勿体無いよ」

 透は万里亜の杞憂を笑い飛ばした。

「ここを辞めたからって、医者を辞める訳じゃないんだから、別にいいじゃない」

「そんな事を言って、病院を辞めてしまったら、いい出会いもなくなってしまうじゃないか。それとももう決めた人がいるのか?」

「やだな、そんなのいるわけないでしょ。私、誰とも結婚しないって、昔言わなかった?」

「それは子供の頃の話だろう? 僕に遠慮して結婚出来ないと思っているんじゃないだろうね?」

「まさか、何を遠慮するの?」

「万里亜は責任感の強い子だったから、心配だよ」

「そうじゃないよ、透パパ。私、全然モテないの。だから結婚なんか出来ないんだよ。だって彼氏いない歴二十八年なんだから」

「そんなこと自慢するなよ」

「だって」

「こんなに可愛く成長したのに、最近の若い男は見る目がないな」

 透が万里亜の頭に手を置いて、軽く撫でた。

「えへへ」

 透が子供の時のように頭を撫でてくれるのが嬉しかった。

「だから透パパ、誰も貰ってくれない可哀想な娘を、これからも養ってね」

「会社を辞めた僕より、万里亜の方がよほど稼いでいるじゃないか。せめて、僕が元気なうちに、早く嫁に行ってくれよ」

「やだよ。結婚したくないから医者になったのよ。それも前に言わなかった? 私はずっと家にいるの。透パパがどんなに邪魔にしてもね。だから早く元気になってよね」

 入院の手続きを待つ病院の待合所で、不安な気持ちを振り払う為、万里亜は出来るだけ笑うようにしていた。透だって本当は不安に違いないのだ。

 病院は完全看護で、介護人が泊まることは許されなかったので、万里亜は毎日、当直を買って出た。

 当直室には固いソファがあるだけで、眠る事は出来なかった。万里亜は、夜になると透の病室へ足を運び、静かに眠っている透の寝息を聴きながら、ベッドサイドの椅子に座ってウトウトしていた。一度、放射線科からの呼び出しのポケベルが鳴ってしまい、透を起こしてしまうのではと、慌てた事もあった。

 昼間は昼間で、何度も透の病室を訪れた。医者の証拠であるブルーのネームプレイトをしていると、何をしていても看護婦に咎められる事はない。

 仕事を抜け出しては、透の病室に貼り付いている万里亜を、透はふざけた口調で追い払おうとした。けれど毎日欠かさず、万里亜は面会に行った。万里亜の姿を認めると、透は嬉しそうに笑った。

 入院から一週間は、検査漬けで忙しかった。だが透は元気だった。よく笑ったし、よく話もした。個室に入っていたので、誰にも気兼ねなく話をすることが出来た。

 しかし、検査の結果をよく聴いてみれば、ボールマン三型という仰々しい名前の進行胃癌だった。万里亜も自分の目でそのCT写真を見た。進行胃癌の十年生存率は、せいぜい二〜三割だった。

「ねえ、透さん」

 明日手術という日に、万里亜は昔の呼び方を思い出した。

「なんだ、急に。今まで透パパと呼んでいたのに」

「思い出したの。昔は透さんと呼んでいたよね」

「そうだったかな」

「だけど父兄参観の日、人前ではせめて透パパにしてくれって言われて、それで透パパと呼ぶようになったんだよ」

「そんな昔の事、よく覚えているな」

「あの頃はまだ、透パパは私の事、万里亜ちゃんと呼んでいたよね」

「ああ、だんだん思い出して来たぞ。シェイクスピア談義の日のことだな」

「そうそう、透パパは水色のセーターを着ていたために、先生に名指しされちゃったんだよね」

「あれは焦った」

 遠い目で笑った。あの時はまだ恵里子も元気で、万里亜が岡田家の子供になるなんて、予測もしないことだった。

「あの時、万里亜がコーデリアが悪いと言うのを聴いて、この子は何か上手く行かないことがあると、何でも自分のせいにしてしまう子だとわかった」

 透の表情からは笑いが消え、その声は真剣だった。

「なんとかしてあげたいと思ったけれど、結局何もしてあげられなかったね」

 万里亜は何も答えられなかった。

 嬉しいのか悲しいのかわからずに、言葉を口にしようとすると、涙がこみあげてきた。この瞬間に、今までずっと禁じられて来た「泣く」という行為が、突然許されたような気がして、涙を止めることが出来なくなった。

