恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十七話「死神」

 五月の連休明けの平日、二人は別荘から戻って来た。もっと長くいたかったが、病院からもらえた休暇は一週間だった。

 聡子の死から二年、本来ならばもうすぐ三周忌の法要だ。しかし、キリスト教には三周忌という行事がなかった。

 クリスチャンの洗礼を受けていた聡子の葬式は、教会で行われた。それは聡子の意志を尊重した透の決定だった。

 電車に接触するという残酷な死を遂げた聡子の遺体は、見るも無惨に引き裂かれていたはずだった。しかし奇跡的に、顔の部分には損傷がほとんどなかった。

 修復され、死化粧を施された聡子は、棺の中で無表情に目を閉じていた。

 教会での式は何もかもが違っていた。

 まるで結婚式のように、白い百合や薔薇といった華やかな花に包まれ、神父様が祈りを捧げる。

 香典は受け取らず、代わりに献花してもらうことになっていると、教会の関係者が説明してくれた。お陰で葬儀の行われた小さな教会は、花の香で埋め尽くされた。

 参列者の数は教会から溢れるほどだった。生前の聡子の人柄故である。

 聡子はボランティアで、老人ホームや孤児の施設に、慰問していた。花を活けてやったり、ちょっとした手芸の講習をしてやったりして、どの施設でも熱烈に歓迎された。

 万里亜は必ずついていって、助手を勤めた。

 聡子が回っていたのは、教会に紹介されたキリスト教系列の施設ばかりだった。教会の婦人連が交代で、または一緒にまわるスケージュールが、教会の方で用意されていた。

 その中でも聡子は、誰よりも献身的に老人や子供の世話をしていたため、いつの頃からか、マリア様と呼ばれていた。聡子の姿を認めると、涙を流して拝むような姿勢をとりはじめる老人もいた。

 ある時、孤児の施設で菓子の差し入れを配った。

 子供達は名目上、充分な食べ物を与えられているはずだったが、実際には必要最低限しか与えられておらず、飢えていた。

 二百個の小さなマドレーヌを子供達に三つづつ配り、残りを施設の先生に託したのだが、その後、聡子が紙芝居を読んでやっている時に、ちょっとした事件が起こった。

 配られた自分の分を食べ終わってしまった七才の女の子が、先生に託されていた残りを、盗み食いしてしまったのだ。

 先生は厳しく叱り、机の上に揃えさせた女の子の両手を、何度も打ち付けた。

 万里亜の心に百合子の記憶が呼び戻され、女の子と心が共鳴した。叫びが自分の中から聴こえて来た。だんだん他の音が何も耳に入らなくなり、ただ、ピシャリピシャリと素肌を打ち付ける音だけが、こだました。

 その時、紙芝居を読んでいた聡子がそれを中断し、つかつかと先生に近付いた。

「やめて下さい」

 目を潤ませて聡子が訴えたが、先生はめんどくさそうに顔を上げただけだった。

「もっと食べたいと思うのは自然なことです。一人だけ黙って食べたことは、罰せられるべきでしょう。けれど、この子には何が悪かったのか説明されていません。叩かれれば、食べるという行為が罰を追うものだと思い込んでしまうでしょう」

