ホラー小説〜忘却の夏

官能ホラー小説(中編)です。テーマは「男は厚かましく女は愚かしい」

第三話「贖罪」

「どうしました?」

 ナースコールの返答はすぐさまあった。

「看護婦さん、先生を呼んで下さい。今主人が一瞬瞼を開きかけたんです」

 房枝はナースコールの訊こえて来る天井に向かって、思いきり大きな声で叫んだ。

「今行きます〜」

 房枝の深刻さとは相容れない、看護婦ののんびりした返答が、神経を逆なでする。夫はあれからもう四日も昏睡状態なのだ。このまま目が覚めなかったら……。

 植物人間、という言葉がこの四日間に何度頭を掠めただろう。そんな事になったら、どうやって生きて行けばよいのか。上の娘は高校生になったばかり、下の娘だって中学二年生だ。これから二人を大学へ入れて、家のローンも支払っていかねばならないのに、植物人間などになられては一家心中するしかないではないか。

「あなた、あなた」

 房枝は夫の頬を軽く叩きながら、何度も名前を呼び続けた。

 医師が来るのが遅い。あの看護婦はきちんと医師に知らせたのだろうか。いらつく気持ちをなんとか沈めようとするが、殆ど寝ていない事と、生活への不安が押し寄せて来て、どうしても神経がピリピリした。

「あなた、早く目覚めてよ。こんなところで寝ている場合じゃないのよ」

 涙が溢れ出す。もう拭う気も起きないほど、何度も泣いた。

 房枝の涙が夫の顔の上に数滴落ちた。その時、ナースコール用のインターフォンから婦長の低い声が響いた。

「砂森さん、どういうご様子ですか?」

「早く先生を呼んで下さい。夫の瞼が一瞬開きかけて……あっ、あなた、あなた」

 婦長に向かって話しながら、ふと夫に視線を移すと、再び夫の瞼が動いていた。

「どうしました? 砂森さん? 砂森さん? 大丈夫ですか?」

 房枝はもうナースコールに答える余裕もなく、夫を揺さぶり必死に呼び掛けていた。

 何度かゆっくりと瞬きをして、私はやっと薄く目を開いた。最初に飛び込んで来たのは妻の泣き顔だ。何故泣いているのかわからない。自分が横になっているのだという事も、最初はわからなかった。

「……ここはどこだ」

「あなた、私がわかる? 大丈夫? どこも痛くない?」

「何言ってるんだ、房枝。俺は一体……」

「列車の事故に遭ったのよ。大変だったのよ。生きているのが不思議なくらい」

「列車?」

「そうよ、脱線事故だったの。一番後ろの車両は壊滅的。乗っていた人は全員亡くなったの。でもあなたはちょうど隣の車両との間にいて、あちこち血だらけで、本当にもうダメかと思ったのよ。よかった、生きていてくれて」

 房枝は感極まって声を詰まらせ、泣き始めた。

 列車……そうだ、列車に乗っていた。セーラー服の女の子が私を知っていると言った。それから、それからどうした?

「あなた、大丈夫?」

「……ああ」

「よかった」

 女の子の名前、彼女は何と名乗った? 確か……そうだ、篠山響子と言わなかったか?

 徐々に蘇る彼女の赤い唇。黒い髪。白い肌。……記憶。

「どうしたの? 苦しいの? 怖い顔」

「いや」

「今すぐ先生が来るから」

「……」

 彼女は私に自分を思い出さないかと何度も訊いた。私は思い出さなかった。何という事だ、彼女だったのだ。何故思い出さなかった!? そう、彼女の顔があまりに白すぎて、それできっと思い出さなかったんだ。でなければ思い出していたはずだ。

 思い出さなかった、それなのに彼女は私を隣の車両へ行けと突き飛ばした。何故だ!?

「一番後ろの車両が壊滅的だったと言ったか?」

 私はさっき耳の端で訊いた妻の言葉を反芻した。

「そうよ。乗っていた人四人全員亡くなったの」

「馬鹿な!? 誰もいなかった」

「え?」

「一番後ろの車両には、私と彼女しか乗っていなかった」

「彼女? 誰の事を言っているの?」

「彼女だ。彼女が私を隣の車両へ行けと突き飛ばしたんだ」

「……あなた」

「彼女が……」

「……でも、亡くなった四人は全員男性だったわ」

 私は妻の返事を殆ど訊いていなかった。

 それからどうした。そうだ、夢を見ていた。中学の時のあの悲惨な出来事の夢を。あの子は……篠山響子という名前だった。水泳部だった。

 そうだ、何故気付かなかった。彼女は篠山響子という名前だったじゃないか。しかし、三十年前に死んだ女が、突然目の前に現われるなどと誰が想像するというのだろう。

 殺したのは私だ。私のせいで彼女は死ななければならなかった。私があの時大声さえ出していれば、助けを呼びに行ってさえいれば、彼女はあんな酷い目にはあわなかった。そうだ、考えるだに恐ろしい目に遭っている彼女を、私は何をして見ていた!?

