恋愛小説〜マグダラの万里亜
前半は翡翠の体験を元にしています。
- 序章
- 第一話「名前」
- 第二話「遠足」
- 第三話「夏休み」
- 第四話「別荘」
- 第五話「リア王」
- 第六話「喘息」
- 第七話「最後の夜」
- 第八話「星の王子様」
- 第九話「新しい敵」
- 第十話「田園交響楽」
- 第十一話「自己嫌悪」
- 第十二話「電話」
- 第十三話「転機」
- 第十四話「薔薇の咲く頃」
- 第十五話「十三周忌」
- 第十六話「恩」
- 第十七話「死神」
- 第十八話「最期の言葉」
- 第十九話「終章」
序章
「えっ、えっ、寒いよ、お姉ちゃん」
「千絵ちゃん、ごめん。今までお姉ちゃんが間違ってたよ。やっぱり家出しよう。大丈夫だから。お姉ちゃんがママと交渉するから」
一糸纏わぬ裸の少女が二人、温もりを求めあって玄関先で縮こまっていた。門塀が二人の姿を道路から辛うじて隠してくれている。二人は玄関先に植えられた琉球ツツジの陰に身を隠しながら、寒さに耐えていた。
まだ九月の終わりだというのに、冷たい風の吹く日だった。
赤くて大きな太陽は、遠くの林の陰に隠れてしまい、灰色の空には白い月の陰が現れ始めていた。
「お腹空いたよ」
千絵は再びすすり泣き始めた。
「すぐに何か買ってあげるよ。お姉ちゃんは今まで何も買わないで、お小遣いは全部貯金してた。いつかきっと家出する日がくると思って、欲しいものがあっても我慢したんだよ。だからちゃんと、食べるものも買えるよ」
「おやつは?」
「大丈夫だってば。おやつだって買ってあげるから」
その言葉で、千絵はふいに泣き止んだ。寒いのか、しきりに腕をさすって足踏みしている。
「だから千絵ちゃん、ママが怒っても、絶対の絶対の絶対に謝っちゃダメだよ」
「何で?」
「だって私達、本当は何も悪い事していないんだよ。それなのに毎日裸にされて、物差が折れるまでぶたれるなんて、おかしいじゃない。前に千絵ちゃんもそう言ってたでしょう? 私達はおうちに入れてもらう為に謝っていたんだから、もう謝らなくていいんだよ。家出するって決めたんだから」
千絵は不安そうに姉を見上げながら、足踏みを繰り返していた。
「いい? 千絵ちゃん。今からピンポンを押すからね。ママは私達が反省して謝ると思ってドアを開けるけど、絶対の絶対の絶対に謝っちゃダメだからね」
七歳の裸の少女は、塀の外を覗き込み、道路に人がいないことを確認すると、門をあけて走り出た。すばやくインターフォンを押し、塀の内側へ戻る。そして裸を誰にも見られなかったかどうか、用心深くもう一度道路を覗いた。
誰もいなかった。
ホッとしたのも束の間、玄関の扉が開いて、母親の百合子が般若のような顔を覗かせた。
万里亜は神妙に母の目を見た。話す時に相手の目を見ないと、ぶたれる原因になりかねない。
百合子は子供達を玄関の中に入れた。だが、家には上がらせなかった。
「どこをどう反省したのか説明して御覧なさい」
万里亜は大きく息を吸った。
「私達はママとの約束を破って、五時過ぎまで外で遊んでしまって、とても悪い子でした。時計がなかったから時間がわからなかったと言い訳もして、素直に謝らなかったのも反省しています。
私達は何度も何度も同じ事をママに言わせて、反省が足りませんでした。出て行きなさいと言われても仕方ないと思います。だから、千絵ちゃんと一緒に出て行く事にしました。でもこのままでは寒くて死んでしまいます。私達の洋服と郵便局の貯金通帳を持って行く事を許して下さい。お願いします」
玄関のたたきに土下座して、一度頭を下げてから、万里亜は母親の目を真直ぐ見つめ直した。
心臓がドキドキした。いつも泣いて謝るばかりで、こんな風に逆らったのは生まれて初めてだった。母親の反応が怖かった。でも目を逸らす訳にはいかない。
数秒間、沈黙のにらめっこが続いた。
「千絵はどうなの?」
百合子は万里亜の言葉には応えずに、上がり框のところに座り、妹の方を向いた。
「千絵はお姉ちゃんがおやつを買ってくれるから一緒に行くの」
あっ、と思った時には遅かった。容赦ない平手が万里亜の頬に飛んで来た。続けざまに何度も何度も。万里亜はよろけて玄関のたたきに右手をついた。