 聡子は毅然とした口調で、施設の若い先生を諭した。

「ここのやり方に口を挟まないで下さい」

 若さに任せて言い返したが、奥から年配の教師が出て来て、彼女を止めた。

「御見苦しいところをお見せして、申し訳ありません。この者は、まだ子供達の扱いに慣れていないのです」

「ここでは日常的に体罰が行われているのですか?」

 聡子は気迫のある態度で、年配の教師に臨んだ。

「いいえ、そんなことは決してありません。以前はごくたまに、指導の一貫として体罰を取り入れることもありましたが、今はあっても、服の上からお尻を叩く程度です」

「体罰は、止めて下さい。子供の心を傷つけます」

「わかっています。御心配なく」

「もう二度と、この子は打たれることがないと、約束してくださいますね?」

 聡子は女の子を抱き締めながら、尚も追求した。

 年配の教師に睨まれた若い女の先生は、恨みのこもった目で女の子をちらりと見遣ってから、奥へ引っ込んだ。

「ええ、お約束しますとも」

 年配の教師が調子良く請け負ったので、聡子は安心して紙芝居の続きに入った。それが茶番であると気付いていないのは、その場で、聡子ただ一人であった。

 女の子は絶望的な瞳で聡子を見ていた。その視線を、聡子は感謝のものだと勝手に決めていた。

 万里亜には女の子の絶望が、手にとるようにわかった。他の子供達にもわかったはずだ。

 その時、万里亜と子供達は一体だった。まるで集団催眠のように、子供達は、同じ恐怖に包まれていた。紙芝居を楽しむどころではなかったはずだ。

 なぜ聡子は気付かないのか。

 子供達の怯えた目が、紙芝居を素通りしているということに。

 なぜ聡子は満足するのだ。

 こんなことは、乾き切った地面に、数滴の水を垂らしたのと同じことだ。何の助けにも、解決にもならない。

 外部の人間の前で、恥をさらした若い先生は、あとで先輩教師から酷く罵られるだろう。侮辱されたと感じた若い先生の怒りは、真直ぐに子供にぶつけられる。

 あの女の子は、聡子が姿を消した途端、十倍の折檻を受けるのだ。聡子が口を出しさえしなければ、今両手を数十回打たれるだけで終わっただろう。しかし、聡子に侮辱された恨みの分を、女の子は背負わなければならなかった。

 他の子供達にも、火の粉がかかる危険性は充分あった。子供達が一体の恐怖に包まれているのは、そのためだ。

 それから聡子は、必ず子供達の数を確認して、子供達が平等に分けられる個数だけ、お菓子を用意するようになった。

 聡子は満足していた。

 女の子はその後、一度も打たれていないと、心から信じていた。

 何の意味もない行為だ。

 だが、もしかしたら女の子の心には、聡子が一条の希望となったかもしれない。

 どんなに過酷な運命を背負っていても、たった一人でも自分を顧みる人間がいたのだということに、心打たれていたかもしれない。

 それが何の役にも立たない行為だと知りながら、女の子は聡子に祈りを捧げたかもしれない。

 いつか聡子が自分を助けに来てくれるという幻想を抱き続け、その為だけに生きていけたかもしれない。

 その時聡子が、女の子の事をすっかり忘れていたとしても、女の子は信じ続けていたかもしれない。

 万里亜にはそれが、いたたまれなかった。

 それは、万里亜が透を求める心と同じであるような気がした。

 聡子の葬儀で、涙を流して通り過ぎて行くキリスト教の信者達にも、聡子と同じオーラがあった。万里亜は葬儀の間中の息苦しさを、花の香が強すぎるせいだと思い込もうとした。しかし、本当はそうではないと知っていた。

 聡子の死は、透を打ちのめした。万里亜が悲しかったのはきっと、透が辛い思いをしているからであって、聡子が死んだからではないのだろう。一瞬は、聡子の偽善が裁かれたのだとまで感じた。その恐ろしい考えをすぐに打ち消しはしたものの、それが本心なのだと認めざるを得なかった。

 式は教会で行ったが、最後は恵里子と同じ霊園に埋葬された。死んでからまで恵里子と離ればなれでは可哀想だからだ。

 三周忌の法要はせず、命日にはいつもと同じように墓参りをすることにした。聡子の命日が五月二十二日で、恵里子の命日が五月二十四日だった。

 墓参りに行く度、万里亜は思い知らされる。

 恵里子の死も、聡子の死も、無意識に自分が望んだのだ。それを悔やむ気持ちは測りしれないほど大きい。二人に謝罪の気持ちも溢れるほど感じる。だが、本当の意味で自分は悲しんでいるだろうか。謝罪しているだろうか。

