恋愛小説〜マグダラの万里亜

前半は翡翠の体験を元にしています。

序章

「えっ、えっ、寒いよ、お姉ちゃん」

「千絵ちゃん、ごめん。今までお姉ちゃんが間違ってたよ。やっぱり家出しよう。大丈夫だから。お姉ちゃんがママと交渉するから」

 一糸纏わぬ裸の少女が二人、温もりを求めあって玄関先で縮こまっていた。門塀が二人の姿を道路から辛うじて隠してくれている。二人は玄関先に植えられた琉球ツツジの陰に身を隠しながら、寒さに耐えていた。

 まだ九月の終わりだというのに、冷たい風の吹く日だった。

 赤くて大きな太陽は、遠くの林の陰に隠れてしまい、灰色の空には白い月の陰が現れ始めていた。

「お腹空いたよ」

 千絵は再びすすり泣き始めた。

「すぐに何か買ってあげるよ。お姉ちゃんは今まで何も買わないで、お小遣いは全部貯金してた。いつかきっと家出する日がくると思って、欲しいものがあっても我慢したんだよ。だからちゃんと、食べるものも買えるよ」

「おやつは?」

「大丈夫だってば。おやつだって買ってあげるから」

 その言葉で、千絵はふいに泣き止んだ。寒いのか、しきりに腕をさすって足踏みしている。

「だから千絵ちゃん、ママが怒っても、絶対の絶対の絶対に謝っちゃダメだよ」

「何で?」

「だって私達、本当は何も悪い事していないんだよ。それなのに毎日裸にされて、物差が折れるまでぶたれるなんて、おかしいじゃない。前に千絵ちゃんもそう言ってたでしょう? 私達はおうちに入れてもらう為に謝っていたんだから、もう謝らなくていいんだよ。家出するって決めたんだから」

 千絵は不安そうに姉を見上げながら、足踏みを繰り返していた。

「いい? 千絵ちゃん。今からピンポンを押すからね。ママは私達が反省して謝ると思ってドアを開けるけど、絶対の絶対の絶対に謝っちゃダメだからね」

 七歳の裸の少女は、塀の外を覗き込み、道路に人がいないことを確認すると、門をあけて走り出た。すばやくインターフォンを押し、塀の内側へ戻る。そして裸を誰にも見られなかったかどうか、用心深くもう一度道路を覗いた。

 誰もいなかった。

 ホッとしたのも束の間、玄関の扉が開いて、母親の百合子が般若のような顔を覗かせた。

 万里亜は神妙に母の目を見た。話す時に相手の目を見ないと、ぶたれる原因になりかねない。

 百合子は子供達を玄関の中に入れた。だが、家には上がらせなかった。

「どこをどう反省したのか説明して御覧なさい」

 万里亜は大きく息を吸った。

「私達はママとの約束を破って、五時過ぎまで外で遊んでしまって、とても悪い子でした。時計がなかったから時間がわからなかったと言い訳もして、素直に謝らなかったのも反省しています。

 私達は何度も何度も同じ事をママに言わせて、反省が足りませんでした。出て行きなさいと言われても仕方ないと思います。だから、千絵ちゃんと一緒に出て行く事にしました。でもこのままでは寒くて死んでしまいます。私達の洋服と郵便局の貯金通帳を持って行く事を許して下さい。お願いします」

 玄関のたたきに土下座して、一度頭を下げてから、万里亜は母親の目を真直ぐ見つめ直した。

 心臓がドキドキした。いつも泣いて謝るばかりで、こんな風に逆らったのは生まれて初めてだった。母親の反応が怖かった。でも目を逸らす訳にはいかない。

 数秒間、沈黙のにらめっこが続いた。

「千絵はどうなの?」

 百合子は万里亜の言葉には応えずに、上がり框のところに座り、妹の方を向いた。

「千絵はお姉ちゃんがおやつを買ってくれるから一緒に行くの」

 あっ、と思った時には遅かった。容赦ない平手が万里亜の頬に飛んで来た。続けざまに何度も何度も。万里亜はよろけて玄関のたたきに右手をついた。

「なんて子なの!? こんなに小さな妹をたぶらかして。人を物で釣るのがどんなに汚い行為か、何度も教えたはずよ。反省どころじゃない。あなたって子は、産んで育ててくれた親に対して、これっぽっちの感謝もないのね。

 いいわ、そんなに嫌なら出て行きなさい。ただし一人で行くのよ。服がいるというのなら恵んであげるわ。どれでも好きな服を持って行きなさい。でも貯金はあげないわ。あれはあなたが働いたものじゃないでしょう。親に貰ったお小遣いよ。もともとあなたのものじゃないわ」

 百合子は平手で万里亜の左右の頬を打ちながら、早口でそう捲し立てた。

 千絵に口止めしておくべきだった。なんて馬鹿だったのだろう。だがもう遅い。こんな状態で今さら謝ったからって、許してくれるような甘い母親ではないことは、重々承知していた。

