ホラー小説〜忘却の夏
官能ホラー小説(中編)です。テーマは「男は厚かましく女は愚かしい」
第一話「白昼夢」
「ねえ、どこかで会った事ない?」
物思いを蹴破る異質で大きな声に、私は思わず振り返った。
自分に言われていると思ったからではない。反射的にそうしてしまったのだ。そもそも自分に言われているなどと思うはずもなかった。それは若い女の子の声で、私とは何の接点もないと断言出来たからだ。
しかし、少女はこちらを見ていた。
私はいつもは決して乗る事のない真昼の車両で、扉付近に立って、外の景色が行き過ぎるのをぼんやり眺めていた。空いている座席に座る気にもならず、これまで考えた事もなかったような、どうでもよい様々な事柄について、頭につらつらと思い浮かべた。電車のスピードはどのくらいあるのだろうとか、次の駅まで何キロあるのだろうとか。そうして過ぎ去って行く家々の屋根や古びた看板を、目の端で追っていた。大事な事は何一つ考えたくなかった。
本来なら今頃、取引先の人間と会っているはずだった。だが、すっぽかされた。
社には外勤届けを出しておいたから、急いで戻る必要はない。私はそこまで仕事熱心ではなかった。それというのも出世コースに乗り損ねてしまったからなのだが、今の生活はそんなに不満でもないので、のらりくらりとやっている。殆ど仕事もないので残業の必要もなく、毎日定時に帰れる。出世などして過労死するより余程いい身分ではないか。少々の厭味さえ我慢すれば、座っていて給料がもらえる。どんなに会社が私を追い出そうとしても、私は定年までそこに居座るつもりでいた。
給料は決して多くはない。だが、足りなくて困るという程でもなかった。通勤には一時間半かかるものの、小さな家も買った。二人の娘もなんとか大学へ入れてやれるだろう。妻にも仕事をさせないで今までなんとかやって来た。出世などしなくても十分幸せだった。
同期入社の何名かは、もう口もきいてくれないほど私とはかけ離れた地位にいる。覇気のない私を嘲笑う奴も大勢いる。いつクビを切られるか、賭けている奴までいるのは知っている。だが、気にならない。業績をあげなくても、失敗さえしなければいいのだ。私はこのまま、何事もなく平和に暮らせればそれでよかった。
私は宛てもなくただ、冷房の効いた電車に乗っていた。どこへ行こうとも思っていない。何故かふと、今まで乗った事のない線に乗ってみようと思い付いただけだった。
その電車の中で、一人の少女が明らかにこちらを見ていた。隣の車両に移る為の閉まったドアの前で、左右の手すりに両手をかけて、私が立っている扉付近を見つめている。
私は思わず扉を振り返り、誰か人がいたかどうか確かめた。進行方向右側の扉だ。
誰もいない。少女が見ている方向にいるのは、私だけだ。
私は慌てて辺りを見回した。いつの間にか数名いたはずの乗客は一人もいなくなっており、その車両には私とセーラー服の少女しか乗っていなかった。
「ねえ?」
少女は再び、愛らしい声を投げかけた。
今度ははっきりと私に言っているとわかる距離だった。私は戸惑いながらも少女を見た。考える間もなく女子高生に知り合いなどいないのだから、会った事などあろうはずもない。
いくら平日昼間の電車が空いているとはいえ、さっきまで何人かの乗客はいたはずだ。考え事をしている間に、駅に停車したのだろうか。そんな気はしなかったが、確かにいたはずの乗客が誰もいないのだから、ぼんやりしている間に停車していたのに違いない。
そもそもここは今どこを走っているのだろう。そう思って車窓に目を向けた瞬間、少女は一歩私に近付いてまた同じ言葉を繰り返した。
「どこかで会った事ない?」
「私に言っているの?」
決まり切った事を訊き返した。
「そう、おじさんに訊いているのよ。どこかで会った事あるよ、私達」
少女はにっこり笑って尚も近付いて来た。私達の距離はもう数センチと離れていない。私は思わず後ずさった。
「い、いや、私は覚えがないが」