 墓前で懺悔するのは、透の為ではないのか。肩を落として死者と対話する透を見ていると、自分さえ岡田家に近付かなければ、透にこんな思いをさせることはなかったのにと、悔やまれる。自分が、透の大切な者達になり変わっていることに、えも言われぬ罪悪感を覚える。そして悲しくなる。

 その日、透はいつもより長く黙祷していた。手術の事を報告しているのだろうか。白髪の多くなった後ろ姿を見つめながら、万里亜は花を活けた。透に続いて線香に火をつけ、手を合わせ、そして何度目だかわからない謝罪をした。

「聡子さんは本当に優しい人だった」

 透がぽつりと言った。

「そうだね。たくさんの人に好かれていたよね」

 透を励ましたかった。もっと色々な言葉を見つけたかった。だが在り来たりの相槌しか出て来ない。

「聡子さんが優しい人だったと、万里亜もわかってくれるね?」

 透の問いかけの意味がよくわからなかった。まるで万里亜が聡子を嫌っていたかのように、そして聡子も万里亜を疎んでいたかのように、透は半ば祈りのように呟いた。

「当たり前でしょう。どうして?」

 心を見透かされたような焦りが生まれた。

 万里亜も聡子も、他人の前では実に上手くやっていた。もちろん透の前でも。

「いや、なんでもない」

 後悔したような顔をして、会話を切った。万里亜は透が何を考えてそう言ったのか、知りたかった。だがそれ以上追求は出来なかった。

「さあ、帰ろう」

 透はわざとらしい元気な声を出して、万里亜の背中を押した。

「万里亜、早く嫁に行けよ」

 全く関係ない話題に切り替えた。

「何で?」

「万里亜が責任を感じるのが辛い。僕の老後の面倒を見ようと思って、嫁に行かないんだったら……」

「違うよ、この前も違うって言ったでしょう? 透パパがいてくれないと、私は独りぼっちになっちゃうもの。だから追い出さないで」

「僕は一人でもやっていける。家事だって得意だよ。万里亜が心配することは何もないんだ」

「そんなんじゃないってば」

「せめて万里亜だけでも幸せになってくれないと、何の為に生きて来たのかわからないよ」

 胸が痛んだ。妻も娘も、普通でない亡くし方をした、世にも不幸な男がそこにいた。励ましようがなかった。

「……透パパ。私は今幸せだよ。結婚なんかしたら、幸せじゃなくなると思う」

「どうして? 誰も好きな人はいないの? 本当に?」

「……いない」

「じゃあどうしてそんな悲しそうな顔をするんだ?」

 問われてハッとした。

 望まないと決めた。そのつもりでいた。けれどどうしても、心の奥で透を求めているのだ。愛して欲しいと思っているのだ。

 ……なんて浅ましい。

 もしかしたら透は、本当は万里亜の気持ちに気付いているのではないか。嫁に行けというのは、柔らかい拒絶の意思表示かもしれない。

「わかったよ。三十才になったらお見合いでもするから、もうちょっと待って」

 勤めて明るく答えた。

 透に、万里亜の醜い気持ちを絶対に気付かれたくなかった。

「お見合いなら僕が……」

「いいってば」

 思わず乱暴に遮ってしまい、後悔した。

「……ごめん。相手は自分で見つけるから、心配しないで」

 透の眼差しが、憐れむような表情に見えて、その顔が脳裏に焼き付いた。

 定期検診は最初のうち月に一回だった。しかし透はだんだん病院に行かなくなった。いくら万里亜が引っ張って行こうとしても、頑として聴かず、書斎に閉じこもることが多くなった。

 病院に行かないまま暮れも押し迫り、最後の検診から五ヶ月が過ぎた。

 これからは半年に一度でいいと医者も言っていたと透は言うが、万里亜には信じられなかった。来月の検診には、透がどんなに嫌がっても、必ず連れて行って、担当医に話を訊こうと思っていた。