「何を泣いているんだ。明日死ぬってわけじゃないんだから、泣くなよ。縁起でもない」

 透の表情には、もう笑みが戻っていた。

 何か答えようとしたのだけれど、何も言葉にならず、泣き声が大きくなっただけだった。

 あまりにもたくさんの恩があった。透がどんなに万里亜の心を支えて来てくれたか、説明したかった。でも、ひとつも言葉にならない。

 何もしてあげられなかったと透は言った。けれど、それは間違いだった。万里亜が今こうして生きているのは、すべて透のお陰だ。透が万里亜を生かし、本物の笑顔を教えてくれたのだ。

 その代わりあまりにも多くのものを失った。

(私という厄病神に情けをかけたばっかりに、透パパは最愛の娘と、最愛の妻を失ったのだわ)

 その罪を、透に告白は出来なかった。

 確かに、直接二人を殺した訳ではない。だがもうこの時には、ハッキリとした確信があった。

 百合子の言う通り、自分は周りに不幸をもたらす厄病神だ。

 心を切り裂く攻撃的な言葉の数々。

 何度、頭の中で反芻したことだろう。

 何度、思い出して苦痛に苛まれたことだろう。

 ちらりとでも望み、すぐに打ち消した願い。たとえ意識していなくても、それが万里亜の「真に望む事」であり、すべて意のままに叶ってしまうのだということを、万里亜は確信していた。

 恵里子も、そして聡子も、万里亜の醜い心が潜在意識の中でそう望んだから、死んでしまったのだ。その悲しみが、透を癌に蝕ませたのだ。こんなにも万里亜のために多くを与えてくれた透を、不幸のどん底に陥れ、病に巣食わせたのも、元を辿れば万里亜ではないか。

 なんという恩知らず。

 なんという罪深さ。

 感謝のない、反省のない子だと言い続けた百合子の気持ちが、今ならわかる。打ちのめしたくなった気持ちも、よくわかった。

 そう思ってから透の言葉を思い返した。

「あの時、万里亜がコーデリアが悪いと言うのを聴いて、この子は何か上手く行かないことがあると、何でも自分のせいにしてしまう子だとわかった」

 なんて優しい言い方なんだろう。

 悪くないのに自分のせいにして責めていると、そう言ってくれるのか。「自分のせいにしてしまう」じゃなくて、「自分のせい」なのに、罪には目をつぶってくれるのか。マグダラのマリアを赦したキリストのように、罪の多いものほど赦されるべきだと、そう言ってくれるのか。

 透はそれ以上何も言わず、万里亜が泣き止むのを待っていた。好きなだけ泣きなさいと言ってもらえたような気がして、心が弛んだ。

 透の言葉は万里亜の心に深く浸透して、赦されぬはずの多くの罪を輝かせる。そのうち罪は、光に溶け出して消えてしまうのではないかと思われた。

 手術の日、万里亜は、今まで神を信じなかったことを後悔し、懺悔し、そして祈った。

(どうか透パパを連れて行かないでください。私に罰をお与えになるのなら、今すぐでも構いません。どうしても透パパの魂が必要なら、私を代わりにお召し下さい)

 神様に祈りが通じたと感じたのは、生まれて初めてだった。

 手術は成功だったのだ。

 厄病神の自分が側にいるために、透までが死んでしまうのかと絶望し、一時は家を離れようと考えたこともあった。だが、透をたった一人きり残して、どこかへ行くなんて、とても出来なかった。