何と答えてよいかわからず、しどろもどろになりながらやっとの事でそう答える。目をそらそうとしたが、なぜか少女から視線を外す事が出来なかった。
彼女は色白で細身で、そして美しかった。髪は黒々とつややかで、まっすぐに長く延している。口紅をつけているのか、唇だけが燃えるように紅く、それが白い肌を一層際立たせていた。
「ふーん」
彼女がまじまじと私を見つめる。もしかしたらこれは、今流行りの援助交際のお誘いではないだろうか、などと馬鹿な事を考える。だが彼女は、今時の女子高生にしては清楚な感じがした。
だいたい援助交際をするような子は、みんな髪を茶色く染めて眉を細くしたり、濃い化粧をしたり、下着が見えるくらいスカートを短くしているものだろう。街で見かける女子高生はみんなそんな風貌だった。
しかし彼女の髪は黒々としたロングストレートだし、目の上も青く塗りたくってはいないし、スカートの丈も膝下まであった。なぜか古臭いとも思えるくらい清らかに見える。その明け透けな口調を除けばだが。
「私を覚えてないんだね」
少女は突然、少し悲し気な表情を見せてそう言った。
「いやだから、覚えていないも何も、私には女子高生の知り合いはいないから。誰かと間違えているんじゃないかな? その……私はいつもこの列車には乗らないし」
私は慌てていた。何をそんなに慌てる必要があるのかは全くわからなかったが、とにかく少女の顔が曇ったのが気になって仕方なかった。胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「私は思い出したよ」
少女は尚も悲し気な表情を崩さないまま、ほんの少し微笑んだ。
「思い出したって?」
私は少女が誰を思い出したのか訊きたかった。私であるはずはない。私は知らないのだから。誤解が解ければ少女も納得するだろう。なぜ私が見ず知らずの少女を納得させなければならないのか、その理由はわからないが、ともかくこのままにはしておけない気がした。
彼女には放ってはおけない魅力があった。彼女の幼い顔は、悲しみをたたえると途端に妖しく大人びて見えた。私は彼女から目を離せなかった。
彼女は更に一歩近付き、私を見上げた。
「だっておじさん、片岡修二さんでしょう?」
「……え……」
心臓が止まるのではないかと思えるほど吃驚した。何も言葉が返せない。なぜ彼女が私の名前を知っているのだ。しかも結婚前の旧姓を。
一人娘だった妻と結婚するにあたって婿入りしていた私は、もう二十年も砂森という姓を名乗っている。百歩譲って彼女とどこかで知り合いになっていたとしても、どう見ても十代の彼女が、私の旧姓を知っているはずはない。
気軽な気持ちはどこかへ吹き飛んだ。背筋が凍るような恐ろしさすら感じた。
(彼女は一体何者なんだ!)
私の心を見すかしたように、彼女は自ら名乗った。
「私は、篠山響子。名前言ったって思い出さないんだろうけど」
思い出すも何も、そんな名前は本当に記憶にない。もし本当に十六〜七の女の子と知り合ったのだとすれば、ここ数年の間でなければおかしい。そうでなければ彼女は小さすぎて、知り合った事も相手の名前も覚えていないはずだ。そしてここ数年の事を忘れ去るほど、私はまだ惚けてはいなかった。
私は恐る恐る、だが慎重に尋ねた。
「君、私の名前をどこで知ったの?」
もしかしたら、何か犯罪に巻き込まれようとしているのではないか、という馬鹿な不安が心をよぎる。だが彼女は私の質問には答えず、屈託のない笑顔を見せた。
「おじさん、子供いる?」
その笑顔を私は、先ほどまでのようには無邪気なものとは受け取れない。何を企んでいるんだ。そうとしか思えなかった。
私は何も答えず黙って彼女を観察した。
どこかで会ったのか?
どこで?
去年か?
一昨年か?
それとももっと前か?
「怖い顔」
クスッと彼女が笑う。先ほどは愛らしく感じた赤い唇が、不気味にさえ見える。
(何を企んでいる!?)
