恋愛小説〜マグダラの万里亜

第十九話「終章」

 カリフォルニアの空は、ひたすら青くて大きかった。空気は乾いていて、何もかもが絵の中の出来事のように、原色に近い色合いを帯びている。

 カリフォルニア大学サンディエゴ校には、日本人留学生が大勢いた。付近は治安もよく、人々は親切だった。

 万里亜は初め、英語が通じない事に戸惑った。英語はかなり得意だと思っていたが、日本人の発音は全く通じなかった。

 聴き取りは辛うじて出来た。しかし言葉を返すと「Pardon?」と、首を傾げられてしまう。だがこの国の誰もが、適当に聴き流さず、何度も何度もしんぼう強く聴いてくれるので、万里亜も一生懸命伝えようと努力した。人とのコミュニケーションに、こんなに真剣になったのは、生まれて初めてだった。

 同じコンドミニアムには、日本人と韓国人の留学生が住んでいた。共同のプールで行き会うと、時に日本語が飛び出す。それは、何か懐かしいような気もしたし、後ろめたいような不思議な感覚もあった。

 放射線科の教授は、ユーモラスで明るく楽しい老紳士だった。万里亜はすぐに、親切な教授が大好きになった。時々、食事に招いてくれる事もあり、優しそうな老婦人が、万里亜の発音を丁寧に直してくれる。

 大学では、CT写真の自動読み取りシステムを研究する部署にいた。医学とコンピュータと、両方の知識が必要であり、しかも英語は専門的すぎた。万里亜は初めの半年、ひたすら英語の勉強だけをしなければならなかった。

 楽しかった。友達がたくさん出来た。それが自然だった。

 今まで友達と呼べるのは、恵里子唯一人だった。誰にも興味はなかった。それなのに、三十を過ぎた今になって、友達とはしゃぐのがこんなに楽しく感じられるのは、本当に不思議だった。

 透のことは、毎日思い出す。中を見ないで処分すると約束した日記は、まだ大事に持っていた。もちろん一度も開いていない。

 星の王子様は、今でも時々開いては声に出して読む事がある。そうすると透の声が脳裏に浮かぶ。

 だが、そういった事とは全く別に、万里亜は生きる楽しみを憶え始めていた。それはカリフォルニアの明るい空のお陰かもしれなかった。

 日本であんなにも自分を苦しめていたものは、すべてが幻だったと感じる。ここでは悩む事など馬鹿馬鹿しくなるくらい、毎日が笑いに溢れていたのだった。

 一年後には、英語もやっと慣れて来て、放射線科診断部のレクチャーも、なんとか理解出来るようになっていた。後に、希望者の倍率から言っても、受け入れて貰えたのは、非常に恵まれた事だったと知るのだが、この時はまだよくわかっていなかった。

 診断部では臨床各科とのカンファレンスが毎日行われており、万里亜はいつもこれを聴きに行っていた。このカンファは、患者さん相手の講議であり、優しく噛み砕いてゆっくりと説明された。それが万里亜には英語の勉強にちょうどよかったのだ。

 ある日のカンファで、万里亜は婦人科の患者の中に、見覚えのある東洋人女性を認め、背筋が凍り付いた。全身から汗が吹き出し、倒れそうになりながら、思わず身を隠した。

 二十年という歳月が、一足飛びに蘇って来て、万里亜を怯えさせる。落ち着くためにとにかく座って、息を整えた。

 あれは百合子だった。幻だろうか。

 万里亜は事務室に行って、婦人科のカルテを閲覧させてもらった。

「Yuriko Hamano female 52age」

 子宮頚癌で子宮全摘手術を受けるため、入院していた。

 間違いない。母だった。

 なぜ、逃げて来てしまったのか。今さら母が自分に危害を加えられるはずがない。何も恐れる事はないのに。

「逃げるのは猾い事よ」

 鋭い言葉が蘇る。記憶の中の母親は、今の万里亜ほどの年齢だった。美しく、冷たく、そしていつでも般若の面を思わせる怒りに満ちた表情を浮かべている。

 だが、さっきちらりと見た百合子は、全く違っていた。

 化粧こそしていたものの、痩せて年老いて、みなぎるエネルギーは微塵も感じられなかった。やる気のない表情でぼんやりしており、主任の講議など聴いている風でもなかった。

 足が竦むのは条件反射だ。今ここで百合子に出逢ったのは、偶然ではないはずだった。乗り越えろと、透がそう言っている気がする。

 頭の中に響く神の言葉は、いつだって透の声だった。

 万里亜は一歩踏み出した。

 カンファはもう終わっているはずだ。百合子は病室に戻っているだろう。

 百合子の病室へ向かって、ゆっくりと歩く。近付く度に、全身が震え出しそうになる。それでも、逃げてはいけないと頭の中で声がする。

 廊下をすれ違う看護婦が、明るく声をかけてくれるのに、挨拶を返す余裕もなかった。

 ずっと、罪悪感を抱きつづけて来たのは、百合子のせいではなく自分のせいだと、何度も意識して来た。けれど本当にそうだったのか。二十年経っても変わらぬ鮮明さで、万里亜を責めさいなむ言葉は、みな、百合子の口から出たものだったではないか。

