恋愛小説〜マグダラの万里亜
- 序章
- 第一話「名前」
- 第二話「遠足」
- 第三話「夏休み」
- 第四話「別荘」
- 第五話「リア王」
- 第六話「喘息」
- 第七話「最後の夜」
- 第八話「星の王子様」
- 第九話「新しい敵」
- 第十話「田園交響楽」
- 第十一話「自己嫌悪」
- 第十二話「電話」
- 第十三話「転機」
- 第十四話「薔薇の咲く頃」
- 第十五話「十三周忌」
- 第十六話「恩」
- 第十七話「死神」
- 第十八話「最期の言葉」
- 第十九話「終章」
第十八話「最期の言葉」
ずっと入院生活が続くのかと思っていたが、四日間の抗癌剤投与が終わり、体調が万全に戻ると、二週間家に帰れることになった。
透は辛そうな様子を見せなかったが、万里亜は副作用の事が心配だった。 万里亜の左腕はもうすっかり治っていたが、時々胸の痛みと共に、筋が引きつったような感覚を覚えた。
抗癌剤で癌が小さくなれば切除も可能だと、医者は透に説明した。希望を持たせるためにそう言ってくれたのだろう。あの転移の状況で、癌が小さくなるとは思えなかった。
だが、希望を持つ間もなく、透は見る見る痩せていった。三度目の投与のあとには、もう家へ帰る事も出来なくなっていた。
万里亜は病室で、自分の仕事であるCT写真を読みながら、一日中透の寝顔を見ていた。点滴の中に入っている痛み止めが眠くなるらしく、日中もほとんどまどろんでいる。時々目覚めると、ついていなくていいからと、その時だけ辛そうに言うのだった。
「私が側にいたいんだよ」
万里亜は素直な気持ちを透に告げた。透は何も答えなかった。
寝たきりになっていると血行が悪くなる。細く、皺だらけになった腕をさすり、むくんで腫れ上がった足をさすり、もっと他にも自分に出来る事はないのかと、悔しい思いを噛み締める。
別人のようになってしまった窪んだ目。頬の肉はげっそりと落ち、唇は乾いていた。
誰にでも平等に死はやってくる。そう教えられた。けれどこれが平等だろうか。透が何をしたというのだろう。
目覚めた時には、本を朗読して聴かせたりする。そのうち眠ってしまうまで。
万里亜は星の王子様を病室に置いていた。こんな時こそ、人生の寄り道をする本を読むべきだと、きっと透は言うだろう。
難しい知識を求めたいという欲求は、昔と変わらずにあったが、それ以外のもの、透の言う無駄なものにも目を向ける事が出来るようになっていた。透が星の王子様を渡してくれた理由が、今になってやっとわかるような気がする。
病室の窓から、桜が散るのが見えた。
半年と宣告されてから、まだ四ヶ月ちょっとしか経っていないのに、このまま透が無に帰すだろうということが、はっきりとわかった。それほど衰弱は急速だった。
思い出すのは最近の事ではなく、十年以上昔の事ばかりだ。
養女になったばかりの頃、透は週末には祖父母に会いに行くよう勧めた。しかし万里亜は頑に拒否した。
もう二度と、過去を思い出すものと接触したくない。産まれた時から、透の子であったと信じたかったのだ。
最初に与えられた部屋は、元は納戸として使われていた、北向きの六畳だった。
南向きの八畳には、恵里子の持ち物がそのまま置いてあり、聡子がそれを処分するのを嫌がったのだ。
透は済まなそうに、そのうち落ち着いたらきちんと南の部屋を片付けて、使えるようにするからと言ってくれた。だが万里亜にはどうでもいいことだった。
「ずっとここでいいよ。恵里子ちゃんの部屋はそのままにしておいて」
本心からそう言った。
しかし、次の年には、万里亜の部屋が南向きになり、恵里子の持ち物が北の納戸に収められた。聡子に恨まれる気がして、居心地が悪かった。
万里亜は私立の女子高から、国立大学へ進んだ。
高校は恵里子と一緒に通おうと約束していたのとは、全く関係ないところにした。進学校だったので真面目な生徒が多く、みんな他人に興味がない風だった。部活動もしなかったし、友達もつくらなかった。だから高校の三年間は、権力を持とうとする必要がなかった。