 透は時々何か書いていた。

 書斎を覗くと嫌がるので、万里亜は気になりながらも、透の領分を侵さないよう注意を払っていた。

 その頃、透は万里亜に、自分に構うなと言って、背中を向けるようになっていた。

 自分の事で精一杯のはずなんだから、親なんか放っておけと投げやりな言葉を言うのは、わざとだった。せっかくの休日に、若い娘が一日中どこへも出かけず、家で親の世話をしているなんて、不健康きわまりない。そう言って、土日には万里亜を無理矢理出かけさせようとした。

 病み上がりの透が心配だった。

 だが、透がそれで安心するならばと、土曜日だけ、半日のアルバイトを入れた。CT写真を読む仕事で、毎日大学でやっているのと同じ仕事である。半日で二十枚ほどの写真を調べ、レポートをつくると、四万円貰えた。それだけで月に十六万増える計算だったが、今まで何の無駄遣いもしてこなかったので、一千万近くの貯金が出来ており、お金はどうでもよかった。

 透には、バイトと言わずに、友達と会うとだけ言っておいた。

 万里亜が週に一度でも、自分の為に出かけるようになったので、多少安心したのか、透もだんだん、以前と同じように接してくれるようになった。それでも時々、透らしくないぶっきらぼうさで、万里亜を遠ざけようとするのがわかり、悲しくなった。

「習い事にでも行けばいいじゃないか」

 午前中で帰って来るのに少し不服なのか、お昼に戻って来た万里亜に、エプロン姿の透が言った。昼食をつくっていたらしかった。

 フライパンを覗くとスパゲティが入っていた。透は食べないメニューなので、万里亜の為だとわかった。さり気ない思いやりと、それを押し付けない透らしさが嬉しかった。

「何を習うの?」

「お茶とかお華とか」

「やだ、花嫁修行させようっていうの? 今どきそんなことしている人、一人だっていないよ」

「そうなのか? でも料理は習いに行かなくても充分上手いし、英語も出来るし……そうだ、スポーツジムにでも行ったらどうだ?」

「透パパも一緒に行く?」

「ん?」

 急に端切れが悪くなった。

 しめじや野菜がたっぷり入ったスパゲティを盛り付け、透が食卓に持って来た。万里亜も手を洗って配膳を手伝った。透は朝の残りを食べるつもりらしかった。

「透パパと一緒なら行くよ」

「ジジつきじゃ彼氏も見つからないじゃないか」

 また万里亜を結婚させようという思いつきが、再熱したようだ。ここ数カ月その話題は出ていなかっただけに、やっと諦めてくれたかと期待していたのだった。

「一人なら行かないよ」

 と、そっぽを向くと、透は大きく肩を竦めておどけた表情を見せた。

 自分は少しおかしいかもしれないと、時々思う。が、小学生の時に芽生えた透への想いを、父親になった今も、どうしても捨て去ることが出来ない。

 万里亜にとっては、透だけが大切だ。他はどうだっていい。

 自分の気持ちを偽る気はなかったし、否定するつもりもない。だが実る想いではない以上、透を安心させるためには、形だけでも結婚すべきなのかもしれないと、うつろな心で考えた。

「それじゃ、こうしましょ」

 決心はなかなかつかないだろう。透と暮らす満足感を、自分から捨てる決心など。

 いつの間にか自分を甘やかす癖がついていた。

 自分の幸せは願わないと、決心したばかりではないか。一緒にいたいと考えるのは、透が心配だからでもあるが、自分の為でもある。甘えの循環を壊すためには、自らを追い込む宣言が有効だった。

