ホラー小説〜忘却の夏
官能ホラー小説(中編)です。テーマは「男は厚かましく女は愚かしい」
第二話「追想」
暗い夜道を歩いていた。
ずっと前方には、背の高いスラリとしたセーラー服の女の子が歩いている。右手に持った鞄を、彼女は友達と別れる角で、手を振る為に左手に持ち替えた。彼女が方向を変えると、サラサラのロングヘアが揺れた。
彼女はまっすぐ歩いて行く。私は彼女の後ろ姿を見つめながらついて行く。いや、ついて行くという言い方はおかしい。私は自分の家へ帰ろうとしているだけだ。
(自分の家?)
ふと疑問に思う。私の家はこんなところだったろうか。
(どういう事だ?)
私は自分の服装をマジマジと見つめた。学生服だ。詰め襟の学生服、そして白い布地の鞄を肩にかけていた。私の身体は小さくて、運動靴を履いた足も、ずっと小さい。
私はすっかり中学生に戻っていた。
(そうだ、思い出した)
その瞬間、脳裏にまばゆい光が爆発した。記憶が洪水のように、私を襲った。
私は私である事をすっかり忘れ、中学生に戻っていた。
中学三年の時同じクラスだった、水泳部の女の子。前方を歩いているのは彼女だった。私達は家が同じ方向で、部活の帰り道がかち合うのだ。
私は彼女の事が好きだった。彼女は健康的で活発でよく笑う。水泳部だった為に肌はいつも日に焼けていた。そして成績もよかった。
明るくて優しくて何でも出来る女の子。彼女は当然のように人気者だった。
彼女に話し掛けた事は一度もない。私は彼女より背も低く、顔もソバカスだらけで、成績も中くらいだった。野球部に入っていたがレギュラーにもなれず、何一つ秀でた所がなく、とても彼女に話し掛けられるような人間じゃなかった。
ただ一つ他の奴らに誇れるのは、彼女と帰り道が同じだという事くらい。どうだ、羨ましいだろうと心の中でほくそ笑んでいた。だが、近寄る事は出来ず、本当に遠くから後ろ姿を見るだけだった。
彼女は私の存在に気付いてもいないだろうが、それがかえって私には心地よかった。もし気付かれているかもしれないと思ったら、到底彼女の後ろなんか歩いてはいられない。
彼女はいつも、近道のために神社の中を通る。私もついていく。神社の中は鬱蒼と木が茂っており、暗くて視界が悪いので、普通に道路を歩いているよりずっと彼女に近付ける。それが密かに嬉しかった。
そしてこの日も、彼女は神社への低い階段を上がった。私は彼女が上がり切るまで待って、彼女の姿が消えたところで足音を立てないようにそっと、しかし素早く階段を上がる。その先は月明かりだけが頼りの森の中だった。石畳の通路は幅一メートルほどしかなく、しかも両側から生い茂る下草で更に狭くなっていた。
私は足で下草を擦る音を立てないよう、なるべく通路のまん中を歩いた。微かな物音で彼女が振り返るかもしれないと思うと怖かったが、同時にそれを期待しもしていた。だが彼女はとうとう一度も振り返らなかったし、私に声をかける事もなかった。それでも私にはこの神社の中を通り過ぎる数分が至福の時だった。
と、突然、彼女の陰が草を薙ぐ大きな音と共に視界から消えた。彼女の口から微かな恐怖が漏れたのを訊いた気がした。
私の心臓は今までにないくらい波打った。苦しいほどに、呼吸が上手く出来ない。何が起こったのかわからず、しかし何かイヤな予感がして、私は恐る恐る足を踏み出した。
押し殺した嗚咽のようなものが訊こえて来て、私はもはや疑いようのない事態をやっと認識し始めた。茂みに連れ込まれた彼女は、暗がりでよくは見えなかったが、誰かに乱暴を受けているのだった。
バタ付く足。
組み敷く黒い背中。
窒息するのではないかと思うほどに、密着した二つの陰。
そして、耳に届かない悲鳴。
私は咄嗟に、彼女を助けなければならないと考えた。しかし私には、腕力もなく勇気もなかった。
私は出ていけなかった。しかし、立ち去る事も出来なかった。助けを呼ぶことすら出来なかった。私は彼女が犯されるのを、ただ黙って見ている事しか出来なかったのだ。