 娘を二人持った今では、それがどんなに惨い事かよくわかる。だが、あの時はわからなかった。わかろうともしなかった。

 その後だって、彼女が死ぬなんて考えも及ばなかった。だから、誰にも言わなかった。

 何も見なかった。

 何も訊かなかった。

 何も起こらなかった。

 そう自分に言い聞かせてすっかり記憶から閉め出してしまった。せめてあの後警察に通報していたら、彼女の自殺は止められたのかもしれない。いや、その前に、彼女が暗がりに連れ込まれたあの時に、大声をあげるべきだった。何もかも遅い。

 次の朝、学校のプールに彼女は浮かんでいた。あんなに泳ぎの上手い彼女が水の中で死ぬのはどんなに意志がいった事だろう。辛かっただろう。苦しかっただろう。でも息が出来ない苦しさよりももっと、あの事の方が苦しかったのだ。だから、彼女は死んでしまった。私はそれを今の今まですっかり忘れ去って生きていたのだ。

 何という事だ。彼女の名前すら思い出さなかったなんて。

「私を覚えていないんだね」

 そう言われた時、胸が締め付けられた。

 本当は忘れるべきじゃなかった。私は自分の罪に向かい合うべきだった。だが、やはり勇気がなかった。彼女を助ける勇気も、彼女を覚えている勇気も、彼女を思い出す勇気も。

 あの時、彼女が現れなければ、私は間違いなく死んでいた。彼女が隣の車両に行けと突き飛ばさなかったら、私は死んでいたのだ。

 彼女はどうして私の前に現われたのだろう。私を迎えに来たのだろうか。私の魂が確かに地獄へ落ちるかどうか、確かめる為に来たのだろうか。

 彼女は始め、隣の車両へ行く為のドア付近に立ちふさがっていた。私が隣の車両に移らないように、見張りに来たのかもしれない。それがなぜ急に心を変えたのだろう。何故土壇場になって私を助けたのだろう。彼女さえ手を出さなければ、私は死んでいたというのに。

 その時、列車が脱線する瞬間の衝撃を受けた直後、彼女の声を訊いたような気がしたのを思い出した。

「もう恨んでないよ」

 それは幻聴だったかもしれない。でも私には、確かにそう聞こえたのだ。

 涙が溢れて止まらなかった。

 あんなに酷い仕打ちをし、それを三十年もすっかり忘れ去って、のうのうと幸せに生きていた自分を、罰する事なく赦すと言うのか。

 彼女を犯したも同然の私を。

 彼女を死に追いやった私を。

 彼女の為に一度も泣かなかった私を。

 三十年間一度も思い出さなかった。それなのに、赦し助けるのか。

「あなた、どうしたの? どこか痛いの?」

 妻の声が耳に入るが、答えられない。恥も外聞もなく大きな声を出して自分が泣いているのがわかるが、どうしようもない。

 本当はあの時、我に返った瞬間からずっと、彼女を助けなかった事を後悔していた。何故あんな愚かな事をしてしまったのか、卑しい自分を何度も責めた。彼女を殺したくはなかった。彼女が好きだった。本当に好きだったのに。

 しかし私にはそれを認める勇気がなかった。私は自分が生きて行く為に、彼女を記憶から消し去った。どうせ彼女にはわからない。彼女は私が見ていた事を知らないはずだ。知らない事はなかった事と同じに出来る。そう思った。

 だが、彼女はちゃんと知っていた。私がどんなに罪深いかを。そして知っていて尚、赦したのだ……。

 私はこれまで自分の心からすら消し去っていた忌わしい出来事を、退院したら妻に話そうと思う。それで妻が私を軽蔑しても、それは仕方のない事だ。軽蔑されるに足る事を私はしたのだ。だがもしも妻が私の行いを許し、それでも一緒に生きて行くと言ってくれたら、二人で彼女の墓参りに行こう。

 彼女には一度もきちんと詫びていない。葬式にも行かなかった。今さら詫びてどうなるものでもないが、心から後悔している事をせめて告げたい。彼女を思い出さなかった事も謝りたい。そして助けてくれたお礼も。

 命と共に、死んだも同然だった私の人生をも、彼女は救ってくれた。

 生きろ、生きてみろ、と。そう言ってくれたのだと信じよう。

 そうだ、私はまだ死ねない。妻と二人の娘を遺しては行けないのだ。だから彼女の優しさに、寛大さに、本当に感謝していると、心から彼女に告げよう。

 二度と、もう二度と彼女を忘れまい。

 私は右手に力をこめた。

 私を覗き込んでいる涙ぐんだ妻と視線があった。

「心配させて悪かった。もう大丈夫だ」

 私はゆっくりと右手の拳を開き、そっと妻の頬に触れた。その涙は、血の通った暖かみを持っていた。

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