 百合子と正面から向き合う。そしてもう怖くないのだとはっきり知る事が出来たら。

 万里亜は祈るような気持ちで、廊下を歩いていた。

 病室に着くと、百合子はぼんやりとベッドに座っていた。

 何度か後ずさりしそうになるのを、心を奮い立たせて前進する。そして口を開いた。

「ママ……」

 振り返った百合子は、目を大きく見開いて、純粋な驚きを見せた。

 般若の顔はそこになかった。相変わらず整った美しさを持っていたが、年月が目尻に深い皺を刻ませていた。薄い化粧を施した白い顔は、穢れなく見えた。

「……万里……亜?」

 母が自分を認識してくれた事に、自分でも戸惑うほどの嬉しさを憶えた。なぜなのか、わからなかった。

 二人は何分も、ただ黙って見つめあっていた。やがて百合子が重々しく口を開いた。

「幸せだったのね。顔を見ればわかるわ」

 万里亜は素直に頷いた。

「ママは?」

「さあ? どうかしら。医者になったみたいだけど、私が何の病気か知っているんでしょ」

「さっき、カルテを見ました」

 百合子は大きく溜め息をついた。疲れている様子だった。

「あなたはきっと、医者か弁護士になると思ってたわ」

「なぜ?」

「そうなるように育てたからよ」

「……育てた?」

 百合子は口の端を歪めて笑った。

「育てられた憶えはない?」

「……」

 何も答えられない。恐怖心からではなく、もう自分に対して何の手出しも出来ない母親への、憐れみからだった。

 こんなにも細い肩だったろうか。この細い腕のどこに、自分を痛めつける力があったのだろう。

「あなたは信じないでしょうけど、私は私なりに子供達の事を考えていたわ」

 百合子は万里亜に聴かせる、というよりは、自分に言い聞かせるようにゆっくりと、話し始めた。

 再婚相手とは三年で別れた事。その後すぐに今の夫と結婚した事。夫の転勤でアメリカに来た事。千絵を引き取った事。千絵に散々罵られ、決別した事。

 それはいかにも哀しい人生だった。そういう風にしか生きられない人なのだ。

「あなたは自分の手で幸せを掴んだ。それが出来る強い子だと信じていたわ。私にはない強さが、あなたにはあった。私は一人では、いられなかった……」

 百合子は言葉を切って視線を逸らした。涙を堪えているようだった。幼い頃によく見せられた悔し涙ではなく、哀しみの涙だった。

「ママ……」

 以前、思った事がある。母は不幸だったのだと。もし不幸でなかったら、あんな事は絶対にしなかったはずだ。それが今、切実にわかった。

 ずっと、父親のことを訊きたいと思っていた。でも二十年ぶりの母を目の前にして、会った事もない父親のことなど、本当はどうでもいいのだとわかった。

「さ、もうお行きなさい。二度と会う事もないでしょう。あなたはあなたの人生を。私は私なりの幸せを。それでいいのよ」

 それきり百合子は、万里亜がいないかのように自分の物思いに没頭し始めた。

「……さよなら」

 小さく呟いて、万里亜はそっと病室を出た。

 過去に自分を脅かした般若の陰と、万里亜は今、決別したのだ。そう思うと、記憶の中の怒った母の姿は、どんどん薄れていく。たった今見たばかりの、哀しげな弱々しさだけが目に焼き付いていた。

「私は私の……」

 万里亜は口の中で母の言葉を繰り返した。

「私は私の人生を……」

 自分の人生、これから先の長い長い未来。何が幸せで何が大切なのか。今でも大事に持っている「星の王子様」のことが頭をかすめた。

「私の幸せ……それは、透パパの言葉を大切にすること」

 透は、今すべきだと思うことを、一生懸命がんばれと言うだろう。でも時々は寄り道しながら、のんびりと歩めばいい。そう言うに違いない。

 心にじわっと暖かい想いが広がった。

 窓の外、やしの木を駆け上がっていくリスを見つめながら、万里亜は微笑んだ。

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