しかも、あろう事か信じられないような好奇心に支配されてしまった。それは、彼女がどんな目にあっているのか知りたいという好奇心だった。
私は確かに彼女を好きだった。だが心の奥底では憎んでもいた。決して私の存在に気付かず、もしかしたら蔑んでさえもいるかもしれない彼女を、夢の中でだけ、何度も何度も支配した。それは誰にも言えないような夢だった。その夢と同じ事が、現実に目の前で起こっている事への好奇心。自分では絶対に出来ない事を誰かが実現している事への興味。そして彼女の肉体への憧憬。
私は息を殺して茂みに身を隠した。幸い彼女が抵抗する物音で、私が茂みに身を沈めた音はかき消された。
私はただひたすらその行為を凝視し続けた。もっと月が明るくなってくれないかと思いさえした。
日焼けしているはずの彼女の長い足は、うっすらとした月明かりの中で白く白く浮かび上がって見えた。彼女は口を何かで押さえられているらしく、叫ぼうとしても隠ったうめき声しか出ない。その声は見事なまでに官能的だった。
私の位置からは、彼女の足しか見えなかった。誰かの黒い陰によって大きく開かされた形のよい足が、もがいて暴れる。裸の足に靴下と、片方だけ脱げてしまった靴が艶かしい。
私の下半身は、既にどうしようもなく昂っていた。私はもうそこで、どんなに大変な事が起こっているのか、ということを忘れていた。私はそこが屋外であるという事も忘れて、ズボンのファスナーをおろしていた。
私のそれは、ほんの少し触れた途端に欲望を放出した。その時微かに漏れた私の声に、誰も気付く者はいなかった。
暗闇の中にあるのは規則的に動く人陰と、彼女の隠った叫び、そして暴れる白い足だけだった。
永遠のような空間で、私は何度も何度も絶頂に達した。
男が事を終えて走り去った後、彼女はしばらく動かなかった。もしかしたら死んでしまったのかと思い、私は急に不安になった。その頃には少し冷静さを取り戻し、助けに行かないまでも大声を出すか人を呼びに行くかするべきだったと悔やまれた。何故私は何もせずに、ただ覗いていたのだろう。自分のした事が信じられなかった。
月明かりが彼女の真っ白い胸を露にしていた。制服は破けていて泥だらけだろうと思われたが、暗がりの中ではよくわからなかった。
彼女は壊れた人形のように、不自然な格好で横たわっていた。足を閉じようともしなかったし、胸を隠そうともしなかった。
私はしんと静まり返った神社の森の中で、茂みから出て行く事も出来ずに、ただじっとしていた。彼女が動くまで、ここを立ち去るまで、私は茂みから動けなかった。
でももしも彼女が既に死んでいたらどうする!? 死体はいつか見つかる。その時私は、殺人容疑で捕まるのではないだろうか。そう思うと足が震えた。
しかし彼女はしばらく放心した後で、やっとよろよろと起き上がった。口に貼られたガムテープを剥がす音が、静寂を突き破って響き渡った。服装を直すでもなく、髪を撫で付けるでもなく、彼女は立ちあがったままの姿で、フラフラと歩き出した。そして、落ちた鞄をそのままにし、石畳の通路に出ると、家とは反対の方向、学校の方向、つまり私のいる方に向かって、ゆっくりと歩き出した。またもや心臓が高鳴った。
彼女は私の存在に気付いているのではないか、助けなかった私を罵倒する為に近付いて来たのではないか、そう思いながらも息を殺して身体を縮こまらせていた。
彼女が近付いて来るまでの時間が、どんなに長かった事か。
彼女が私の横を通り過ぎる瞬間、私は本当に一呼吸もしなかった。心臓が止まっているような気がした。
彼女がちらりとでもこちらを見るのではないかと怯えながら、私は息を止めていた。でも彼女は、一度もこちらを見なかった。うつろな瞳でまっすぐ前を見ていた。私は安堵を隠せなかった。
彼女の姿が完全に消えるのを待って、私は茂みから静かに這い出ると、一目散に駆け出した。もちろん家の方向へ。
何も見なかった。
何も訊かなかった。
何も起こらなかった。
そうぶつぶつとつぶやきながら、全速力で家へ向かって走っていた。