「透パパが毎月、私と一緒に素直に検診に行ってくれたら、結婚相手を捜しはじめることにするよ」

 冗談めかして笑ったが、心臓をひねり潰されたように、胸に痛みが走っていた。

「交換条件を出して来るとは」

 透は笑った。

「私に言うことを聴かせたかったら、透パパも私の言うことをちゃんと聴いて。そうじゃなかったら、一生結婚なんかしないよ」

 そうだ。何を躊躇っていたのだろう。

 自分の事より、透の健康の方がずっと重大だ。今は透に検診を受けさせるのが、最優先事項であるはずだ。そのために結婚することが役に立つなら、それでもいいではないか。

 相手なんか誰でもいい。ここから歩ける場所に住めて、いつでも実家に帰ることを許してくれて、なるべく夜遅く帰って来る人だったら誰でも。

「検診に行ったら、本当に結婚するな?」

「嘘は言わないよ」

「よし、じゃあ今週行くよ。でも一人で行って来る」

「何で? どうせ行き先は同じなのに」

「まだ娘に付き添われるような年じゃないぞ」

「本当に行くかどうか怪しいからダメ。一緒に行きます」

「信用ないな」

 寂しそうに呟き俯いた透を、ハッとして見つめ直す。

 急に透の存在感が薄くなったような錯覚に捕われて、不安が押し寄せて来た。存在を確認したくて、万里亜は隣に座っていた透の肩に頭を預け、腕にしがみついた。

「長生きしてね」

「まだそんな事を言われる年じゃないぞ。何だ? いつまでも子供みたいに。子供の頃はあんなに大人ぶっていたくせに」

 透が万里亜をからかっても、不安は消えず、もう少しで震え出しそうだった。

 何か目に見えない恐ろしい陰が、万里亜から透を取り上げようとしていた。一瞬でも、透と共にあることを願ったから、罰が当たろうとしているのではないかという恐怖が、不可解な夢となって万里亜を苛んだ。

 取り留めもない雑多な映像が飛来する、抽象派の絵画のような夢だった。なぜ嫌な感じがするのか、理由は釈然としない。強いて言うなら、自分の真なる望みを自覚してしまった為に起こった、予感だった。

 ただの取り越し苦労だと笑えない確信が、万里亜の中で確固たる主張をしはじめた。何度も何度も振り払ったが、嘲笑うように舞い戻って来る。

 絶望にも似た終わりのない想いは、行き場を知らなかった。

 確信が証拠となって突き付けられたのは、二週間後の病院だった。

 透の身体に、癌の転移が見つかったのだ。

 造影CTの結果、腹部大動脈周囲リンパ節腫大、肝門部リンパ節腫大、そして肝臓転移多発と診断された。

 その写真を読んだのは、他ならぬ万里亜自身だった。これが名前の記入ミスで、他の知らない誰かの写真であったならと、思わずにはいられなかった。  不安と祈りと拒絶で頭が混乱した。

 担当医からはじめに説明を受けたのは、万里亜ひとりだった。担当医は、万里亜が画像診断医であることを知らなかった。

 不吉な予感が適中したのだと、すぐにわかろうとする自分と、強く否定する自分。担当医が何を言おうと、どうしても認めたくなかった頑な自分。

「手術すれば……治るんですよね?」

 十以上年上のベテラン外科医に恐る恐る訊いたが、医者の表情に希望は見出せない。

 肝臓は複数の転移があるため、もう手術は不可能だと外科医は言う。ならばどうやって治してくれるのだと、詰め寄りたい気持ちを必死に抑え、指を強く組み合わせた。

 入院と化学療法を勧められたが、耳を素通りして行く。

 MTX/5-FU時間差投与法を行うと、医者が言った。自分が医者である事をすっかり忘れて、万里亜は動揺していた。化学療法は見込みのない患者に行う措置だった。

 聴きたいのはそんな事じゃない。

 いつ治るのか、それだけだ。

 四日をワンクールとし、四週間おきに四セットの投与を行い、効果が認められなければアドリアマイシンとシスプラチンを併用すると、医者が言った。  薬の名前なんかどうだっていい。

 だから、いつ治るんだ?

 必ず、全快するのだと、誰が保障してくれるのだ?

 今までに「疲れ易い」などの自覚症状があったはずだと、医者が言った。

 検診に来なかったのが悪いと言うのか?