「おじさん、本当に私を覚えていないの? ほんのこれっぽっちも?」
「さっきからそう言ってるだろう」
私は冷房の効いているはずの車内で、うっすらと汗をかいていた。
(次の駅で降りよう。こんな茶番につきあう必要はない。何かの悪戯に決まっている。いや、どこかで誰かに俺の名前を訊いて、たまたま知っていただけかもしれないじゃないか。恐れる必要なんかない)
私は少女を無視する事にした。だがこの車両には私達二人しかいない。車両を変えるかどうか、しばし迷った。
私は列車に乗る時、必ず一番後ろの車両に乗る習慣がある。今日もやはり癖で、一番後ろの車両に乗っていた。だから、車両を変えるとしたら一方向しかない。彼女のいる方向だ。
彼女を通り越して車両を変える、そうしたら彼女はどうするだろう。そんな事をしたら、気分を害して何かしでかすんじゃないだろうか。
(この子は頭がおかしいに違いない。もうすぐ駅に停車するはずだ。それまで刺激しない方がいい)
私はそう思いとどまった。そして彼女が私の事をあれこれ詮索する前に、彼女を質問攻めにしてやろうと思い付いた。黙っているのが怖かったのかもしれない。
「君、学校は?」
「学校?」
「高校生だろう? 今は授業のある時間じゃないの?」
「ああ、学校ね。ずっと昔に行かなくなったから」
「どうして?」
「行けなくなったの」
「だからどうして?」
「おじさんこそ会社はどうしたの? 普通は仕事をしている時間でしょ?」
彼女は学校へ行かない理由を言いたくないらしい。どうせサボっているだけで、理由などないのだろう。私は彼女の質問を無視した。
「なぜ他の子達みたいに、髪を染めたり化粧をしたり、スカートを短くしたりしないの?」
「他の子達って?」
「街で見かける女子高生はみんなそんな格好をしているよ」
「そう」
「君は流行は追わないの?」
「追わないよ」
「髪を染めたいと思わないの?」
「思わない」
「スカートを短くしようとは?」
「思わない。だって足が太いんだもん」
「太い?」
彼女はどこから見ても細身だった。スカートで隠された足の部分だけが太いとは思えなかった。
「私、ずっと昔水泳をやってたの。だから筋肉で足が太いのよ」
「ああ、筋肉か。それならいいじゃないか」
「よくないよ。それに短いスカートなんかはいて、おじさん達にジロジロ見られるのは我慢出来ない」
「そう……」
彼女はまたとびきり悲し気な表情をつくった。私の心は再び痛みだした。
今さっき、彼女が私を陥れる為に現われたんだと感じたばかりだというのに、私はもう彼女に同情的な気持ちになっていた。彼女が美しすぎるせいかもしれない。こんなに美しい少女に出会っていたら、忘れるはずはない。
「水泳はもうやっていないの?」
私は会話が途切れないようにまた訊いた。なぜか会話を途切れさせると恐怖心が沸き出して来て、焦りを感じるのだ。
「それも……出来なくなったの」
「病気か何か?」
「そんなもんよ」
「今は何をしているの?」
「何って?」
「学校も行ってないんだろ? 普段何をしているの?」
「……寝てる」
「ずっと?」
「ずっと」
「今日はどこへ行くの?」
「どこへも行かないよ」
「だって列車に乗っているじゃないか」
「乗ってるだけ」
「家はどこ?」
「荻窪」
「……なっ」
私はまた心臓を抉られるような気持ちになった。
(荻窪だって!?)
私の実家は荻窪だった。
すると実家に行った時にどこかで会ったのか? いや、もしかするとうちの両親とこの子の両親がどこかで知り合いで、それで私を知ってるんじゃないか、それとも私がこの子の両親と同級生で、卒業アルバムを見たとか。それで私の名前と顔を知っていたんじゃないか。そうだ、そうかもしれない。
……一瞬、そう結論づけたくなった。が、すぐに思い直した。
私は自分の太股に手の平を押し当て、そっと汗をぬぐった。
いや、やはりそれはおかしい。列車の中で見かけた男が、会った事もない小さな写真、しかも子供の頃の写真の人物と同じかもしれないなんて、思う人間はいない。ましてそれが親のアルバムに写っていた全くの他人であれば尚更、覚えている訳がないだろう。
「荻窪の……どこ?」
「何でそんな事訊くの。知らない人にそんな事教えられないよ」
彼女は急に厳しい態度で私を拒絶した。
「だって、私を知っているんだろ」
「おじさんは知らないんでしょ」
「いつどこで会ったのか言ってくれれば、思い出すかもしれない」
「ダメだよ、これ以上のヒントはなし」
「今までのはヒントだったの?」
「そう。でもおじさんは思い出さない。思い出さなければ知らない人と同じだよ」
「なるほど」
彼女は怒ったように後ろを向いた。
髪が揺れた。
彼女の後ろ姿が目に飛び込んで来た。
彼女は……!?