お小遣いを貰うのが嫌で、高校に入ってすぐ、喫茶店でアルバイトをした。それでも結局、小遣いはもらった。
万里亜には、何も買いたい物がなかった。何も買わない習慣がついており、必要最低限のものはすでに揃っていたのだ。
本は図書館で借りればよかった。服は二〜三着あればよかったが、聡子が気を使って買って来てくれたので、クローゼットはいっぱいになった。
大学に入ってからは家庭教師のアルバイトをしたが、やはり金の使い道はなかった。サークルにも入らず、友達付き合いもしない。したくなかった。
講議が終われば家に飛んで帰って、聡子のボランティア活動を手伝ったり、家のことをやった。家の仕事をするのは大好きだった。少しでも透の役に立つと思える事は、他に何もなかった。
透と顔をあわせるのは、朝の少しの時間と、夜遅くなってから、それに週末だけだった。週休二日が当たり前になって、どんなに嬉しかった事だろう。 四十代の時が、一番忙しく残業も多かった。
聡子と二人だけで透の帰りを待つ暮らしは、本心を言えば息苦しかった。何もすることがない時間は、本を読んだり勉強したりして過ごした。
思えば万里亜の生活は、すべてが透中心にまわっていた。透が喜んでくれる自分になる事だけが、目標だった。
いい娘であろうとしていた。そうあらねばならないと思っていた。
万里亜は成長を拒んだ。
釣り合いのとれる年齢になってしまい、透に女性として扱われたいと望んでしまうのが、怖かった。聡子を憎んでしまいそうで、怖かった。
そんな万里亜の気持ちに、透はどれくらい気付いていたのだろう。
今まで透がどう感じているかまで、考えがまわらなかった。自分の気持ちで手一杯だったのだ。
透は万里亜を、娘としてであっても、愛していたのだろうか。それとも、憐れんでいただけだろうか。
考え事をする時間がありすぎた。透に残された時間がこんなにも少ないというのに、皮肉な話だ。
最近では、意識が混迷することも多かったが、それはモルヒネのせいだった。と思うと、妙にハッキリした口調で、冗談まで出る事もあった。
桜の花びらの舞う空気を病室にも入れようと、万里亜は午後になって窓を少し開けた。穏やかな風がカーテンを揺らし、透の前髪を微妙に撫でていった。
まどろみから目覚めた透は、
「今日は何日?」
と呟くように聴いた。
「今日は、四月十日だよ」
「そうか」
意識は、はっきりしているようだった。
「寒くない?」
「ああ、窓を開けたのか。新鮮な空気の味がする」
「寒くなったらすぐ言ってね」
「万里亜……」
「何か欲しいの? お水?」
透がはっきり話しているのが嬉しくて、その時間が少しでも長くなるように、慌てて話し掛けた。
「お願いがある」
「何?」
「これを……」
分厚い本のような物を枕の下から引き出す。力が入らないようで、本を持ち上げるのもやっとだった。すぐに受け取り、透の腕をさすった。
「情けないな。ノートも持てないとは」
少しだけ口の端をもちあげた。笑ったとは言えない程度だったが、それでも嬉しかった。
「透パパ、あんまり食べてないからだよ」
今では輸液だけで栄養を取っており、ごくたまにフルーツやジュースをほんの少量取る以外、食事は口に出来なくなっていた。
「万里亜。毎日来なくていいんだぞ。仕事をおろそかにしてはダメだ」
目覚める度に同じ事を言う。
「透パパの側にいたいんだよ」
その度に同じ言葉を繰り返す。一種の合い言葉のようだった。
「それに仕事はここでちゃんとやっているよ」
CT写真を持ち上げて見せた。透は微かに頷いた。
「それ、日記なんだ。誰の目にも、触れないように、処分して欲しい」
「日記、書いていたの?」
「病気になってからね」
「わかった。大丈夫だから安心して」
「見るなよ」
「私も見ちゃダメなの?」
「ダメだよ」
「わかった。見ないで処分するよ」
「ありがとう」
言葉はゆっくりとしか出て来ない。少し話すと疲れるのか、息を吐いて休む。白髪と皺だけでなく、話し方まで、十以上は老けて見えた。
「透パパ、大好きだよ」