 抗癌剤投与中は、白血球の数が激減し、風邪もひきやすくなり、ちょっとした熱でもすぐ死んでしまう可能性があると、医者が言った。

 死んでしまう可能性がある薬なんか、なぜ使わなければいけない?

 投与中は激しい吐き気と戦わなければならないと、医者が言った。

 そんな辛い思いを透にさせようと言うのか。

 それで、それで、それで? それでどうなる?

 医者は、万里亜の聴きたいことは何も言わない。

 万里亜は咽の奥に込み上げる塊をやっとのことで呑み込んだ。そして、息を整えて口を開いた。

「いつ、治るんですか? いつ、家へ帰れるんですか?」

 冷静に質問したつもりだったが、震え出した声が自分の物とは思えなかった。今万里亜は医者としてではなく、透の娘として、担当医と対峙していた。

「なんとも言えません。薬物投与は進行を遅らせる療法ですが、人によって効き方が違いますので」

 何でもない事のように言う。

「完治、しないということですか?」

 そう訊きながら、心が絶望感に満たされるのを感じた。本当は写真を見た時、すべてわかっていたはずだ。誰かに否定して欲しかった。万里亜はまだ新米の医者だから、読みが間違っているのだと、誰かに言って欲しかった。

「全く可能性がないとは言えませんが、完治する確率は極めて低いと考えて下さい。残念ですが」

 最後にわざとらしく付け加えられた「残念」という言葉が、何度も何度も耳に響き渡り、騒音のように聴こえた。

(残念? 何が? 何が残念なの?)

 頭の中で別の自分が容赦なく現実を突き付ける。厳しく責め立てる。

(わからない振りはやめなさいよ。本当は何もかもわかっているでしょう)

 何も望まないから透を助けてくれと願ったにもかかわらず、心の奥底の本心で、透を求めていた。嘘つきの万里亜。

 一番辛い事は何? それが罰だよ。

 癌は再発した。もう医者は手術してくれない。

 なぜ手後れになった?

 検診を訪れなくなったせいだ。

 透が検診に行きたがらなかったのはなぜなのか。

(私が結婚しなかったせい? 透パパは自覚症状があって、再発を知っていた? もしかしたら死にたがっていた? 私の気持ちに気付いていた? 私の為に消えようとしていた? それとも聡子さんのところへ行きたかったの?)

 胸の辺りが凍り付いたように冷たかった。

 万里亜の人生から透が消えてしまうなんて、考えられない。可能性は極めて低いと医者は言った。ならばゼロではないということだ。

(透パパが私を見捨てて逝ってしまうはずなんかない。絶対ない)

 その時、医者が一番聴きたかったことと、正反対の言葉を吐き出した。

「通常最悪でも半年くらいは意識を保てるはずです。投与期間中さえ乗り切ってくれれば、ですが」

 殴られたようなショックというのは、本当に起こるのだと、万里亜は知った。激しい目眩がして、とても立ってはいられなかった。

「半年……」

「今説明した事を、本人にそのまま話してもいいかどうか、お嬢さんに訊いてからにしようと思いまして」

 死の宣告。

 してもいいかどうかなんて、万里亜には決められない。だが、隠す権利もない。

「なるべく希望を持ってくれるような言い方をしてください。お願いします」

 深々と腰を折った。

 丁寧な言葉遣いをする、四十前くらいの熟練した医者だったが、態度は尊大だった。

 病院を変えてもう一度調べてもらったら、間違いだったと言われるのではないだろうかと、一縷の望みを胸に、万里亜は組んだ指にきつく力をこめた。手の甲に爪が食い込んだ。

 透は冷静だった。実感がないのか、死んでも構わないと思っているのか、万里亜には、わからなかった。

 他の病院で検査し治すという万里亜の考えは、呆気無く却下された。検査には最低でも二週間はかかる。そんなことをしていたら、間に合わなくなる。

 入院は十日後と決まった。透は、色々やっておかなければならないので、一人になりたいと静かに告げた。透のために何も出来ない自分が歯がゆくて、情けなくて、呪わしかった。