 栄養を与える為の管を入れた場所から、血が滲み出しているのを見た時は、胸を締め付けられる思いだったが、すぐに、生きていてくれることを感謝すべきだと思い直した。

 透は衰弱し、あまりにも食が細くなってしまったが、春には退院出来た。療養を兼ねて、別荘に行ってみようと誘ったのは、万里亜だった。

 昔と比べて外食出来る店がたくさん出来ていたが、透は食べられない。相変わらず、七分粥と、豆腐料理、やわらかく煮た野菜などを、ほんの少量しか食べられなかった。

 午後は城ヶ先まで一駅電車に乗り、吊り橋までゆっくりと歩いた。かなりの距離があったが、休み休み歩いた。体力を回復するには軽い運動が必要だった。

 帰りに甘味処でお茶を飲み、くずもちを食べた。透は一切れ食べただけだった。

 まだ五十代前半なのに、手術後、急に年老いてしまった透に、昔の覇気を取り戻させたかった。どうすれば元気になってくれるのだろうと、そればかり考えていた。

 帰りがけにスーパーで買い物をして、夕方には別荘に戻った。

 温泉が引いてあったが、湯の成分が胃に有効なのかどうか、万里亜は知らなかった。それでも気休め程度に、温泉に浸かれば早く回復するような気がした。

 夕食のあと、二人でチェスをした。

「チェス、ひさしぶりだね。昔はよくやったよね」

「そうだな」

 昔の思い出ばかり話していると、自分まで老人になったような気がする。

「ねえ透パパ、ずっと訊きそびれていたけど、あの時の宿題の答えをまだもらってないよ」

「あの時ってどの時?」

「まだ、私が透パパの子になっていない時」

「何のこと?」

「星の王子様のこと。私が、星の王子様のどこが好きだったのか訊いたでしょ。そうしたら透パパは、宿題にさせてくれって言ったのよ」

「そうだったかな」

「星の王子様、まだ私が持っているよ。覚えてた?」

「忘れていたよ」

「どこが好きだったの?」

「それも、忘れた」

「そんな答え、ずるーい」

「ほらほら、他の事に気をとられているうちに、チェックメイト」

「あ、やられた」

 もうどこにも逃げ道は残されていなかった。優しい性格に似合わず、チェスでは容赦がない。子供の頃は、相当に手加減してくれていたのだと、一度も勝てない今になって、やっとわかった。

「今だから言うけど、本当はそんなに深い意味があって星の王子様を勧めたんじゃないんだ。昔、なんとなく好きだった本だから、内容も詳しく覚えている訳じゃない。

 ただ、あの頃の万里亜は余裕がないっていうか、大人になり急いでいたように見えて、それで、少しだけ寄り道をしてみれば? というつもりで渡しただけだった」

「寄り道?」

「無駄なことを楽しむのが生きるってことだろう? 万里亜は無駄なことはすべて排除して、大人になるのに必要なことだけを、楽しくもないのに無理矢理吸収しようとしていた。少なくとも、僕にはそう見えた。

 星が綺麗だよと言っても、そんなことしている時間が勿体無い、と言われそうだったからね。星や花や動物や、そういう心を癒してくれるものたちと、ぼんやり対話するのも悪くないよって、言いたかったんだと思うよ。たぶんね」

「そっか……」

 あの頃の自分を振り返ってみると、確かに透の言う通りだった。何をするにも焦っていた。時間が足りなかった。

 透のことがこんなに好きだと思うのは、きっと透が万里亜に何も押し付けないからだ。こうやって指針を示してくれるだけで、それ以上は強要しない。万里亜の意向を尊重してくれる。そういう人が、周りに誰もいなかった。

「シェイクスピアの時も、誰も悪くないんだよと教えたかった。けれどそう言ったって万里亜は、わかったような顔をするだけで、信じないだろうと思ったよ。絶対に誰の意見も受け入れないだろうという気迫みたいなものが、感じられた」

 透は半分ふざけた調子で笑いながら言ったが、きっとすべて本心なのだろう。

「そんなことないよ。透パパの言うことだったら、何でもちゃんと聴いたと思うよ」

「そうかな?」

 疑い深げに、首をかしげた。からかうような悪戯っぽい目をしている。こういう表情は久しく見なかった。万里亜は嬉しくなって、頬を緩ませた。

「透パパ、心理学者みたいね」

「大学の時、心理学はやったんだぞ。般教だけど」

「それなら私だってやったよ。私はね、シェイクスピアのあの日、透パパは心の広い人だと思ったよ。誰も悪くないに手をあげていたでしょ」

「なんだ、覚えていたのか」

「覚えているよ、何だって。まだ物忘れするような年じゃないんだから」

「なんだよ、まるで僕が忘れっぽい年寄りみたいに」

「だって最近、ほんとに年寄りくさい」

 二人は顔を見合わせて笑いあった。こういう小さな幸せが、永遠に続けばいいと思う。けれど、万里亜はそれを望んではいけないとわかっていた。

 いつか必ず罰が当たるという考えは、幼い頃から万里亜の中に生き続けていた。その罰がずっとずっと先延ばしにされるのを感じながら、万里亜の中に一つの確信が生まれ始めた。

 罰を先にのばしたいと願えば、その代償をとられる。それが周りの人間に不幸をもたらす原因なのだ。

 透の手術が成功した時、万里亜は二度と自分の幸せは願わないと、誓った。

 だが、弱い心はすぐに揺れ始めた。しかしここで未来の幸せを願ってしまうと、必ず透を失うような気がしてならなかった。

 何も願わない。

 何も恐れない。

 何も否定しない。

 何でもありのまま受け入れ、自分の意志で運命をねじ曲げようとするのは、金輪際止めようと決心した。

 今までだって、意識的にそうして来た訳ではない。だから、その決心を実行するのは、難題だった。

 どうすれば、静かな気持ちで罰を受け入れることが出来るのか。

 どうすれば、一瞬の真なる願いを止められるのか。

 どうすれば、透を生かすことが出来るのか。

 無心になる。

 その難しさは嫌と言うほど身に滲みた。

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