目をしばたいた。
一瞬、息が出来なかった。
既視感、とでも言うのだろうか。
一瞬、ほんの一瞬、彼女を見た事があると感じたのだ。彼女の後ろ姿を見たその瞬間に。
揺れる髪。
すっと伸びた首筋。
引き締まった……身体のライン。
しかしすぐに彼女はこちらを向き直した。もう機嫌が直っている。彼女がこちらを向いた途端に、思い出しかけた記憶は沈んでいった。
「いいわ、賭けをしましょ」
「賭け?」
「そう、もしかしたらおじさんの一生にかかわるかもね」
彼女はニヤッと笑った。赤い唇が広がった。また背筋がゾクッとした。冷や汗が流れる。やはり彼女は何か企んでいるのか。
「質が悪い悪戯だな。一生にかかわるって何なんだ」
私は思わず子供相手に大きな声をあげてしまった。彼女の表情がコロコロ変わる度に、私の気持ちも変化する。切なくなったり、恐ろしくなったり。
「怒らなくても……」
彼女は瞳を潤ませた。すぐに私は弱気になった。言い過ぎだったかもしれない。彼女が悪の使者だと決まった訳でもないのに。
私の声は反動で小さくなった。
「すまない、賭け事は嫌いなんだ」
それは嘘じゃない。本当に賭けは嫌いだ。競馬も競輪もやらない。麻雀もしないしパチンコもしない。
一生に一度の賭けは結婚だった。妻の実家は中堅どころの印刷会社を経営していた。ゆくゆくは社長にと言われ婿入りしたが、結婚した二年後に会社は倒産した。
私は運のいい人間ではないと自分で知っている。賭けても勝つはずはない。
すると突然、彼女が私の腕にそっと触れた。ひんやりとした冷たい手だった。
「あなたは運がいいと思うわ」
彼女は別人のような口調でそう言った。真顔だった。
「何を……」
何を言っているんだと言おうとしたのに、言葉がつまった。彼女は今にも泣き出しそうだった。
(この思いは何なのだ。彼女が悲しそうにする度に何故こんなに胸が痛む。誰でもいい、誰か私に教えてくれ)
私は何も言えずに彼女の澄んだ瞳を見つめていた。彼女も私を見つめていた。そうして、いきなりニコッと笑った。極上の笑みだった。
「おじさんは運がいい。私がそれを証明するよ」
彼女は元の口調に戻り、私をおじさんと呼んだ。私もつられて笑った。何を言おうとしているのかはわからなかった。何も意味などないのかもしれない。
「ただし、おじさんが私を信じたらね」
彼女は私に触れていた手を放し、私の背後に回った。
「信じる? 私と君がどこかで会った事があるって事を?」
彼女を目で追いながら、ゆっくりと身体を回転させる。二人の位置が逆転した。
「もうそれはどうでもいい」
私は前の車両との連結部付近から、列車の後ろを見渡す形になった。列車の後ろの大きな窓から外の景色が目に飛び込んできて、圧倒された。
「ここは……」
(ここはどこだ? 見渡す限り畑と野原じゃないか。東京都にこんな場所があるはずない。一体この列車は何なのだ!?)
急に誰もいなくなった最後部車両。
いきなり現われた謎の少女。
東京都だとは信じられない外の景色。
私の頭は混乱しかけていた。誰が私をここへ連れてきたんだ。私は普通に列車に乗っただけだ。それなのに……。
「おじさん、外を見ちゃダメだよ」
少女の瞳が妖しく光る。
すべてはこの子が現われた時から始まったのだ。
(この子が、すべてこの子が……!?)
私は頭に浮かんだ考えを打ち消そうとした。長年平凡な暮らしの中でしか生きて来なかった私の頭では、この現象は理解出来なかった。再び私を恐怖が包んだ。
少女の顔が鬼に見える。赤い唇が血に見える。
身体が震え出すような気がした。
「隣の車両に移って」
「何だって!?」
「早く!」
少女は急に怖い顔をして私に迫ってきた。私はじわじわと後ずさる。
「あっちを向いて! 早く! 隣の車両に行って!」
突然、彼女が怒り出した理由はさっぱりわからない。私が彼女に怯えたせいだろうか。しかし、彼女の言う事を訊きたくても、足が竦んで動かなかった。
「何しているのよ。私を信じないつもり?」
彼女は乱暴に私の身体を回れ右させて、私の背中を思いっきり押した。その瞬間、ガクンと大きな衝撃が身体を襲った。
なぜか瞬時に「やられた」という思いが頭を過ったが、目の前は真っ暗になりそのまま意識は遠退いた。最後に彼女の声を訊いた気がした。遠く微かな声で。
「もう……でないよ」