 もう二度と戻っては来られないかもしれない家で、透が思い出を整理するために、万里亜は邪魔なのだろう。心配だったが、十日間、近くのホテルに部屋を取った。

 そこまでしなくてもいいよと、透は笑った。

「万里亜を邪魔にしている訳じゃないんだ。一人で出かけるけど心配いらないと言いたかっただけで」

「わかってるよ。でも、ここにいると、あれこれ口出しちゃいそうだから」 「そうか」

「透パパ。希望は捨ててないよね?」

「ああ、もちろん」

「……じゃあ、行って来ます。煮物を小分けに冷凍しておいたから、ちゃんと食べてね」

「わかってるよ」

 初めて、涙が出そうになった。

 万里亜は慌てて出発した。

 独りぼっちの十日は、地獄のようだった。

 透が死んでしまったらと思うと、眠れないし、する事もない。どこかへ行きたいとも思わないし、食欲も感じなかった。機械的に仕事へ出かけ、戻って来るとただぼんやりと座って、朝まで過ごした。

 もし透が死んでしまったら、永遠にこの十日間が続くのだ。今までなかった実感が急に湧いて来て、鳥肌が止まらなかった。すでにたった十日が永遠のように感じられるというのに。

 万里亜は考え過ぎないようにするため、大学医学部の図書館で、胃癌に関する本をたくさん借りた。専門外の事は、殆ど勉強していなかったのだ。

 最初の手術は腹腔鏡下手術だった。転移が発見されなかったのは、従来の開腹手術をしなかったからではないか。腹腔鏡下手術でもリンパ節切除は出来る。最初の段階で見落としがあったのではないか。

 専門書を読んでいても、あらゆる「もしも説」が浮かんで来て、ちっとも進まない。もしもこうだったらなんて、一番無駄な考えだ。それでも、何か一つでも希望を見出せないかと、考えてしまうのだった。

 長い長い十日間がやっと終わり、家へ帰り着いてみると、何事もなかったように、透が優しい笑みを見せた。再発はただの夢で、今から昔と変わらない生活が始まるのだとさえ思える、快活な様子だった。

「大丈夫?」

「何が?」

「痛かったり、疲れたり、食欲なかったり、しない?」

「全然。冷凍してくれた煮物と焼き魚も、全部食べたよ。おいしかった」

 透が明るく笑えば笑うほど、愛おしい気持ちになって、失いたくないという願いが込み上げた。それと同時に、思わず涙も溢れて来て、止められなくなった。

 透に抱きついて、子供のように泣きじゃくった。

 こんなのは甘えだ。本当はこんなこと、していいわけない。透の方がずっとずっと辛いのに、自分は透の負担になろうとしている。

 頭ではわかっていた。泣かれても辛いだけだと、わかっているのに、どうしても止められない。

 透は黙ってふんわりと抱き締めてくれた。それから子供の時、よくそうしてくれたように、頭に大きな手を置いて、そっと髪を撫でてくれた。  透のぬくもりが伝わってきて、万里亜の心を癒してくれた。癒してやらなければならないのは、透の方なのに。

 胃の奥底から、大きくてまるい塊が、喉元まで無理矢理上がって来るのがわかった。涙と共に込み上げる想いの塊だ。それが通過する時の痛みは、鈍かった。

「ウェディングドレス姿を、見たかったよ」

 透が大きく揺れる万里亜の背中を、摩りながら言った。

「死ぬ事は、怖くないんだ。聡子さんも、恵里子も待っている。万里亜が、独りぼっちになってしまうのだけが、心配だった。だから、結婚しないのかと何度も……」

 透は一瞬、声を詰まらせた。

 万里亜は透の胸に顔を埋めて、ずっと激しく泣いていた。涙に揺さぶられた肩から背中までを、透の手がゆっくり撫でる。すると食道まで突き進んでいた大きな塊が、すっと消えていくようだった。