「なんて子なの!? こんなに小さな妹をたぶらかして。人を物で釣るのがどんなに汚い行為か、何度も教えたはずよ。反省どころじゃない。あなたって子は、産んで育ててくれた親に対して、これっぽっちの感謝もないのね。
いいわ、そんなに嫌なら出て行きなさい。ただし一人で行くのよ。服がいるというのなら恵んであげるわ。どれでも好きな服を持って行きなさい。でも貯金はあげないわ。あれはあなたが働いたものじゃないでしょう。親に貰ったお小遣いよ。もともとあなたのものじゃないわ」
百合子は平手で万里亜の左右の頬を打ちながら、早口でそう捲し立てた。
千絵に口止めしておくべきだった。なんて馬鹿だったのだろう。だがもう遅い。こんな状態で今さら謝ったからって、許してくれるような甘い母親ではないことは、重々承知していた。
万里亜は打たれた拍子に切れた口の中に、血の味を感じた。
「さあ、今すぐに出て行ってちょうだい。顔も見たくないわ。千絵、こっちへいらっしゃい」
百合子が吐き捨てるように言った。
「ママ、お腹空いた」
「もうすぐ夕御飯の時間よ」
千絵は裸のまま、振り返りもせずに母親と廊下の奥へ消えた。
裏切られたような思いが残った。
重い足取りで玄関を上がり、二階の自分の部屋へ行った。一番お気に入りの白いワンピースを着て、レース編みのカーディガンを羽織る。どれでも好きな服を持って行けと言われた事を思い出し、冬になったら寒いから、セーターを持って行こうと衣装ケースを開けた。
一番大きな登山用のリュックサックに、次々洋服を詰める。
涙が出そうになったが、ここで泣いたら何もかもお終いだという気がして、歯を食いしばった。
勉強の道具を全部ランドセルに詰めて、シロクマの貯金箱をこっそり忍ばせた。お札になると郵便局に貯金してしまうので、貯金箱には千円以下しか入っていない。だが、ないよりマシだろう。貯金通帳は百合子が持っているので、諦めるしかない。こんな事なら我慢しないで、欲しいものを買っておけばよかったと後悔した。
大荷物だった。重くて目眩がしそうだった。だが最後に、友達に貰ったキャンディキャンディのトランプも入れた。これを持っていれば、一人ぼっちで寂しい時トランプ占いが出来る。
一番重いのは教科書だ。だが、学校へは行きたい。
重い荷物を抱えて、どこへ行こうかと考えた。今日から毎日、どこで眠ればいいというのか。ふいに一つのフレーズが頭に浮かんだ。
――辛い重荷を背負うのも あと一日の辛抱よ――
先日読んだばかりの「風と共に去りぬ」という本の中で、黒人の奴隷が仕事をしながらそう歌っていた。
それは高学年向けに書かれた、挿し絵付きの分厚い本で、とても難しかったが、万里亜は辞書を引きながら最後まで読んだ。意味がわからないところがたくさんあったにも関わらず、今まで読んだどんな本よりも、心を打たれた。中でも一番、このフレーズが頭に残っていた。
「つらいおもにをせおうのも、あと一日のしんぼうよ」
万里亜は荷造りをしながら、口の中で繰り返し繰り返し、呪文のようにそう唱え続けた。
大きなリュックを背負って、手にランドセルを持って、階下へ降りて行く。ダイニングキッチンでは千絵の笑い声がしていた。
万里亜は八畳のダイニングルームの真ん中に置かれた、大きめのテーブルを見た。
パジャマを身につけた千絵が着席しており、目玉焼きが乗ったハンバーグとサラダとスープが湯気をたてて置かれていた。急激に空腹感が呼び覚まされた。
「今までお世話になりました。さようなら」
万里亜はキッチンで背を向けている母親に頭を下げた。
無視だった。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
千絵が不思議そうに訊いた。
「もうお姉ちゃんじゃなくなるの。うちの子じゃなくなるのよ」
百合子は万里亜の方を振り返りもせず、そう言った。
「何で?」
「出て行きたいんですって」
「何で?」
「この家が嫌いなんですって」
「御飯食べないの?」
「自分一人で何でも出来ると思っているのよ」
「じゃどこで……」
玄関に近付くにつれて、二人の声は小さくなり、やがて聴こえなくなった。
玄関の扉が閉まる音が背中で聴こえた。万里亜はとうとう我慢し切れなくなって、涙をこぼした。涙を我慢出来なかった事が悔しくて、袖口で乱暴に拭うと一気に走り出した。
空はもう真っ暗だった。
ランドセルが重かった。
そして、心が張り裂けそうだった。