「ん」
何か答えようとしたが、咽を詰まらせた。笑おうとしたのかもしれないが、泣き顔に見えて悲しくなった。
「万里亜……。聴いてくれ。
君を引き取った事、少しだけ後悔した事がある。おじいさん達の元にいれば、何の気兼ねも、いらなかっただろうし、そのつもりはなかったが、結果的に、妹とも音信不通にさせてしまった」
「透パパ、そんな事言わないで。透パパの子にして貰えてどんなに嬉しかったか、気付かなかった? どんなに幸せだと思ったか、本当に気付かなかったの?」
万里亜は透が言葉を切った隙に、早口で言い返した。どんなに透を求めていたか、思わず告白してしまいそうだった。
「最後まで、聴いてくれ」
透の乾いた唇を見て、吸い飲みを近付けた。透は一口だけ水を含んで、吸い飲みを遠ざけた。
「奢りが、あったんだと思う。万里亜を、助けてやれるような気に、なっていた。聡子さんの慰めにも、なってくれるだろうと、簡単に、そう思っていた。だが、万里亜を恵里子の身代わりにしようなんて、間違えていた。
聡子さんが、時々、万里亜に厳しく当たるのを、知っていた。知っていたが、黙って見ていた。何も、しなかった。
聡子さんは、時々、恵里子を思い出して、辛くて、どうしようもなくて、それで、万里亜に当たったんだと、思う。万里亜は、頭のいい子だから、聡子さんが本気じゃないと、わかっているから、大丈夫だと、勝手な事を思い込もうとした。聡子さんの、手に負えない悲しみを、万里亜がなんとかしてくれると。
あの頃は、仕事も忙しかったし、何もかも、万里亜に頼り切って……」
息が荒くなったので、また吸い飲みを近付けた。
透は水を含み、息を整えた。
反論したかったが、透が最後まで言い終わるのをじっと待つ事にした。
「子供の万里亜に、聡子さんを任せようなんて、どうして考えたのか。万里亜が、あまりにもしっかりした子だったから、それで、錯覚してしまったんだ。本当は小さな子供だという事を、つい見失って。そんな悪循環から、救ってやりたかったのに、気付いたら、自分も、同じ事をしていた。
その上、何度も、死に直面させて、病室に、縛り付けて……辛い思いばかり……」
透が咳き込んだので、背中をさすり、窓を閉めた。
「……必ず、幸せになると、約束して欲しい」
「透パパ。私の話も聴いて」
透は目を閉じかけて、微かに頷いた。
「私はね、小さい頃からずっと、家から逃げ出したくてしょうがなかった。恵里子ちゃんが別荘に呼んでくれた時から、どんなにこの家の子になりたいと、願ったかわからない。
恵里子ちゃんが死んじゃって、とても悲しかった。でも、そのお陰で透パパの子にして貰えて、自分勝手だけど、すごく嬉しかった。
ママは理由もわからないことで、いつでも私を物差でぶった。それに比べて聡子さんは、天使のように優しい人だった。私にも、いつだってよくしてくれたよ。時々厳しいのは、躾の為だとわかってるよ。
透パパの子供にして貰えた事が、何よりも幸せだった。これ以上幸せになれって言われたら、どうしていいかわからないよ。
透パパの側にいるのが、一番幸せだよ。透パパが大好き。だから一日でも多く、長生きして……」
透は目を閉じて規則的な呼吸音を立てていた。
「透パパ……?」
昏睡してしまったようだった。どこまで話を聴いていたのか、最初からもう聴こえていなかったのかわからない。それとも昏睡しながらも聴こえているのか。
万里亜は改めて透の言葉を思い出し、信じられない思いだった。透ほど正しい人間でも、たくさんの罪悪感を抱えていたのだ。その殆どは、間違っていた。「誰も悪くないよ」と言った透の言葉が蘇る。
それ以来、透が昏睡から覚める事は何度かあったが、話が出来るほどしっかりしていたことは、一度もなかった。
一月もすると、もう昏睡から目覚める事はなくなった。
延命措置を続ける事で、生ける屍となった透に、一つでも希望はあるだろうか。こんなになっても、透を生かしておきたいのは、万里亜の我が侭でしかない。
「……必ず、幸せになると、約束して欲しい」