「したくないのなら、無理に結婚する事はないと思う。だけど、誰かが万里亜を支えていてくれると思わないと、とても心配だったんだ」

 透はやはり転移の自覚症状があって、わざと検診に行かなかったのだろうか。万里亜を独り残して、逝ってしまうつもりだったのだろうか。

「そんなの嫌だよ」

 万里亜は首を横に振りながら、涙を透のシャツに擦り付けた。

「私を置いて行かないで。お願いだよ。独りにしないでよ」

「最後まで、何もしてやれなくてごめんな」

「嫌だよ。何でそんなこと言うの? 希望は捨てないって言ったじゃない」

「もういいんだ」

「何がいいの。よくないよ。全然よくないよ」

「元気なうちに言っておくよ。万里亜は優しくて頭のいい、自慢の娘だった。僕の娘になってくれてありがとう」

 一生分の涙が次から次に流れて来て、何か言おうとしても、言葉にならなかった。途切れ途切れにやっと出てきた言葉は、「ごめんなさい」だった。

「……何が……悪かったの? ごめん……なさい。ごめ……んなさい。ごめんな……さい。

 いくらでも……謝るから、お願いだから、透パパを連れて行かないで。ど……うしてこんな酷い罰を当てるの? 悪いところは全部直すから、必ず直すから、私……から透パパを……取り上げないで」

 何が言いたいのか、よくわからなかった。もう目の前の透も見えていなかった。透を連れて行こうとしている死神だけが、鮮明に見えた。その姿は誰かに似ていた。

「やだ、やだ、やだ、やだってば」

「万里亜……」

 透の腕を振り解き、側に置いてあったペーパーナイフをいきなり掴むと、自分の腕を思いきり刺した。

「万里亜!」

「出て行け、お前のせいだ、お前が悪いんだ。お前が透パパを不幸にしたんだ。出て行け、出て行けーーーー!」

 泣きながらペーパーナイフを振り回す万里亜を、透は押さえ付けようとした。だが信じられないくらい強い力で、万里亜は抵抗する。

 透は左手で、ナイフを持った万里亜の右手首を掴み、高く持ち上げた。尚も抵抗を続ける万里亜を強く抱き締め、何度も呼び掛けた。

「万里亜、やめなさい。万里亜、万里亜」

 ペーパーナイフが手からこぼれ落ちた。

「あ……」

「万里亜、誰も悪くない。誰も悪くないんだよ」

「……死神が……」

「そんなものはいない。どこにもいない」

「私……」

「大丈夫だから。何も心配いらないから。誰も悪くないから」

「……私の顔をしてたの……死神」

「そんなものはいない。万里亜は一人だけだ。僕の大事な娘だよ。万里亜は悪くない。何も、一つも悪い事なんかしていない。何が起こっても万里亜のせいじゃないんだ」

 透は呪文のように悪くないを繰り返し、万里亜を抱き締めた。しばらく放心して、万里亜は自分が酷く取り乱したのだとわかった。

「透パパ……」

 やっと自分を取り戻すと、透が万里亜の両腕をしっかり掴んだまま、身体を離した。

 泣いていた。

 頬に血がついていた。

 シャツも血だらけだった。

「透パパ……血……」

「僕は何ともない。これは万里亜の血だよ。手当てしてから病院へ行こう。そんなに深くはないと思うが」

 そう言われて、透の視線の先を見た。

 左腕から血が出ているのを見て、初めて痛みを感じた。

「ごめんなさい、私……」

 自分が何をしたのか、覚えていなかった。だが何かひどく迷惑な事をしてしまったのだということだけは、はっきりとわかった。

「もう二度と」

 透は腕に力をこめて、万里亜を揺さぶるようにした。

「僕に謝ったりするな。そして、自分を傷つけるな」

 万里亜のセーターをまくって傷口を確かめながら、透は強い口調で厳命した。

「自分を?」

「腕を曲げてみて。大丈夫、筋は痛めていない。指は全部動くね? よし」

 操り人形のように、されるがままになって、何も考えられないでいた。罪悪感だけがいやましに募っていった。

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