 万里亜は打たれた拍子に切れた口の中に、血の味を感じた。

「さあ、今すぐに出て行ってちょうだい。顔も見たくないわ。千絵、こっちへいらっしゃい」

 百合子が吐き捨てるように言った。

「ママ、お腹空いた」

「もうすぐ夕御飯の時間よ」

 千絵は裸のまま、振り返りもせずに母親と廊下の奥へ消えた。

 裏切られたような思いが残った。

 重い足取りで玄関を上がり、二階の自分の部屋へ行った。一番お気に入りの白いワンピースを着て、レース編みのカーディガンを羽織る。どれでも好きな服を持って行けと言われた事を思い出し、冬になったら寒いから、セーターを持って行こうと衣装ケースを開けた。

 一番大きな登山用のリュックサックに、次々洋服を詰める。

 涙が出そうになったが、ここで泣いたら何もかもお終いだという気がして、歯を食いしばった。

 勉強の道具を全部ランドセルに詰めて、シロクマの貯金箱をこっそり忍ばせた。お札になると郵便局に貯金してしまうので、貯金箱には千円以下しか入っていない。だが、ないよりマシだろう。貯金通帳は百合子が持っているので、諦めるしかない。こんな事なら我慢しないで、欲しいものを買っておけばよかったと後悔した。

 大荷物だった。重くて目眩がしそうだった。だが最後に、友達に貰ったキャンディキャンディのトランプも入れた。これを持っていれば、一人ぼっちで寂しい時トランプ占いが出来る。

 一番重いのは教科書だ。だが、学校へは行きたい。

 重い荷物を抱えて、どこへ行こうかと考えた。今日から毎日、どこで眠ればいいというのか。ふいに一つのフレーズが頭に浮かんだ。

――辛い重荷を背負うのも あと一日の辛抱よ――

 先日読んだばかりの「風と共に去りぬ」という本の中で、黒人の奴隷が仕事をしながらそう歌っていた。

 それは高学年向けに書かれた、挿し絵付きの分厚い本で、とても難しかったが、万里亜は辞書を引きながら最後まで読んだ。意味がわからないところがたくさんあったにも関わらず、今まで読んだどんな本よりも、心を打たれた。中でも一番、このフレーズが頭に残っていた。

「つらいおもにをせおうのも、あと一日のしんぼうよ」

 万里亜は荷造りをしながら、口の中で繰り返し繰り返し、呪文のようにそう唱え続けた。

 大きなリュックを背負って、手にランドセルを持って、階下へ降りて行く。ダイニングキッチンでは千絵の笑い声がしていた。

 万里亜は八畳のダイニングルームの真ん中に置かれた、大きめのテーブルを見た。

 パジャマを身につけた千絵が着席しており、目玉焼きが乗ったハンバーグとサラダとスープが湯気をたてて置かれていた。急激に空腹感が呼び覚まされた。

「今までお世話になりました。さようなら」

 万里亜はキッチンで背を向けている母親に頭を下げた。

 無視だった。

「お姉ちゃん、どこ行くの?」

 千絵が不思議そうに訊いた。

「もうお姉ちゃんじゃなくなるの。うちの子じゃなくなるのよ」

 百合子は万里亜の方を振り返りもせず、そう言った。

「何で?」

「出て行きたいんですって」

「何で?」

「この家が嫌いなんですって」

「御飯食べないの?」

「自分一人で何でも出来ると思っているのよ」

「じゃどこで……」

 玄関に近付くにつれて、二人の声は小さくなり、やがて聴こえなくなった。

 玄関の扉が閉まる音が背中で聴こえた。万里亜はとうとう我慢し切れなくなって、涙をこぼした。涙を我慢出来なかった事が悔しくて、袖口で乱暴に拭うと一気に走り出した。

 空はもう真っ暗だった。

 ランドセルが重かった。

 そして、心が張り裂けそうだった。

第一話「名前」 このページのトップへ
恋愛小説
恋愛小説〜光の中で
恋愛小説〜マグダラの万里亜
恋愛小説〜らぶちゃんぽん
ホラー小説〜忘却の夏
恋愛小説〜ミレニアム
思春期小説
思春期小説〜不要家族
そして繰り返される
笑い話コラム
ラブレターの思い出
ナンパ笑い話
神経性胃炎の苦すぎる屈辱体験
ファーストキスは幼稚園!
変人に同類と思われて!?
転校生の災難
病院で受けた屈辱
痴漢話コラム
痴漢の恐怖
痴漢少年に怒られた!
絶体絶命のピンチ
史上最悪のナンパ師
雑話コラム
小学生にプロポーズ!?
お気に入りの小学生第二弾
忘れられない歯医者さんの言葉
伯父さんの憐れ
友達話コラム
アニキと呼んでいた男友達
女性に惚れた私はレズか?
年上のお友達
小学生時代の男友達
想い出話コラム
部活の思い出
目立ちたがり屋か?
習い事の思い出
女王様だった小学生
心の深淵コラム
母の教えと嫉妬心(不倫)
暴走族になり損ねた14才
祖母と母の教えの狭間で
愛情談義コラム
焦りを感じる理由
遺伝子の連鎖反応
愛されたい病
女の行く末
恋愛小説TOP
恋愛小説HOME