それが最期の言葉になるなんて。
いつ延命装置を止めるか、決定を迫られた。もう二度と、目を開かないだろうと、担当医は言う。
本当だろうか。
信じられるのか。
管を繋がれ横たわった人間は、透だとは思えないほど様変わりしていて、生きている者のようには、すでに見えなかった。
万里亜は決心すると、担当医に日付けを告げた。
「五月二十二日の夕方四時半になっても、回復の見込みがなかったら、延命装置を止めて下さい」
今、万里亜に出来るたった一つの思いやりは、透が愛していた女性と同じ日にちに、逝かせてやることだ。自己満足かもしれない。でも他に何一つしてやれることはない。
自分が妙に落ち着いていると感じられて、不思議だった。
もう涙は出て来なかった。一生分流し尽くしたかのように、感じられる。
淡々と、葬儀の準備をし、淡々と、求められている役柄をこなし、自分が何のために何をしているのか、考えなかった。
遺言があると、弁護士から連絡を貰った時も、何も感じなかった。
相続人は、万里亜独りだった。
家と土地、透が父親から受け継いだ伊豆の別荘、株、それに預貯金が八千万ほど、それから生命保険が一億。
そんなにたくさんの金を、何に使えと言うのだろう。
万里亜は一瞬も考えず、それらをすべて放棄した。
自分には必要ないと感じる以上に、もっと強い別の思惑があった。
自分が死んだ時、透に与えてもらった財産は、百合子と千絵に流れる。それが許せなかった。透が遺した物を、塵一つ、百合子に触れさせたくない。
一切の財産を放棄すれば、相続人は透の妹だけになる。きっと位牌を護ってくれるだろう。
自分の居場所は、透のいるところだけだった。透がいない今、生きているという実感はない。どこか遠くへ行くつもりだった。
葬儀は、自分の通帳から賄った。
会場の都合で、丸一日、独りきりの通夜が出来た。
万里亜は一晩中、透に話し掛けた。
もう死んでしまったのだから、何を話してもいいだろうと思えて、気持ちが晴れやかになった。
透だけを誰よりも愛していたと、今まで一度も告げられなかったのだ。心にその想いを認める事さえ、出来ずにいた。
本当は辛かった。
悲しかった。
打ち明けたかった。
愛されたかった。
今ならすべて、吐き出せる。誰も責める者はいない。
万里亜は透の冷たくなった頬に軽く触れ、笑いかけながら、「口では恥ずかしくて言えないから、手紙を書くね」と話し掛けた。
自分が十才くらいの少女に戻った気がした。
一番気に入っている薔薇とレース模様の便せんに、透に貰った万年筆で、一語づつ、丁寧に丁寧に、長い長い手紙を書いた。それは二十年分の万里亜の想いのすべてだった。
時々、思い出した事があると、筆を休めて話し掛ける。
「ノコギリ山に行った時は、暑かったね」
とか、
「よく、休みの日につくってくれたオムレツ、本当はまずかったけど美味しいふりしてあげたんだよ」
とか、他愛もない小さな記憶の数々を、透と共に思い出した。
思い出には、透と万里亜しかいない。他のものは何も憶えていなかった。
小さな字で書いたのに、手紙は二十枚になっていた。
「書き過ぎだね。もう、ここで止めるよ」
万里亜は手紙を三つ折りにして、封筒に入れ、薔薇のシールを貼った。
それから透の方へ向き直って、静かに顔を眺めているうち、涙を流していることに気付いた。
「あれ? 涙はもうなくなったと思ったのに」
透の頬に自分の手を重ねる。小刻みに震えているのがわかるが、自分ではコントロール出来ない。
「透パパ……」
声も震えていた。
「透さん」
万里亜は自分の唇を、透の冷たくなって乾いた唇に、微かに触れる程度、近付けた。涙が死化粧を施した透の顔に落ちた。
咽を突き破るような痛みが走った。
二日後には、この身体は焼かれてしまうのだ。この存在感は、灰となって、煙となって、消えるのだ。
「今まで」
だんだん声がつまって、万里亜はしゃくりあげるように泣き始めた。
「私を生かしてくれて……」
今、目に浮かぶのは、恵里子が生きていた時の透だ。若々しく、優しく、大きかった、力強い腕だ。
「ありがとう……ございました」
指をきちんと揃えて頭を下げた。
それから、誰にも気兼ねなく、思いっきり泣いた。
手紙は花と一緒に棺の中にそっと忍ばせた。天国への道すがら、きっと読んでくれるだろう。そう思ってから、透はキリスト教ではなかったと思い出した。でも神の国はみんな一緒に違いない。
聡子と、恵里子も、おなじところにいるのだろう。これからはもう誰にも邪魔されず、家族水入らずで平和に暮らせる。
自分は余計な存在だ。
生きている間、ずっと幸せをもらった。気持ちも手紙ですべて伝えた。もうこれ以上は望む事が何もない。
「邪魔しないから、安心して、聡子さん」
心の中で小さく呟いた。
葬式なのに、なぜこんなに晴れやかな気分なのか、自分でもよく理解出来なかったが、やるべきことはすべてやり終えた、というような達成感に似た気持ちに包まれていた。
葬式を終え、初七日を迎え、四十九日まで、万里亜は位牌を護った。
財産の名義は、まだ変わっていなかった。調査や名義変更の為に、半年くらいの時間がかかるものらしい。
四十九日を迎えた後で、万里亜は透の妹に連絡を取った。この家を出る事にしたので、岡田家の墓と位牌を託したいという主旨だった。
なんて恩知らずな。育ててもらったのに、死んだ途端に家を捨てるなんて。そう言われるだろうと思って覚悟していたが、財産を放棄したせいか、何も言われなかった。
まだ残暑の厳しい季節だった。
九月生まれの万里亜は、もうすぐ三十才になる。
万里亜は自分の貯金通帳と、着替えを少し鞄に詰め込んだ。それから星の王子様、そして、まだ開いていない透の日記を持った。
出かける前に、けじめをつけておきたくて、昔の家族の消息を調べた。元気でやっていると確認するためだった。
十五年も会っていない妹の住所は、興信所で調べた。結婚して子供が二人産まれているらしい。
祖父母も健在で、仕事を続けていた。
百合子はまた別の新しい男と結婚し、アメリカにいるとわかった。
誰にも、連絡するつもりはない。手紙をかくつもりもなかった。
万里亜は今まで、自分を懲らしめているのは、百合子だと、ずっと思っていた。けれど、そうではなかった。
透の最期の言葉が、それを教えてくれた。
どんなに立派な人でも、心に闇がある。透の謝罪は、万里亜にとってはまるで見当違いだった。それと同じ事が、もしかしたら自分にも言えるかもしれない。だから透は、「誰も悪くない」と言いつづけたのかもしれない。
罪悪感に苛まれるのは、百合子のせいではない。何もかも、自分の気持ちの持ち方のせいだった。
今なら変われるような気がする。
変われれば、きっと透は喜んでくれるだろう。
そんな希望が、胸をいっぱいに広がっていた。
だが一方では、透の存在しない世界には何の未練もなく、何の魅力もない。それは変わらぬ事実だった。
万里亜は、この地に留まるつもりはなかった。前々から教授に勧められていたアメリカ留学を実行するつもりだった。アメリカは画像診断の本場であり、日本とは比べ物にならない技術の高さを誇っている。
せっかく医者になっていたのに、一番大切な人を助ける事が出来なかった。しかし今までやって来た事は、無駄ではないはずだ。理由のわからない昂りが、万里亜をけしかけていた。
透は消えてしまった。けれど万里亜の心の中の透は、いつまでも微笑んで万里亜を見守ってくれている。
必ず幸せになってくれと透は言った。何が幸せなのかは、よくわからないけれど、取りあえず、自分の生きる道を自分の力で開いていく事が、幸せに繋がるような気がした。
昼間の空いた電車に腰をかけ、透の日記を胸にしっかりと抱きながら、成田空港へ向かう。
少しだけ開いた窓から、冷房の効いた車内に、暖かい風が吹き込んだ。その度、透の優しい手で、撫でられているような心地よさを憶えた。
あれほどまでに強かった、自分に対する嫌悪感が、どこにも見当たらないのに気付いて、万里亜はまた笑った。
透という神によって、万里亜の罪のすべて、今、赦されたのだ。

